(日本語) 非記念碑的手法による記念碑のつくりかた

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本事業のタイトルr:ead(=residency, East Asia, dialogue)からも明確なとおり、このプログラムは東アジアと括られる韓国、中国、台湾、日本を出自とするメンバーの「対話」と「思考」のための場であった。この前提条件となるフレームをいかにポジティブに捉え、且つ脱構築するように拡張するかを、日本チームとして招聘された下道基行と私は強く意識して取り組んだ。つまり、最終的なアウトプットとしての大文字の作品をこのレジデンスの場で生み出すことを目標とするのではなく、その数歩手前のひとつの方向に射程を定めるまでのプロセスを如何に築くかを意識し、隣人たちとの対話の場を積極的に楽しみ、不完全で断片的なものを敢えて晒していくことに注力した。モニュメンタル(=象徴的)な「作品」というかたちを求められず、議論や思考の過程を透明化し公開していくことがのぞまれるのは非常に稀有な現場だ。それによって、直接「東アジア」ということが主題にならずとも、このような場それ自体がr:eadというプログラムを支える骨格となっていると言える。
ただ、賞味1週間のみのレジデンスへの参加だったため、結果的にはプレゼンテーションというアウトプットに向けて集中する状況にはなった。しかし重要なのは、必ずしも豊富な時間とは言えないが対話と思考のための場を公に準備していただき、それに応じる方法として、新たな方向へと舵を切るきっかけとなるいくつかのアンモニュメンタル(=非記念碑的) な断片を発見できたことだと思う。
私たちは最終的に、『「不在」のかたち─モニュメント再考』というタイトルで、オルタナティブなモニュメント(=記念碑的存在)と定義できるようなものたちを集めたアイディアのスクラップブックを制作した。誰もが一目で認識できるいわゆるモニュメントからは外れるが、異なった地点からその存在を眺めると象徴性や記念碑的性格が見いだせるものや、あるいはある対象者にとっては記憶に触れるものなど、一見明確な輪郭線をもたないがある側面からは記念碑性をもつ存在を広義に「モニュメント」と捉える、少しずらした視座を提示したものだ。

ここで、「モニュメント」や「モニュメンタル」ということばについて、少し説明したい。モニュメントとは、「政治的、社会的、文化的な事件や人物を公共的、永久的に記念するために作られる工作物あるいは建造物。また文化財関係の用語としては、遺跡敷地に対して、地上に立つ全ての建造物、記念物を含めてモニュメントという。」(ブリタニカ国際百科事典)ということだ。もう少し簡略化すると「記念建造物。記念碑・記念像など。遺跡。不朽の業績。金字塔」(大辞泉)ということになる。この原則的な意味を少々拡大解釈し、記念碑性や象徴性を生み出す私たち人間の行為に着目し、かたちを持たない「行為」などを、記憶に刻む記念碑(=モニュメント)として定義しようと試みた。強固な物質としてのモニュメントではなく、しなやかな行為や記憶をとどめるささやかでそこらへんにある当たり前の存在。言い換えると、ある特定の視座を与えられることで記念碑性を獲得するアンモニュメンタル(=非記念碑的)なモニュメントの探求を試みたわけだ。作品とはそもそも記念碑的(あるいは象徴的)な存在であるが、その記念碑へと至るプロセスにより自覚的になるということだ。

今回我々が探求したのは非記念碑的(=アンモニュメンタル)な記念碑(=モニュメント)という一見矛盾するものだ。作品を制作発表することを目的とするのではなく、作品という記念碑へと至る過程を顕在化すること、そして不特定多数のいわゆる「みんな」に向けるのではなく、もう少し特定された明確な対象に響くモニュメントのかたちを探求するものだ。そのようなモニュメントを、「常温の」「ソフトな」「かたちのない」というおよそモニュメントとはかけ離れたイメージを持たれることばで形容することで、かたちではなく状態や行為に焦点をあて、別の角度から記念碑性や象徴性を考察していった。強固な物質性や絶対的な存在感というモニュメントの既存のイメージを表象するような特徴とは正反対にある「不在」のもつ象徴性を探求すると言ってもよいだろう。絶対的な形態や存在ではなく、生成変化する「不在の在」あるいは「不在のかたち」を求めることだ。
ここで下道がこれまで作り上げてきた作品群を振り返ってみよう。第二次世界大戦までに日本中に築かれた戦争のための建造物であるトーチカや掩体壕、砲台跡などの数十年後の現在の姿を風景として捉えた写真シリーズ《戦争のかたち》(fig.1)、そして現在の日本の国境線の外側に残された鳥居の様子を捉える《torii》(fig.2)のシリーズなどがある。例えば、《戦争のかたち》に登場する機能を剥奪された戦争遺構が埋没する現在の風景は、時の経過とともに戦争を経験した世代が去っていき多くの人の意識から消えていこうとする戦争の記憶を呼び起こし、《torii》は鳥居があった場所にはかつて日本人の生活があったことを示す。どちらも本来の意味や形態の一部が消失することによって、その当時のことを想起させるソフトな記念碑(=モニュメント)として機能するものたちを捉えた風景だ。また、写真として下道に切り取られることによって、それらの忘れられた存在をモニュメント化する行為でもある。ある目的のために必要に迫られてつくられたものが、月日の流れとともにその機能を消失し、存在理由を棚上げされたかたちで風景のなかに残された。これらは保存という名目により柵で囲わたりすると、典型的なモニュメントへと変貌する。下道はそのような画一的で思考停止に陥るようなモニュメント化に対して疑問を抱き、むしろそのままの現在の風景を俯瞰的に捉え、写真として収集する行為により、ソフトなモニュメント化を計った。

fig.1《戦争のかたち》
fig1_戦争のかたち
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.2《torii》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

また、砲台跡から花火を挙げたり、トーチカを一時的にスクウォッテングするなどの方法で戦争遺構の再利用計画を打ち出す《Re-Fort Project》(fig.3)は、誰もその存在に眼を向けないひっそりと佇む遺構に遊戯的な方法で人々の眼を向け、かつてあった戦争について想いを巡らす場を生み出す。ある行為を働きかけることで遺構の機能を一時的に鮮やかに変換し、同時にその遺構群を、人にメッセージや歴史を伝えるモニュメントへとソフトに変換させるのだ。
また一方で、震災後にバイクに乗って日本全国を周遊する旅で捉えた田んぼの畦道に渡された一枚の板や、段差を解消すべく積み上げたコンクリートブロックなど、どこにでも存在する身の回りにある最小限の要素により必要に迫られて生み出されたこちらとあちらを繋ぐものを極小の「橋」と規定して、それらをスナップ的に収集していく《bridge》(fig.4)のシリーズがある。これらは多くの人は見過ごしてしまうほどささやかで当たり前で、同時に偶然つくられたものであるため翌日には消えてしまうかもしれない儚さをもつ、それこそいわゆるモニュメントとは対極にあるような存在だ。どんな時代のどんな場所にでも存在するある種の普遍性を備えた儚さや、それらを生み出す誰もがもつ無意識の創造性や美意識を捉え定着することで、やはりソフトな方法でモニュメント化していった。

fig.3《Re-Fort Project》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.4《bridge》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

その他にも雪国で道なき場所を人々が通り抜け足跡を残すことで新たに生まれた道を捉えた《crossover》なども、雪に残された足跡という数時間後には消えてしまう「かたち」を定着する行為で、これも下道らしいモニュメント化と言える。つまり、下道は本質的にアンモニュメンタル(=非記念碑的な)な存在である忘却されたものやかたちが消え去ってしまうような不在にかたちを与えるように、ソフトなモニュメントを作品化により生み出し続けてきたのだ。
この延長線上で、「不在」そのものの在り方を探求するよう、より意識的にアンモニュメンタルなモニュメントを生み出す過程を、r:eadという対話のテーブルに持ち出すことで、共有や断絶を経て、新たな方法論を獲得することを試みたのが、本プロジェクトのフレームに対するひとつの回答と言えよう。
最終プレゼンテーションにゲストとして参加したメディア批評家の桂英史氏は「モニュメントとは必ずサイトスペシフィックである」というようなことを簡潔に述べた。そもそも下道と私がこれまで取り組んできたことは、それぞれ職能に違いはあれど、サイトスペシフィック/モニュメントとは切っても切り離せないもので、この桂氏の発言は事後的に我々の活動にひとつの補助線を与えてくれた。

次に私のこれまでの活動にも少々言及したい。私の拠点はアーティスト・イン・レジデンスを主事業とする小さな機関なので、その性質的にも大多数の人というよりは、必要性を感じる人に向けるものを探求してきた。レジデンスでは最終的な展覧会や完成された作品を記念碑(モニュメント)として生み出すよりは、そこに至る過程をいかに経験するかが重視されると信じているため、その経路のよりよい設計を継続して考えてきた。なんとなく大きな規模でひとつの明解なものをつくり出すことのみには違和感や懐疑をもっていただけでなく、限られた条件の中で別の道や別の方法を生み出すこと、つまり制約のなかで「オルタナティブ」な道を探る方向にずっと興味があったため、必然的にいわゆる記念碑的なものではない方法で、かたちを与えることを実践してきた。
また、これまで約10年近く山口や青森という小さな地方都市を拠点として活動してきたわけだが、なぜそのような選択をしたのかが今回のr:eadを経て少しだけ自分のなかでクリアになったので、ここで少し述べておきたいと思う。そもそも今に至るきっかけは建築を学んでいた大学院時代にバルセロナで一年間生活したことにある。そこで最も印象深かったのは、その地に住む人々の価値観の持ち方だった。歴史ある都市だが現在の地政学上はヨーロッパの周縁の土地と言わざるを得ないこの都市では、「周縁」であるからこそ持ち得る伸びやかさと多様性を知った。新自由主義的な思考からは軽快に距離をとり、経済活動や利便性ではなく、その場所らしい生活を築くことに対する個々人の意識の強さが非常に新鮮だった。時間に対する感覚も、どこか主観的で時計の刻む時に縛られない感覚が興味深かった。明らかに異なった価値観があった。この経験がきっかけで、日本において戦後の資本主義経済を基礎とする体系のなかでは周縁と位置づけられる地方都市の存在や可能性を意識するようになった。その結果として、本州の両極の土地にこの10年自身の身体と生活の拠点をおき、芸術を起点として地方という問題と可能性を探求することとなった。それは、大きな物語ではなく小さな水脈を発見し繋げていくような試みであった。そしてか弱いけれど様々であるということを、多様性と複雑性という価値として捉えたいと考えてきた。

この背景には「批判的地域主義(=Critical regionalism)」 という考え方の影響がある。この表現は1980年代に建築理論家であるアレクサンダー・ツォニスとリアンヌ・ルフェーヴルが最初に見出し、彼らとは若干異なった用法で建築史家のケネス・フランプトンが用いて建築論を展開したことで広まっていき、近年ではガヤトリ・スピヴァクとジュディス・バトラーがカルチュラル・スタディーズや政治理論にも援用している。フランプトンは、現代文明を肯定しモダニズム建築が持つ普遍的・進歩的特質を批判的な視点を持った上で受け入れ、同時にその建築の地理的文脈に価値を置くべきとしている。建築における無場所性や場所のアイデンティティの欠如を、視覚だけでなく触覚や聴覚など身体感覚に総合的に訴えかけることで地域的特色を与え、抵抗の建築として独自の存在が成立しうると提唱した。もちろん現在の社会にフランプトンのこの思考を単純に適用することは安直過ぎるが、グローバリゼーションの進行と様々な格差問題が噴出している現在において、そのような大きな流れに不用意に巻き込まれないための「抵抗」の手段として個別にこの思考法を適用することは有効であると考えている。
神話的なひとつの大きな物語を描くことに価値を見出せなくなった現状において、まず自らの足下を見直しそれぞれの土地がもつ小さな可能性を引き出し、情報環境の発展とともにどんな場所や人とも比較的容易にダイレクトに繋がれるということを認識することで、適切な場へとその可能性を接続していくことができるだろう。つまり別の場所、別の可能性への接続法を見出すことで、単純に現状を嘆き否定するのではなく、抵抗の手段としてオルタナティブをもつことが重要だと思うのだ。私はそれを大きな記念碑的な救済のようなものに求めるのではなく、小さくてもいくつもの方向性をもつ自発的で内発的な活動として探求していきたいと考えている。

ここで、昨年キュレーターとして関わった十和田奥入瀬芸術祭 を少し紹介したい。この芸術祭は、芸術祭と呼ぶにはとてもささやかな規模と予算で、人口六万人強の小さな地方都市である十和田市で開催されたものだ。会場は大きくふたつに分かれており、ひとつが十和田市中心街に位置する十和田市現代美術館、そしてもうひとつが中心街から車で30分程の距離にある十和田市周縁の奥入瀬・十和田湖エリアである。十和田市中心街では現代美術館がオープンしたことで来場者数が毎年増加しているが、一方で80年代を全盛に観光地として栄えた奥入瀬や十和田湖周辺は、観光産業が大きく衰退し、就業人口も落ち込み深刻な状況となっていた。十和田市内でも中心と周縁において大きな格差が生まれているのが現状だ。芸術祭では、衰退してしまった市周縁部を盛り上げようという意図もあり、美術館だけではなく、奥入瀬エリア一帯が会場となった。奥入瀬や十和田湖には、とても美しい風景があって、それは観光産業がいかに衰退しようが変わらない財産である。そしてこの自然も実は人間が関わることで維持されている風景であり、自然とはどういう状態かをも考えさせられるものである。ただ、どんな資源を持っていようが、結局それを誰に向けてどのようにアピールするのかがある程度クリアにならないと、その価値は届かない。バブル崩壊後に、企業の慰安旅行や旅行代理店がパッケージを組む団体旅行が廃れていき、現在のようなより小さな単位(個人や家族や近しい友人)での旅行が主流になってきた状況に対しても、結局団体旅行に対応した観光地の在り方しか提示できなかったこのエリアが衰退したことは必然といえるだろう。存在しなくなった対象に向けて発信しても、それは届かない。
そのような背景を考慮に入れながら途方もなく広いこのエリアを巡るなかで見えてきたものは、いくつかのモニュメントだった。十和田湖畔に建つ高村光太郎による《乙女の像》、奥入瀬エリアに多数存在する大町桂月による句碑などの記念碑群、あるいは十和田神社などの建造物や、《雲井の滝》のように名前を与えられた奥入瀬渓流沿いの滝や流れ、岩などの名勝が挙げられる。これらが十和田奥入瀬の表側の美しい歴史を湛える正のモニュメントだとしたら、その裏には廃業した無数の旅館やホテル群などが負のモニュメントとして存在する。通常の観光旅行では正のモニュメントのみが人目に触れ、負のモニュメントは往々にして覆い隠される。しかし、この負のモニュメントにこそ、地方都市が辿ってきた歴史や、なぜ現在の状況に陥ったのかを示す様々な手がかりが潜んでいるはずだ。グラウンドゼロやアウシュビッツ、あるいはチェルノブイリなど災害被災跡地や戦争跡地などを巡る、人類の死や悲しみを対象にしたツアーを「ダークツーリズム」というが、このような歴史的な悲劇や負の歴史を経験することによって理解できることは多数あると思う。近年では東浩紀らによる福島第一原発観光地化計画なども、批判もあると思うが、ダークツーリズムによりフクシマという負の遺産としてのレッテルを貼られようとしている場所を復興していくひとつの可能性と批評性を備えた方法であると思う。また、芸術祭に参加したPortBを主宰する高山明は、Port観光リサーチセンターという団体を実際に一般社団法人として設立し、そのリサーチ活動の一貫として十和田奥入瀬にて観光にまつわる言論イベントを開催し、翌日からはそのドキュメント映像を、イベントを実施した同じ場所に同じ時間で展示作品と上映した。
奥入瀬エリアのように団体旅行の減少とともに衰退していった観光地は日本全国に多数あるだろう。そのような土地にアート作品という新たなモニュメントを多数設置して、それらを巡礼する旅行のかたちは越後妻有や瀬戸内などですでに試みられ、たくさんの観光客を獲得し、芸術による地域や観光の再興の一種の成功モデルとして捉えられている。しかし十和田奥入瀬においては、そこにある歴史や負の経験を新たなモニュメントで覆い隠す上述のような方法ではなく、現状を肯定することからスタートしたいと思った。既にある負のモニュメントを何らかのかたちで再生し、正のモニュメントとともに公開することで、その土地のきれいな表面だけでなく裏側にある現在の困難も含めて見てもらえる方法を模索し、いわゆる巡礼の記念碑としてのアート作品の設置を排除したものが、十和田奥入瀬芸術祭であった。もちろんその理念とは裏腹に、実現できなかったことは多々ある。しかし、その土地や建物などが辿ってきた歴史から目を背けることなく、それらが発するかすかな声に耳を傾けることで、見えてくる地域の未来というものもあるのではないかと思っていた。
サウンドアーティストの梅田哲也、パフォーマンスユニットのコンタクトゴンゾ、そして写真家の志賀理江子という3組のアーティストが半年をかけて協働によりつくりあげた、数年前に営業を休止したホテルの建物一件をまるごと作品化した《水産保養所》(fig.5)は、まさにそのような芸術祭の態度を象徴する、アンモニュメンタル(非記念碑的)なモニュメントであった。この作品は、半廃墟になったホテルをアーティストが徹底的に掃除をし、不必要なものを取り除くことを基本とした。「引き算の方法でつくる」と表現していたが、作品らしきものやオブジェクトのようなものを付加することを避け、水の流れを変えたり、光を導きいれたりというような方法で、機能を失った建築を少しずつ周辺環境に近づけるような作業を施していった。極端に要素が剥ぎ取られたホテル内を巡ると、静かに流れ落ちる水の音が聴こえ、天気の良い日は様々な光が入り、不穏な空気を感じることもあれば、清々しい風を受けることもある。人工と自然の中間のような不思議な状態で、廃墟や遺跡のようにも感じられるし、一方でバブル期のホテルの様相も垣間見える、不思議な場の経験がある。舞台のクライマックスのような象徴的で誰もが盛り上がるような状況は訪れることなく、淡々とささやかな変化のみが連続する。壮大なスペクタクルを徹底的に排除された空間は、ある種のパラレルワールドを経験する感覚にも近い。一切何もないようだが、そこには神経を研ぎ澄ますと見えてくる、聞こえてくる、香ってくるささやかで豊かな経験がある。スペクタクルなモニュメントではなく、非スペクタクルでささやかな経験を生み出すこと。明確で壮大なかたちではないが、目を向けよう、耳を傾けようとする人には、豊かに響き、その経験を記憶に刻みこむオルタナティブでアンモニュメンタルなモニュメントである。目玉となる屋外彫刻のようないわゆる記念碑的モニュメントを設置することなく、奥入瀬という地域に流れる時間や開ける空間をアンモニュメンタルな作品群を通じて経験してもらうことが、地方都市でのこの芸術祭の試みであった。

fig.5《水産保養所》

Courtesy of the artists, Taketoshi Watanabe and Towada Art Center

そのような経験のうえで、私とは異なった角度から「モニュメント」の在り様をその創作活動を通じて探求してきた下道基行と一緒に、対話と思考のためのr:eadという場で、記念碑的な作品づくりではなく、現状を徹底的に共有することで新たな展開の可能性を模索してきた。お互い35歳という年齢に達し、これまでの約10年を振り返りつつ、その先へと向かうためには充分な刺激を与えてくれる隣人たちとの時間はとても貴重だった。下道のことばを借りるなら、「未来において開封されるべき」新たなモニュメントの在り方を探求してきた。なにか大きな結果をこの場で生み出すよりは、その思考過程をとにかく吐き出していくことを意識した。まだ確信が持てないような孵化したての脆いアイディアを、敢えてアートのプロフェッショナルである隣人たちにとにかく躊躇せず開示することで、迷いや違和感、怪しさまでも共有しながら、新たな途を探り続けた。作品や展覧会のように高次に結晶化したものを求められることなく、そうではない「もやもや」やモニュメント的な状態に至っていないものを開示することを議論にあげることを求められるのは非常に刺激的な経験だった。安易に理解できると思われる結果のみが求められやすい現在の社会において、そうではない試行錯誤や不可能であることや失敗までを肯定できるこのような小さな抵抗の場がもっと公につくられていかなければならないはずだ。紛争などは、お互いが向いている方向が少し違っていることや、些細な事柄の不理解が引き金となって引き起こされる。r:eadのような場は、大きな総意や神話的感動を生み出すわけではないので、一見不毛に思われるかもしれないが、このような小さな抵抗の現場にこそ、諸問題に対する異なった解決法を提示できる可能性は開かれているかもしれない。アーティスト・イン・レジデンスとはそもそもそのような創作のプロセスに意識的になるためのアンモニュメンタルな場であるはずだ。そのプロセスに最大の価値を置くこのような場が、最も純化されたオルタナティブなアーティスト・イン・レジデンスの方法として、様々な場所でそれぞれの方法で築かれ発展していくことを切に願う。

試著漸漸地解開雜亂的錯綜麻繩

基本上,r:ead並沒有展示會場,因為這個活動本身,其實並不需要像人們展示自己的作品。這對於藝術家來說,相當於沒有「必須要製作一件供人觀賞作品」的強制性要求。而這樣的方式,為我們各自進行自己的實驗提供了一個空間,是一個非常有趣的企劃。(雖然強制性的要求,也確實可以催化某些作品的誕生。)
通常,留宿在外的這種駐地創作,一般會先決定好一個題目,然後花幾個月、甚至幾年的時間,進行當地研究、實地考察,進而了解這片土地或者場所的特徵,最後將作品也展示在當地。如果在短期內要求完成作品的話,那創作者便會結合自己熟悉的創作手法去創作。而r:ead既包含了為尋找共同題目的小旅行,也可以自己企劃旅行活動,只是短短四周的時間如流飛逝。所有人進行對話的地方,是一個類似於教室一樣的房間。我們聚在一起的時間,大都在這個教室裡度過。雖然說不上是好是壞,但每當走進這間教室,我總會忘記這裡是日本、是東京。教室的桌子被圍成圓形,就像一個小型的中日韓台高峰會。
最開始,我誤以為坐在這裡的每個人,也都是各個國家地區的代表。而後來,漸漸地我發現其實我們每個人各自都有著複雜的關聯,雖然從不同的角度被教育著、學習著這個世界,但其實我們僅僅只是來自於相同年代的不同個體而已。中日韓台不是只有四面,它永遠都是個多面體。
在活動的最後一天,我們一起聚在池袋一家叫做「延邊」的中式餐廳。延邊是大陸東北距離北韓國境不遠的一個地方,住著很多朝鮮人。雖說是中餐,但端上來的餐點卻盡是辣羊肉、開胃菜的醃白菜、以及花生等。既像中餐、也有點韓式風味,卻又不能稱之為中餐或是韓國菜。味道既是如此,人便更是有著多面的層次感。

這次活動的不同之處在於,雖然中日韓台來自各個國家地區的人聚在一起,但卻也提供了一個讓我們離開自己的群體、以一個獨立作家的身分,和不同群體的人們相互面對、討論、以及思考問題的場所。
我們就好像是在某次旅行中,碰巧湊在了一起的同伴,跨越國境,漫不經心的互相傾訴自己的成長歷程、工作、或是家人的故事。我們借此切實地感受著彼此生活、處境的差異、並共同度過一段旅程,然後告別。這次活動,一直都瀰漫著這樣的感覺。前幾天在飛機上,碰巧看了《迷失東京》這部電影。隨著電影,我的心中,不由得出現了一個想法。某次邂逅,發生在各自生活圈之外,對所有當事者來說是「別處」的地方,這樣具有戲劇性的故事。而r:ead就是這樣的場所。並且,正是因為如此,我們才可能做到超越自己的立場,相識相知,作為一個獨立的人,去接受彼此的差異,去接近彼此。
所以,這次我儘可能的去和我的作家同伴們一起吃飯,一起喝酒,一起聊天。當然,我並不覺得這是我的義務,我只是喜歡這樣。借著這樣的機會,並不是像往常一樣直入製作的主題,也正是因為這個機會對製作沒有要求,所以才能通過邂逅而自然產生靈感,我想我也許一直在等待著這樣的時機。特別是我經常和孫遜(中國作家)打著「深夜會議」的旗號,斟酒對飲。就像是回到了大學獨居生活的時代,歡聲笑語,非常愉快。
活動最後一天,在大家的最終發表結束後,孫遜給我們念了一首中國古詩作為他的感想。那是陳子昂的《登幽州台歌》,詩中悲道,「念天地之悠悠,獨愴然而涕下。」這是一首創作於中國唐代的詩,我總覺得有那麼一部分情節可以讓我聯想到r:ead這一個月來得交流活動。就是這樣一首在最終公開發表會上的即興詠詩給會場掀起了一個小高潮。第二天,作為唐詩的回應,我在教室裡當著大家,給孫遜朗誦了動物寫真家星野道夫的隨筆《另外一個時間》中的一句話,「人們在面對大自然而感動之時,唯一能夠留下的,或許只有自己的改變。」我想這可能是我人生的第一次朗誦。
在這次活動中,和我合作的策展人是服部。他有著在藝術村工作10年左右的經驗,並且自己運營著一個小的工作室。他在與作家的共同作業和駐地製作方面很有經驗和見解,所以我認為這次邀請他來擔任我的策展人是非常正確的選擇。我和他一邊巡遊了一些場所,一邊談論了起了各自的過去,甚至未來。
我去年年末剛剛結束了一個耗時六年的系列作品,現在的我對自己一直以來的製作素材、創作手法、以及主題都抱著審視的懷疑態度,同時我也開始準備接受新的挑戰。在這次活動中獲得到的東西,它們會偶爾體現在我與別人的對話中,或是展現在一些新項目的企劃會議中,這些東西漸漸地開始,一點點的滲透到我的思想中。但是,要想把它們變成一個可以用眼睛看的到的物體、或是一段不會讓人感到疑惑的條理清晰語言,可能還需要一些時間。

其實這次活動最大的成果,我想大概就是活動參加者各自內心的變化。這些微小的內心變化,在成為一個可以讓外人也能看得見摸得著的存在之前,可能都還需要時間。而且,我這裡提到的活動參加者,並不只是作家和策展人,還包括有在場的所有翻譯、工作人員、以及活動策劃人等。

不管是什麼樣的企劃,都會或多或少的受到企劃者和提供支援者(國家、城市或者是企業)的限制或是控制。我們必須要認清這種前提,才能使自己不被捲入這樣的限制以及控制之中。r:ead無疑是一種駐地式的製作環境,但是所有的語言都會先被翻譯成日語,再進行轉換。這樣的操作方式,就像「東亞」這個詞一樣,似乎有些許過於「大東亞帝國主義」(對比以歐美為中心的帝國主義)了。從活動一開始,我就幾度抱有過這樣懷疑的態度。但r:ead就像是一艘飄渺不定的船,它孕育了很多種可能性。掌舵的是所有參加者的對話,這一點很有意思。儘管這個活動才剛剛開始,但是如果這樣的企劃繼續進行下去, 它必然會向著更深層的形式發展。比如這種活動或將舉辦在鄰處的某國,而日本則是赴約出席。如此一來,各種不同活動的經驗積累,也許會將鄰國之間的國際關係,從否定或排除開始,轉而發展到在互相尊重的基礎上進行。甚至我也會感到,我也許就是為了能夠將這種交流方式實現成真而參加的這個活動。

如今,我們正面對著一種錯綜複雜的國際關係。隨著政府和媒體的左右,多數國民的感情就像是下黑白棋一樣,時黑時白、翻面變色。甚至還有人故意將這些本就糾纏不清的關係,變得更加混亂。只是,借r:ead這樣的機會,我們每個人心中都會由此而生一個平衡桿。我們今後也將繼續互相給予彼此刺激,維持平衡。哪怕即將面對的是一個暴風雨的時代,這根平衡桿也會在我們各自的國家根深蒂固。

而對我來說,這次活動給我機會去懷疑自己老套的手法,給我時間和鄰國作家們互相交流,這對我來說就像是解開亂麻的過程。期待我們還會在不遠的將來相會。

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滞在時東京に降った記録的大雪を固めた雪碑(冷凍庫に保存中)

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服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

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服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

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服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

世界觀的重新構造:東京荒川線物語

當今之世,面對新自由主義下的國家治理、話語政治和資本主義的細緻發展,特別是在亞洲的發展,如何構造穿越民族國家、穿越意識型態、穿越消費擬像的世界觀,當代藝術的生產聯結,跨越過重重擬像的沙漠,或許是結合潛在力量的最佳佈署起點。

最近的一個例子,是2014年3月8日在Tokyo Wonder Site開幕的「亞細亞安那其連線」,分別在澀谷、本鄉等地展開。與台灣反核大遊行與311福島核災事件三周年同步,袁廣鳴在Tokyo Wonder Site的新作。令人驚喜!他的全新作品中,有高角度平滑空拍鵝鑾鼻附近的核電廠、蘭嶼的核廢料廠,映照著龍頭岩坡上的成群安靜面對海洋的山羊、海灘上無聲的人群,看到這一幕時,我心想:坡上的山羊和我們,原來離核廢場與核電廠那麼的近。然而,朗島國小、海與湧浪、綠色的山丘,圍繞的卻是一間充滿靜電爆聲的無人控制室,彷佛幽靈在場,令人發寒。

在反核的聲浪中,這應該是最安靜純粹的異議吧,然而它卻東京一隅爆發著最大的震顫噪音。

陳界仁《路徑圖》中的虛擬高雄碼頭罷工者,默默傳遞著「世界就是我們的罷工線」的抗議牌,穿越過高雄碼頭的鐵絲網,也在展覽現場呈現相當高的力度,這種影像行動,落實了亞細亞無政府連線的具體內涵,在概念上對於世界觀進行藝術性的重新構造,不僅梳理了這十年來台灣當代藝術持續進行的世界觀換血行動,在行動上,也具體跨越了亞洲國族主義的籓籬,跨出了台灣,吳達坤的策展,經過了將近兩年的努力,捕捉到了當代「亞洲」概念上增強的聯結點。

中青世代的姚瑞中、年輕世代的藝術家張立人、陳敬元、陳擎耀、杜珮詩、葉振宇,亦不遑多讓。其中張立人的《戰鬥之城》,以細膩的實體城市系統模型動畫,諷刺做為帝國幹部的台灣,如何疊合著世界警察在台灣的實際操控而存在。這種世界觀的思維,可以說是過去所謂的「動漫世代」的台灣進化版。TOKYO WONDER SITE本鄉展場中杜珮詩的新作,《世界博覽會》(World Expositions),以1970(大阪)、1975(沖繩)、1985(筑波)、1990(大阪)、2005(愛知)的宣傳海報為底稿,將當時的世界大事件,以網路搜集、文圖交叉密集度為線索,進行訊息選擇下載列印,再加以去背圖像方式剪裁,通過其慣用的紙動畫手法,黏貼於縮小為A4大小的底稿上。

對照著杜珮詩先前的《玉山迷蹤》系列動畫,將原先博覽會的海報縮小,變成下載世界訊息的小平台,我們看到了13屆卡塞爾文件展中,Geoffrey Farmer剪裁LIFE雜誌50年(1935-1985)圖像《草葉集》(Leaves of Grass)的另一種手法,這裡呈現的,不再是美式生活的世界觀,而是日本如何構造其以東亞為基礎的世界觀,不再是美國的新前衛與普普氣氛,而是台灣與東亞條件下的當代世界觀構造的片斷過程,當然,就冷戰架構而言,其中不乏美國要素的頻繁出現。

杜珮詩這組作品將於3月12日於「r:ead東亞對話駐村計畫」(Residency: East-Asia Dialogue)中作期末發表,就處理「表皮訊息圖像」而言,我覺得是概念非常準確的作品,色彩配置十分吸睛,將日本傳統講究素樸的美學基底,補上現實濃厚訊息的組裝,不知怎麼的,使我覺得她跟Anselm Kiefer佈滿德國浪漫主義文化精神名字的幽靈之畫,與那種冷練的、廢墟空無式的當代二戰反思,形成一個高度的亞洲式反差。

由於此刻我受邀在這個計畫中,與杜珮詩對話,亦與其他日、韓、中的藝術家與策展人展開東京對話,因此,我也在思考,就一個評論者的角度,如何不完全依附在藝術家的既成作品上,而形成自己重新構造世界觀,我以為,世界觀的重新構造,必須在特有的文化藝術基底上,提汲出世界史思想的新觀點。

從台灣既有的文化藝術基底來看,我提議的是:如果1980年代的台灣新電影,曾經,而且還繼續是許多亞洲與歐美評論者關注與熟悉的文化成就,我們或許可以嘗試透過台灣新電影,做為重新構造世界觀的思想養分。

來到東京之前,我透過網路觀看了蕭菊貞導演所拍攝的紀錄片《白鴿計劃:台灣新電影二十年》(2002),這部片子引領我進入台灣新電影的世界。今天看來,有許多當時的時代氛圍,當時的製片過程、政治檢查與文化鬥爭,很仔細地留存了下來。我們可以看到始於1982年,只有450萬輔導金的《光陰的故事》,到1987年的台灣新電影導演宣言提出為止,吳念真、小野、侯孝賢、楊德昌、曾壯祥、張毅、陶德辰、柯一正、朱天文這一批年輕人,如何在非常有限的條件下,面對國民黨文工會系統與電檢制度,經由明驥在中影的人才組裝,創造出了這些文化的奇花異果。不過,如果從亞洲或世界的觀點來看,可能在今天會台灣新電影有不同的評價。

紀錄片導演王耿瑜在新電影30年後,再一次進行了對新電影的回視,但這一次,如同台灣的年輕藝術家一般,在觀看她正在拍攝剪接的部分版本後,我很驚訝地發現:有些事情太貼近了看,不會有新觀點,新電影的相關爭議,在二十年後看,可能會像《白鴿計劃:台灣新電影二十年》那樣,讓我們得到很不一樣的結論。然而,若我們三十年後再看呢?我想,新電影的美學力量在哪裡,重點還是在於看的角度有否變化,以及新電影中的亞洲與世界觀,究竟有何特異性吧。

王耿瑜的努力過程,讓我驚訝之處,在於她的試剪影片中,日本導演是枝裕和、法國導演阿撒亞斯、中國導演王小兵、賈樟柯,義大利策展人慕勒、日本映画大學佐藤忠男校長、香港導演與影評人舒琪、藝術家艾未未,甚至有阿根廷的影人,在新電影三十年後,仍然眾口同聲肯定了新電影對他們的影響、對亞洲的影響,以及新電影的世界性。原來,有一整代的世界文化人接觸到了台灣新電影,受到它們的影響,得以窺見當代華人的生命情境。

從亞洲與世界的觀點來看新電影,給我的震撼是:從國片輔導金制度、商業價值或商業平衡這些島內的外部因素角度看台灣新電影,似乎並不能彰顯台灣新電影的內在價值,或許,在過去的這些爭論中,我們並不缺少對市場動向的關注,我們缺的是世界觀吧。因此,如何從亞洲史、世界史的角度,重新回看1980年代的台灣新電影,最近成了我的功課,一門有趣的新功課。

是枝裕和在王耿瑜的訪談中,提到了一段他的童年往事。小時候,他們全家在吃鳳梨或香蕉時,他的父親在吃了幾口後,總不忘喃喃自語一陣:還是台灣的香甜。年幼的是枝裕和,並不了解父親這種叨叨絮語,背後有著什麼樣的心情。及至成長中,偶然間看到了侯孝賢的《童年往事》(1985)熱天裡大家吃西瓜的片斷,他才恍然大悟,哦,原來父親的喃喃自語中,包含著父親在台灣出生成長至青少年的幸福回憶,包含著對台灣風土與故鄉般的懷念,正因為如此,父親才從來不提他在戰爭爆發後流轉至中國、東北,之後回到日本的經歷。就此而言,亞洲性可能潛存於熱帶水果在電影中生產出的異質力量。

賈樟柯在訪談中說了一段話,值得反覆提醒著自己說「新電影已死、新電影已經過去了」的我們再啟動思考。他說:「新電影當然是結束了,沒有什麼值得留戀,但是,可惜的是一種屬於電影的生活方式消失了。」然而,什麼是新電影的生活方式呢?從製片方式、生產流程的更新,從侯導賣房子拍片,楊德昌為了一段車輪胎慢駛壓行馬路聲,夜奔陽明山錄音的執著,從表演方法因為長鏡頭長時間遠距演員入鏡,而不得不全身投入的特異狀態,從楊德昌看了《風櫃來的人》(1983)之後,在侯孝賢欣然同意下,重新做了配樂,從當下城鄉現實與交通景象的入鏡,從同步錄音收錄的環境音景,從日語、台語、客語大量進入電影對白中,我們都感受到一種強烈對準當下、注目當下,卻又能輕盈跳離、提出影像觀點的電影生活方式。簡單的說,就是一種強烈的、創造的個體性的世界,冉冉浮現。

侯孝賢與小津安二郎的美學對話,是枝裕和的承續浸潤;阿撒亞斯說楊德昌中的情境在倫敦、巴黎、紐約的人間亦有本然相同的呼應;這些深度的創作性對話與現代性人間處境的共振,難道不是某種已然成形的嶄新亞洲世界觀嗎?我在東京的荒川線的單節夜行列車上,如是懷想。同時也想著2003年侯孝賢為紀念小津安二郎百年而拍攝的《咖啡時光》,片中的一青窈,懷著不知名台灣男友的身孕,搭著電車,有著什麼樣的孤獨心情。

世界博覽會

這次的r:ead東亞對話駐村計畫中,我以「世界博覽會」做為概念出發,創作了一系列紙上拼貼作品。首先我收集了自1851年以來,日本所有曾參與過的世界博覽會的宣傳海報,包括1970年以「人類的進步與和諧」為主題的大阪萬博博覽會,1975年以「海–充滿希望的未來」為題的沖繩世界海洋博覽會,1985年以「居住與環境,人類居家科技」為題的筑波世界博覽會,1990年以「人類與自然」為題的大阪園藝世博會,以及2005年以「自然的睿智」為主題的愛知世界博覽會。將這些海報影像以A4文件大小呈現,然後拼貼上所屬當年度發生的各類重要國際事件網路影像,讓這些下載列印出的圖像所傳遞的訊息意義在同一視覺平面上彼此交疊。以下是博覽會主題與部份事件的相互對照:

1970年–「人類的進步與和諧」–披頭四樂團解散 / 巴勒斯坦組織劫持五架飛機 / 肯特州立大學槍擊事件(反美軍進入柬埔寨)/ 反越戰運動 / 磁碟發明 / 金星七號降落於金星表面 / 東方紅一號人造衛星發射成功

1975年–「海–充滿希望的未來」–黎巴嫩內戰爆發 / 微軟公司創立 / 首批越南難民隨船進入香港 / 國際婦女年 / 阿波羅聯盟測試計畫開始執行 / 越戰結束 / 波爾布特任職柬埔寨總理

1985年–「居住與環境,人類居家科技」–鐵達尼號失事殘骸發現 / 內瓦多.德.魯伊斯火山爆發摧毀阿爾梅羅鎮 / 南極上空發現臭氧層破洞 / 戈巴契夫出任蘇聯共產黨總書記 / 新配方的可口可樂上市 / 探索頻道創立 / 愛滋病毒血液測試被認可

1990年–「人類與自然」–野百合學運 / 東西德統一 / 納爾遜.曼德拉出獄 / 哈伯望遠鏡發射至太空 / 萊赫.瓦勒沙就任波蘭總統 / 葉門統一 / 梵谷著名作品「嘉舍醫師的畫像」創下有史以來藝術品拍賣最高價格

2005年–「自然的睿智」–卡崔娜颶風重創紐澳良 / 倫敦七七爆炸案 / 印度寺廟發生踩踏事件 / 美軍紅翼行動慘敗 / 義大利女記者賽格利納救援行動 / 小泉純一郎就任內閣總理大臣 / 加拿大成為第一個同性婚姻合法的國家

透過觀察日本舉辦過的世界博覽會中海報所呈現出對世界的想像,與現實世界所發生的事件,可發現二者之間有時隱約相互呼應,有時更像是一種諷刺或對照。在這件作品中,我一方面對想像背後所隱含的時代意義與氛圍很感興趣,另一方面也透過創作,觀察日本如何構造以東亞做為基礎的世界觀。

亞洲觀點的出現與西方中心論有很大的關係,不同於以基督教文明與工業革命為背景統合的歐美概念,亞洲概念是多元混雜且不具一統性。這次駐村後我對於在藝術領域中亞洲問題的思考大致有以下兩個方向:一是為什麼當代藝術需要關心亞洲?若區域問題在五、六〇年代已被大量論及,今日的討論是否可以找出新的面向。身為一位藝術家,我認為必須先以「藝術」本身做為純然的概念思考中心去看待亞洲。二是今日我們是否需要形塑另一個帝國?90年代興起至今的雙年展風潮,可見透過亞洲區域的雙年展形構亞洲觀點的意圖,藉以擺脫歐洲觀點,掌握新的話語權。這種亞洲圖像的統合是否有其必要性,亦或讓差異持續存在,更能產出創新的可能性,或許也是值得思考的部份。

生在這個時代,處於東亞的我們,應該採取什麼行動?

2013年12月、2014年2月所舉辦的r:ead藝術駐村,給我一個很好的機會,可以在最重要的時刻,和最重要的人士一同渡過。這個論壇之中,共邀請了4名年輕的藝術家、4名年輕的策展人、r:ead藝術駐村總監相馬千秋、以及各位活躍優秀的工作夥伴。他們特地空出了寶貴的時間,與我們一同探討當代的藝術和社會相關的重要議題。在活動的議論之中,與談者在理解過去的藝術及社會架構的基礎上,再進一步地從各個角度進行了批判。從年輕人隨性的發言和簡短的資料中,我感覺到強烈的夥伴意識。

今天是第二次世界大戰正式結束的紀念日,在我身處的荷蘭阿姆斯特丹以及歐洲各地,舉辦了許多大大小小的紀念活動。二戰之後,世界總算可享有和平的時光,但對人類來說,卻還有許多問題尚待解決。前些日子,南韓發生了客船「世越號」的沈船事件,一群懵懂無知的青少年,就在無聲無息間失去了寶貴的生命,令我深感痛心。

在悠悠的歷史長河之中,我在世界上也只不過是個短暫的過客。這次的沈船事件,促使我再次開始思索人生本質上的問題。人生於世,與其企圖大幅改變世界的樣貌,還不如好好地把握活著的時光,思索如何才能活得更有價值。換句話說,就是在生命結束時,完成一份有意義的工作。

一個人終其一生,如果能夠竭盡所能地深究追求真正的價值,那麼他所有的行動,和付出的心血,都理應獲得掌聲。不論他們創下的價值,是屬於藝術領域、社會領域、還是在政治領域。藉此機會,我想再次強調,本人想在r:ead藝術駐村中推廣的概念,其實全部都源自於同樣的邏輯思維。

我個人將自身的價值定義為「正面的變化」,世界無時無刻都在改變,個人和團體的能量,都產生自這個變化的過程。另一方面,停滯即意指死亡的到來,生命的結束。人類的生活,其實正取決於這變化的能量,這個概念恰巧與熱力學第一定律能量守恆的原理一脈相通。人類和社會集團在面臨變化的階段時,體內即會分泌幸福的腦內啡。而當現狀有所改變,希望油然而生之際,身為社會上的一份子,自然也會有幸福的感覺。如今人類的物質文明,很明顯地已進入一個轉變的階段。在這個時刻,正需要大家絞盡腦汁,貢獻出自身的智慧,才能將這個變化,導向至一個積極正面的方向。

我想藉著在r:ead的研究調查,直接或是間接地接觸一些和我理念相同、並在學術上、行動上、藝術領域上有所貢獻的人士,以擬定今後人生的方向。(這也可以算是整個作業的研究方法。)這個月起,本人在韓國也會展開同樣的研究活動。
這次的研究成果,我將善加活用,並積極地與大家分享,以發揮其最大的效用,絕不會只將這成果收藏至個人的資料庫中。在此同時,也希望這個研究活動本身,能成為一個多層次的文化藝術的交流媒介。今後,我將竭盡所能地完成剩下的研究工作,也會思索要如何才能將這個研究活動轉為一個充滿正面能量的平台。

最後,我要向r:ead的總監、各位工作夥伴、以及賜與我無限靈感的與會人士,獻上感謝之意。

2014年5月5日 星期二
寫於荷蘭阿姆斯特丹

「READ」所思 生活永遠在別處

通常自己遇到麻煩的時候,總不免覺得別人有可取之處,但那不過是一種「盼望藉他山之石,作為改革依據」的想法,並由此建構了一個理想化的烏托邦。而今天,我們同樣也有一個特別美麗的「異托邦」。反之亦然,當自己仍然自欺欺人地沉醉在逝去的輝煌時,也總免不了去有選擇性地製造一個糟糕的對手,僅僅只盯著陽光下的陰影來繼續麻醉自我,不肯正視現實,就如淸朝在鴉片戰爭前夕對英國在認識上的無知。

這個理想化的他者和「別人的制度」,未必一定是地理空間上遙遠,也可以是時間上久遠,所以復古訴求也就可以變成是一種批判力量。英國人在查理一世時代恨不得即刻推翻這個暴君,但真的把他砍了頭之後,那個逝去的年代反倒又處處顯示出其值得懷念的一面來。法國大革命同樣殺掉路易十六和皇后,若干年後,人們反而只記得皇后因為踩了一下劊子手的腳、然後說的那句「對不起,我不是故意的」。而這句話中流露出來的涵養,正比照了後來在大革命中所發生的一切。

人和其他動物的區別之一,就是經常會感到不滿。因而有時不免覺得其他地方、其他時代都可能比現在好,而且這樣的情況,又在歷史之中周期性的反覆。所以,這可能也就是英語「革命」一詞中,還擁有「循環」之意的原因。

之所以總是要到過往或遙遠的異域去尋找他山之石,原因之一當然是批評總是需要某種落差,而且這種落差越是巨大,就越是具有顛覆現實的力量。因此人們建構起一種黑白分明的對立,有時是一個近乎完美的他者,去對抗一個一無是處的現實。 「人們往往激進地對自己的國家批判過厲,又因為無知對某些國家讚美太多。就像東方目前更加依賴的,是一個關於西方的理想,而不是西方本身,有時人們忘了對別人的讚揚只是手段,久而久之竟然當真起來,手段變成了目的,所以很容易忘記冷靜的審視現實和自已?其實,我們真正的意願不是要去讚美西方,而是痛恨現實。正如布迪厄所言,城鄉之間也時常如此:「可以肯定,人們幾乎從來不以農民身份和為了農民而考慮農民,歌頌農民的美德或讚美農村的言語,只不過是談論工人惡習或城市罪惡的一種委婉、或轉彎抹角的方式。 」

所謂的「生活在別處」,本來人們也容易從「別處」獲得那種遠離現實的滿足感,因此「別處」變成了一種令人迷戀的烏托邦。但戳破那個烏托邦,指出它並非事實和缺乏建設性,麻煩就在這裡。當你反對這種建構時,批評者並不覺得你是在糾正一個事實,而會覺得你是在為一個不得人心的現有秩序辯解,而且不願作出改變。對他們來說,本來的用意就是藉助某個超越現實的秩序,再用以反思和批判現實。在這樣的情況之下,不去隨波逐流,任人擺佈的「獨立性思考」便難能可貴。

傳統有如遙遠的星空

一個從未去過美國的人,必然只是通過一系列的符號來想像美國。我們對「他們」做事應該是什麼樣,總是已經有了一套潛在的心理想像,於是當我們想像「美國」(也可以代換成「他者」或「過往」)時,實際上也就用這個現成的形象填充和重構了「美國情形」。同樣,我們也會用這樣的心理,去製造一個我們所願意認為的「世界的模樣」。這應該是因為理性的局限,其實我們對於古代和傳統的認知也未必就不是如此。

當我們回望古代時,在某種程度上就像是眺望夜晚的星空。那些密密麻麻的星星,事實上有著完全不同的距離和大小,但在我們的眼裡,都只呈現為一個「弧形平面」上差異不大的亮點。而這「弧形平面」又來自「天圓地方」這個理性死角裡,固執的第一本能似的反應。這樣的情形之下,我們難以感受群星那無限的縱深距離感和層次感。

現代中國人的古代想像,相當深地建立在明代中期以來的「古代」形像上。很多這段時間內才出現的「新」事物,已經被如此廣泛地視為「古代」普遍的情形。可以說,這一階段的發展,已經重塑了中國人對古代的感知,沉澱在人們心裡,甚至影響到我們對傳統文化的認知。於是只能用較晚較近的符號工具,去建構之前的想像。尤其在傳統斷裂的時代,實在尋找不到我們需要的「符號」時,人們會「重組」甚至編造。很多時候,人們從事的「文化工作」,實際上屬於這個部分。大抵現代人對「傳統文化」的理解,也是奠定在對這一歷史時期文化的認知上。而這對於更早先的時代來說,可能卻是一種人造的「新文化」。就像「古代」一樣,人們心目中的「傳統」,也常常是一個缺乏層次和縱深感的單一體,而它事實上卻是複數。
甚至「古代」和「傳統」的內部,也包含著相互矛盾和競爭的不同「傳統」。這種隱藏的觀點,也是「傳統」曾被整體否定化、以及「古代」現在被普遍浪漫化的原因之一。但有我們必須認知到,我們所想像的那個「古代」,並不是一個有史以來一直如此的、缺乏變化的「古代」,尤其在今天這樣的「碎片時代」。

關於地圖的隱喻

我們長久以來已經習慣了地圖的存在,反倒時常會忘記它原本只是世界的抽象再現。也許我們對周遭的世界是熟知的,但熟知僅僅意味著表象和印象,認識則包括並預先假定了的表象。一個表面但生動、而另一個深刻但概念。

與那些只能感知真實地景的人相比,一個會看地圖的人,擁有一種更為高級的思維能力。他能通過抽象的點、線、面,去感知此前的人所無法想像的空間結構關係。因為,地圖事實上是一系列的濃縮符號,一個點代表一座城鎮或村莊、一條線代表一條公路或河流、一塊藍色的面代表海洋等。繪製地圖的持續努力,本身表明了一種衝動,一種真實地呈現這個世界,並通過抽象的符號來認知、把握、以及掌控世界的衝動。而對於藝術家的要求是兼而有之,這也正是達文西偉大之處。

但「世界」本身並不是一個確定不變的事物,在不同時代的不同人群中,它的範圍和含義存在很大差別。正如許多人已經指出的,人們總是把地圖展現為他們所了解或希望看到的那個「世界」,這既是認知能力的局限,也是想像和理解的局限。中世紀的人不可能畫出美洲大陸,但他們也總是記得將耶路撒冷這一聖地放在世界的中央,因為他們就是這樣設想和理解這個世界的。在那個時代,地圖是一個萬神殿。雖然回頭看古代的地圖,總感覺它們在比例和尺度上有些扭曲和不足,但那或許就是當時人所能看到的空間,因為地圖的地理想像,總是隱藏著某些觀念和思想。其實這種微妙的心理,在現代又何嘗不是。在中國大陸出版的世界地圖上,中國大陸似乎位於世界中央。但在歐洲中心的地圖上,中國大陸、台灣、朝鮮半島、日本列島被擠到了地圖的右角,而且極端地變了形,彷彿是在世界的盡頭簌簌發抖地相互靠在一起一般。

「看地圖」在古代,或許還只是少數人的權利,但自從印刷術普及之後,逐漸成了幾乎所有人的經驗。在這個新的時代,世界不再被想像成縱向提升或墮落的多層空間結構,無論是天堂還是十八層地獄,而被越來越體驗為一個平鋪著的、在眼前延展的寬闊平面。地圖製圖技術的發展,也助長了兩種趨勢,一是地圖測量將「極大的多樣性,簡化為某種理性的、並且最終可操控的結構」,形成一種測量與被測量者之間的主體客體兩分觀念,世界成為「居所」而不再是「故鄉」,以及世界和國家作為某種單一實體的形象。第二種趨勢則更為隱蔽,正是測量技術的發達,促使人們愈加相信,地圖所呈現的世界就是真實的世界。博爾赫斯有一個著名的夢想,希望地圖變得同大地一樣真切,只是這張圖不是真實的而是虛擬的。但早在他這個夢想實現之前,因為對世界有了一種科學、準確、完整、真實、且普遍的表述,早就使得世界本身被想像成是一幅巨大的地圖。而今天,這更使人們認為,世界應該就像地圖所呈現的那個樣子。
這樣的情形就像我們對於工具,比如剪刀或者錘子的認知,更為確切地認知來自具體的使用經驗,而不是工具形狀的本身。所以卡夫卡才說出那句:「只有旅行,才能更加讓我們意識到自己的無知,知道什麼才是自己永遠無法擁有的。」

就這樣,真實和虛擬之間的界線模糊了,其關係甚至被顛倒了。不再是地圖應該像真實的世界,而是世界理應像地圖上所標示的那樣。但猶如「按圖索驥」這個成語所諷刺的那般,所有的真實與再現之間,都難免存在某種空隙和落差。人們常常失望地發現,現實中的人或景色,並沒有照片上那麼美,按照地圖來認知世界的人自然也不例外。由於地圖是濃縮的符號所構成的抽象平面圖,它還很可能造成錯誤的距離感和空間意識。這樣的情形之下,「地緣政治」更應該叫「地圖政治」,而所謂的「愛國主義」,實際上愛的更應該是一個「形狀」。意大利人愛的是一隻靴子,中國人則愛公雞,而真正的真實反而變得抽象了。

地圖所反映的,常常未必是事實,而是人們的觀念。但恰恰因為它被認為是事實,所以才格外具有誤導性。你看到同樣符號的圓圈,還誤以為兩個城鎮是同等的狀況,這在政治地圖的繪製上最為明顯。現代人繪製的歷史地圖上,總是有那麼一條清晰的邊界,似乎那是一個真實的歷史存在。現代國境線和政區色塊的標示法,常常讓人以為國境線兩邊有著截然的差異,但其內部卻是均質的實體,甚至這些實體都早已存在,早於「國家」的形成。像索馬利亞這樣的國家,無論從哪一點來說,作為一個國家實體都早已不復存在,但它仍出現在任何一張非洲政區圖上,假裝那片土地上什麼都沒有發生。而荷蘭這個國家,則被一條後人重新復原的古羅馬邊界一分為二,但在今天的地圖上,只有荷蘭沒有羅馬。

人的經驗世界,與外在世界實體這一自在之物存在本質不同。但不論如何,人們卻常認為真實的世界「應該要像」他們所設想的那樣,甚至當他們遭到再三挫折時也不肯放棄。人們對待世界如此,人們對待彼此也是如此,這是先天性的「文明的傲慢」。有時,他們會剛好遭逢好運,正如錯誤計算地理距離的哥倫布,誤打誤撞發現了新大陸一般。有時,他們則鬧出大笑話,就像19世紀初的北美地圖在西南部,標出一個「美洲大沙漠」,當時的拓荒者不知道自己正穿越肥沃的大平原,甚至還弄了一些駱駝以備急需。

到了近現代,地圖已經不再僅僅是一個再現的工具,它也變成了一個改造的工具。就像法國1789年之後不顧歷史地理的現實,而將全國劃分成一個個方塊形的政區單位一樣,列強在征服的非洲與美洲,也傾向於直接在地圖上劃線作為邊界。更不必說那麼多的規劃設計圖,常常不參照當地現實就被畫出來,這事實上是一種權力要求。現實應當像地圖那樣,我們可以在地圖上改變或完善那個地方的現實。所以洛杉磯也成了著名的城市規劃大失敗的典型,蒙巴頓方案導致了印巴分治和後繼的戰爭,也間接製造了一個新的國家孟加拉。
同樣,我們也有了「東亞」的概念,這不僅只是地圖如此,也是不知不覺被現代人所接受的「願望」,而那些「權力」在握者更是如此。最後補充一點,關於「東亞」還有另外一個概念名稱叫「遠東」…

2014年3月10日 於東京
孫遜

r:ead、國家主義、國家、東亞、孫遜、而後再回到r:ead

值此亞洲滿是劍拔弩張氣氛的時期,一群來自這股氣氛、但卻是不同國家的人們齊聚一堂。這個畫面不僅給予每個參加者相當程度的內心刺激,也提供了所有人一個大量思索的契機。
這個世界上總是充滿了各種紛爭,從領土問題、種族歧視、排外運動、鎮壓少數民族、一直到國家內戰,可說是無所不在。而對近年來的中國大陸與日韓兩國來說,領土問題可說是最頭痛的一個部分,釣魚台事件便是一個最好的例子。然而,這個對國家來說看似十分嚴重的問題,其實對一般民眾而言,幾乎可說是不痛不俺。因為不管這座島下是否埋藏有大量的石油,由這些石油所獲得的利益終歸不會分享給一般民眾,更不提為了一個僅數百公尺的小島而爭吵,看起來實在是相當愚蠢。雖然來自不同國家,但這次r:ead的駐村活動並沒有陷入國家主義的風暴之中,而是以一種親密而微小的對談方式,建構了一個屬於藝術的溝通。除了共同享有愉快的時光之外,每個參予者也都能從自身的經驗與思索出發,延伸前往另一個更大更廣的論述世界。
雖然我是個日本人,但由於我住在香港,因此當我以亞洲的視角重新審視自己的國家時,我不僅可以看見許多值得誇耀的東西、也能看見不少令自己感到羞恥的部分。不管是日本首相為了選票而參拜靖國神社,還是日本政府延續著二戰後至今的、那不顧一切專注於內政效果與日美關係的陋習,不僅讓我感到羞恥,似乎也看不見改變的氣息。
這種對於自國所抱持著的愛恨交織,我認為其實也就是一種可以稱為愛國心的存在。尤其,當自己來自於一個信仰著單一民族國家神話的社會*1、來自於一個百年來對政治與組織抱持著「家天下」觀念的國家時,這種心情也就會特別強烈吧。但綜觀世界,不管在哪個國家,都有著為了自國領土問題而自焚抗議的人們,更別提當面對奧運會或世界盃等國際賽事時,那些支持國家代表隊的狂熱心情了。也就是說,其實世界上每一個國家的人民,或多或少地都抱持著一定程度的愛國心或國家主義。
就如同在駐村開始談過的內容一般,在某些程度上,所謂的國家組織,不過就是一群擁有權力和力量的人們,為了保護自己的利益所建構的巨大系統罷了。由歷史角度來看,所謂近代國家的形成,其過程絕對稱不上是和平,而是一種藉由戰爭建構國家、由後再由國家發起戰爭(War made the state, and the state made war*2)的循環罷了。
而對這些國家的基本組成、也就是所謂的國民來說,國家既是值得誇耀的存在、也是值得自己敬愛的對象。在遠古時期,村落的形成,首先是由一群互相熟識的人們組成生活共同體。而後,為了抵禦外敵,這個生活共同體便衍伸出了秩序與規律,並賦予領導人一定程度的權利以統轄秩序。然而,當村落的概念放大至國家的等級時,一切就變得不大一樣了。首先,國家並非僅由熟識的人們所組成,而是由更多從未謀面、甚至就連種族與信仰都不同的人們所共同創立。也因此,要讓這些國民對自己的國家擁有認同感,也就相對地困難。於是,這個國民之間難以徹底溝通的組織,為了要維繫國家單位的存在,便需要創造所謂的愛國心。在這一點上,不管是全體主義國家(Totalitalianism)、共產主義國家(Communism)、社會主義國家(Socialism)、民主主義國家(Democracy)、獨裁主義國家(Dictatorship)、還是權威主義國家(Authoritalianism),其實對於愛國心的需求都是一樣的,頂多只是因為在制度上對愛國心或國家主義的依存程度不同罷了。好比說獨裁制度或權威主義國家(大陸、北韓或新加坡等地*3)因為依存程度較高,因此他們的領導人便需要進行更嚴苛的情資控管與言論審查。
國家,是一個基於法律、經濟、地理以及政治所形成的組織單位。若人民無法認同一個組織,那麼政變、革命或是暗殺便會趁勢而起。因此,為了讓一群未曾謀面的人們,得以實現實際上並不存在的互相溝通,這個名為「國家」的生命共同體便有其存在的必要性。
而替國家單位填滿國民之間所存在的鴻溝,便是新聞媒體的責任。藉著統一的語言或文化,新聞與報紙便能及時地將全國人民的狀況,無視距離與空間地,傳達給任何一個區塊的國民,並進而創造出以國家為單位的共同感受。好比如今的中國大陸,以往廣泛使用廣東話的地區,現在也幾乎都使用國語了。雖然說,這是一種抹殺少數語言或宗教的行為,但正因為語言或宗教是一個文化形成的核心,因此要將不同文化統合為一體時,這種暴亂的行徑便難以避免。新聞與報紙等媒體,藉著將各地國民的狀況,傳達給同一國家的所有人民,創造出一個人們得以在幻想中達成互相溝通的國家組織,並逐漸帶領所有人前往統合的階段。而隨著人們逐漸地統合,每個人的自我認知裡,也就會開始融入所謂國家的存在。自近代國家形成以來,在這數個世紀之間,我們每一個人的自我認知中,幾乎都已經被刻印了所謂國家的存在。
安德森曾經說過,所謂國家的概念,一種是相當需要懷疑的存在,因為沒有人能夠證明其存在的正統性*4。但即便如此,安德森依舊認為所謂的國家主義,是今日你我在政治層面上,最普遍也最為正統的價值觀
(Nation-ness is the most universally legitimate value in the political life of our time.)*5
藉著平等、完美共同體、以及國家等美名,數不清的污職、不平等、以及壓榨等行為出現。數世紀以來,數百萬的人們為了國家喪失了性命、或是自己選擇放棄了性命。而這一切,都僅只是為了實現那幻想中的溝通,所做出的犧牲。(安德生,1983)
Regardless of the actual inequality and exploitation that many prevail in each, the nation is always conceived as a deep, horizontal comradeship. Over the past centuries, for so many millions of people killed and willingly to die for such limited imaginings. (Anderson 1983)*6

無論如何,我們所屬的每個國家、以及我們所屬的每個歷史,都是真切地存在著,並至今依舊發揮著實質上的影響力。交織著各種各樣的疑惑與問題,歷史中的人們已然遠去,留下不同的面孔面對這些疑惑與問題。究竟這一切該如何從分裂走向調和、從紛爭走向對談呢?究竟該如何讓這一切,能夠往更好的方向前進?畢竟,亞洲的每一個國家,都是共享這至今一切的兄弟友邦。

上述的這一切,便是在這次駐村活動中所發表的東西。不過,完全沒有談到有關藝術的話題,身為策展者或許有些失職也說不定?

雖然這次並沒有舉辦任何展覽會,但我依舊與孫遜組成了搭檔,參加了這次的駐村。除了上次提到有關自由女神像的構想之外,孫遜還提出了不少類似提案的東西。雖然,最後他並沒有依據這任何一個提案創作,但他在自己從神田古書街買來的古地圖上用墨汁作畫,並在殘留的地名上放上了星座,完成了一幅美麗而又充滿政治意味的作品。
不像一般的創作過程,這次孫遜並沒有花了數個月去思考與創作,而是將整個r:ead的討論與發表過程、以及每個在居酒屋的夜晚與我和其他r:ead成員的聊天內容,在他藝術家的頭腦之中醞釀發酵後所產生的結果。總是非常忙碌的孫遜,終於能在東京與其他人好好地對談、並集中於自己的創作上。就這點來看,這個「不創作作品」的駐村活動,也許對藝術家來說,正好提供了一個充分的再充電時間也說不定。

而對我而言,也終於能藉著這次的駐村,讓自己從家庭、大學、以及工作等日常生活中抽離,捧起手邊的文獻與資料,與每個國家的成員實際面對面,好好地探討有關東亞這個龐大的主題。藉著這個篇幅,希望能向賜給我這次機會的孫遜、r:ead所有成員、以及在香港等待我的孩子與家族成員們,由衷地說一聲感謝。

  1. 小熊英二 単一民族神話の起源—日本人の自画像の系譜、新曜社、1995
  2. Charles Tilly, Bringing the State Back In, edited by Peter Evans, Dietrich Rueschemeyer, and Theda Skocpol, Cambridge: Cambridge University Press, 1985
  3. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983
  4. Hugh Seton-Watson ‘その現象は存在する。しかし国家についてのいかなる科学的定義も確認することはできないという結論に至った。Thus I am driven to the conclusion that no “Scientific definition” of the nation can be devised; yet the phenomenon exists’ Nation and States: An Enquiry Into the Origins of Nations and the Politics of Nationalism, Methuen, 1977
    Tom Narin ‘国家についての理論は、マルクスの偉大な歴史的過ちだ。The theory of nationalism represents Marxism’s great historical failure’ The Modern Janus: Nationalism in the Modern World, Random House, 1981
  5. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983.
  6. ibid.