非記念碑的手法による記念碑のつくりかた

本事業のタイトルr:ead(=residency, East Asia, dialogue)からも明確なとおり、このプログラムは東アジアと括られる韓国、中国、台湾、日本を出自とするメンバーの「対話」と「思考」のための場であった。この前提条件となるフレームをいかにポジティブに捉え、且つ脱構築するように拡張するかを、日本チームとして招聘された下道基行と私は強く意識して取り組んだ。つまり、最終的なアウトプットとしての大文字の作品をこのレジデンスの場で生み出すことを目標とするのではなく、その数歩手前のひとつの方向に射程を定めるまでのプロセスを如何に築くかを意識し、隣人たちとの対話の場を積極的に楽しみ、不完全で断片的なものを敢えて晒していくことに注力した。モニュメンタル(=象徴的)な「作品」というかたちを求められず、議論や思考の過程を透明化し公開していくことがのぞまれるのは非常に稀有な現場だ。それによって、直接「東アジア」ということが主題にならずとも、このような場それ自体がr:eadというプログラムを支える骨格となっていると言える。
ただ、賞味1週間のみのレジデンスへの参加だったため、結果的にはプレゼンテーションというアウトプットに向けて集中する状況にはなった。しかし重要なのは、必ずしも豊富な時間とは言えないが対話と思考のための場を公に準備していただき、それに応じる方法として、新たな方向へと舵を切るきっかけとなるいくつかのアンモニュメンタル(=非記念碑的) な断片を発見できたことだと思う。
私たちは最終的に、『「不在」のかたち─モニュメント再考』というタイトルで、オルタナティブなモニュメント(=記念碑的存在)と定義できるようなものたちを集めたアイディアのスクラップブックを制作した。誰もが一目で認識できるいわゆるモニュメントからは外れるが、異なった地点からその存在を眺めると象徴性や記念碑的性格が見いだせるものや、あるいはある対象者にとっては記憶に触れるものなど、一見明確な輪郭線をもたないがある側面からは記念碑性をもつ存在を広義に「モニュメント」と捉える、少しずらした視座を提示したものだ。

ここで、「モニュメント」や「モニュメンタル」ということばについて、少し説明したい。モニュメントとは、「政治的、社会的、文化的な事件や人物を公共的、永久的に記念するために作られる工作物あるいは建造物。また文化財関係の用語としては、遺跡敷地に対して、地上に立つ全ての建造物、記念物を含めてモニュメントという。」(ブリタニカ国際百科事典)ということだ。もう少し簡略化すると「記念建造物。記念碑・記念像など。遺跡。不朽の業績。金字塔」(大辞泉)ということになる。この原則的な意味を少々拡大解釈し、記念碑性や象徴性を生み出す私たち人間の行為に着目し、かたちを持たない「行為」などを、記憶に刻む記念碑(=モニュメント)として定義しようと試みた。強固な物質としてのモニュメントではなく、しなやかな行為や記憶をとどめるささやかでそこらへんにある当たり前の存在。言い換えると、ある特定の視座を与えられることで記念碑性を獲得するアンモニュメンタル(=非記念碑的)なモニュメントの探求を試みたわけだ。作品とはそもそも記念碑的(あるいは象徴的)な存在であるが、その記念碑へと至るプロセスにより自覚的になるということだ。

今回我々が探求したのは非記念碑的(=アンモニュメンタル)な記念碑(=モニュメント)という一見矛盾するものだ。作品を制作発表することを目的とするのではなく、作品という記念碑へと至る過程を顕在化すること、そして不特定多数のいわゆる「みんな」に向けるのではなく、もう少し特定された明確な対象に響くモニュメントのかたちを探求するものだ。そのようなモニュメントを、「常温の」「ソフトな」「かたちのない」というおよそモニュメントとはかけ離れたイメージを持たれることばで形容することで、かたちではなく状態や行為に焦点をあて、別の角度から記念碑性や象徴性を考察していった。強固な物質性や絶対的な存在感というモニュメントの既存のイメージを表象するような特徴とは正反対にある「不在」のもつ象徴性を探求すると言ってもよいだろう。絶対的な形態や存在ではなく、生成変化する「不在の在」あるいは「不在のかたち」を求めることだ。
ここで下道がこれまで作り上げてきた作品群を振り返ってみよう。第二次世界大戦までに日本中に築かれた戦争のための建造物であるトーチカや掩体壕、砲台跡などの数十年後の現在の姿を風景として捉えた写真シリーズ《戦争のかたち》(fig.1)、そして現在の日本の国境線の外側に残された鳥居の様子を捉える《torii》(fig.2)のシリーズなどがある。例えば、《戦争のかたち》に登場する機能を剥奪された戦争遺構が埋没する現在の風景は、時の経過とともに戦争を経験した世代が去っていき多くの人の意識から消えていこうとする戦争の記憶を呼び起こし、《torii》は鳥居があった場所にはかつて日本人の生活があったことを示す。どちらも本来の意味や形態の一部が消失することによって、その当時のことを想起させるソフトな記念碑(=モニュメント)として機能するものたちを捉えた風景だ。また、写真として下道に切り取られることによって、それらの忘れられた存在をモニュメント化する行為でもある。ある目的のために必要に迫られてつくられたものが、月日の流れとともにその機能を消失し、存在理由を棚上げされたかたちで風景のなかに残された。これらは保存という名目により柵で囲わたりすると、典型的なモニュメントへと変貌する。下道はそのような画一的で思考停止に陥るようなモニュメント化に対して疑問を抱き、むしろそのままの現在の風景を俯瞰的に捉え、写真として収集する行為により、ソフトなモニュメント化を計った。

fig.1《戦争のかたち》
fig1_戦争のかたち
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.2《torii》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

また、砲台跡から花火を挙げたり、トーチカを一時的にスクウォッテングするなどの方法で戦争遺構の再利用計画を打ち出す《Re-Fort Project》(fig.3)は、誰もその存在に眼を向けないひっそりと佇む遺構に遊戯的な方法で人々の眼を向け、かつてあった戦争について想いを巡らす場を生み出す。ある行為を働きかけることで遺構の機能を一時的に鮮やかに変換し、同時にその遺構群を、人にメッセージや歴史を伝えるモニュメントへとソフトに変換させるのだ。
また一方で、震災後にバイクに乗って日本全国を周遊する旅で捉えた田んぼの畦道に渡された一枚の板や、段差を解消すべく積み上げたコンクリートブロックなど、どこにでも存在する身の回りにある最小限の要素により必要に迫られて生み出されたこちらとあちらを繋ぐものを極小の「橋」と規定して、それらをスナップ的に収集していく《bridge》(fig.4)のシリーズがある。これらは多くの人は見過ごしてしまうほどささやかで当たり前で、同時に偶然つくられたものであるため翌日には消えてしまうかもしれない儚さをもつ、それこそいわゆるモニュメントとは対極にあるような存在だ。どんな時代のどんな場所にでも存在するある種の普遍性を備えた儚さや、それらを生み出す誰もがもつ無意識の創造性や美意識を捉え定着することで、やはりソフトな方法でモニュメント化していった。

fig.3《Re-Fort Project》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.4《bridge》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

その他にも雪国で道なき場所を人々が通り抜け足跡を残すことで新たに生まれた道を捉えた《crossover》なども、雪に残された足跡という数時間後には消えてしまう「かたち」を定着する行為で、これも下道らしいモニュメント化と言える。つまり、下道は本質的にアンモニュメンタル(=非記念碑的な)な存在である忘却されたものやかたちが消え去ってしまうような不在にかたちを与えるように、ソフトなモニュメントを作品化により生み出し続けてきたのだ。
この延長線上で、「不在」そのものの在り方を探求するよう、より意識的にアンモニュメンタルなモニュメントを生み出す過程を、r:eadという対話のテーブルに持ち出すことで、共有や断絶を経て、新たな方法論を獲得することを試みたのが、本プロジェクトのフレームに対するひとつの回答と言えよう。
最終プレゼンテーションにゲストとして参加したメディア批評家の桂英史氏は「モニュメントとは必ずサイトスペシフィックである」というようなことを簡潔に述べた。そもそも下道と私がこれまで取り組んできたことは、それぞれ職能に違いはあれど、サイトスペシフィック/モニュメントとは切っても切り離せないもので、この桂氏の発言は事後的に我々の活動にひとつの補助線を与えてくれた。

次に私のこれまでの活動にも少々言及したい。私の拠点はアーティスト・イン・レジデンスを主事業とする小さな機関なので、その性質的にも大多数の人というよりは、必要性を感じる人に向けるものを探求してきた。レジデンスでは最終的な展覧会や完成された作品を記念碑(モニュメント)として生み出すよりは、そこに至る過程をいかに経験するかが重視されると信じているため、その経路のよりよい設計を継続して考えてきた。なんとなく大きな規模でひとつの明解なものをつくり出すことのみには違和感や懐疑をもっていただけでなく、限られた条件の中で別の道や別の方法を生み出すこと、つまり制約のなかで「オルタナティブ」な道を探る方向にずっと興味があったため、必然的にいわゆる記念碑的なものではない方法で、かたちを与えることを実践してきた。
また、これまで約10年近く山口や青森という小さな地方都市を拠点として活動してきたわけだが、なぜそのような選択をしたのかが今回のr:eadを経て少しだけ自分のなかでクリアになったので、ここで少し述べておきたいと思う。そもそも今に至るきっかけは建築を学んでいた大学院時代にバルセロナで一年間生活したことにある。そこで最も印象深かったのは、その地に住む人々の価値観の持ち方だった。歴史ある都市だが現在の地政学上はヨーロッパの周縁の土地と言わざるを得ないこの都市では、「周縁」であるからこそ持ち得る伸びやかさと多様性を知った。新自由主義的な思考からは軽快に距離をとり、経済活動や利便性ではなく、その場所らしい生活を築くことに対する個々人の意識の強さが非常に新鮮だった。時間に対する感覚も、どこか主観的で時計の刻む時に縛られない感覚が興味深かった。明らかに異なった価値観があった。この経験がきっかけで、日本において戦後の資本主義経済を基礎とする体系のなかでは周縁と位置づけられる地方都市の存在や可能性を意識するようになった。その結果として、本州の両極の土地にこの10年自身の身体と生活の拠点をおき、芸術を起点として地方という問題と可能性を探求することとなった。それは、大きな物語ではなく小さな水脈を発見し繋げていくような試みであった。そしてか弱いけれど様々であるということを、多様性と複雑性という価値として捉えたいと考えてきた。

この背景には「批判的地域主義(=Critical regionalism)」 という考え方の影響がある。この表現は1980年代に建築理論家であるアレクサンダー・ツォニスとリアンヌ・ルフェーヴルが最初に見出し、彼らとは若干異なった用法で建築史家のケネス・フランプトンが用いて建築論を展開したことで広まっていき、近年ではガヤトリ・スピヴァクとジュディス・バトラーがカルチュラル・スタディーズや政治理論にも援用している。フランプトンは、現代文明を肯定しモダニズム建築が持つ普遍的・進歩的特質を批判的な視点を持った上で受け入れ、同時にその建築の地理的文脈に価値を置くべきとしている。建築における無場所性や場所のアイデンティティの欠如を、視覚だけでなく触覚や聴覚など身体感覚に総合的に訴えかけることで地域的特色を与え、抵抗の建築として独自の存在が成立しうると提唱した。もちろん現在の社会にフランプトンのこの思考を単純に適用することは安直過ぎるが、グローバリゼーションの進行と様々な格差問題が噴出している現在において、そのような大きな流れに不用意に巻き込まれないための「抵抗」の手段として個別にこの思考法を適用することは有効であると考えている。
神話的なひとつの大きな物語を描くことに価値を見出せなくなった現状において、まず自らの足下を見直しそれぞれの土地がもつ小さな可能性を引き出し、情報環境の発展とともにどんな場所や人とも比較的容易にダイレクトに繋がれるということを認識することで、適切な場へとその可能性を接続していくことができるだろう。つまり別の場所、別の可能性への接続法を見出すことで、単純に現状を嘆き否定するのではなく、抵抗の手段としてオルタナティブをもつことが重要だと思うのだ。私はそれを大きな記念碑的な救済のようなものに求めるのではなく、小さくてもいくつもの方向性をもつ自発的で内発的な活動として探求していきたいと考えている。

ここで、昨年キュレーターとして関わった十和田奥入瀬芸術祭 を少し紹介したい。この芸術祭は、芸術祭と呼ぶにはとてもささやかな規模と予算で、人口六万人強の小さな地方都市である十和田市で開催されたものだ。会場は大きくふたつに分かれており、ひとつが十和田市中心街に位置する十和田市現代美術館、そしてもうひとつが中心街から車で30分程の距離にある十和田市周縁の奥入瀬・十和田湖エリアである。十和田市中心街では現代美術館がオープンしたことで来場者数が毎年増加しているが、一方で80年代を全盛に観光地として栄えた奥入瀬や十和田湖周辺は、観光産業が大きく衰退し、就業人口も落ち込み深刻な状況となっていた。十和田市内でも中心と周縁において大きな格差が生まれているのが現状だ。芸術祭では、衰退してしまった市周縁部を盛り上げようという意図もあり、美術館だけではなく、奥入瀬エリア一帯が会場となった。奥入瀬や十和田湖には、とても美しい風景があって、それは観光産業がいかに衰退しようが変わらない財産である。そしてこの自然も実は人間が関わることで維持されている風景であり、自然とはどういう状態かをも考えさせられるものである。ただ、どんな資源を持っていようが、結局それを誰に向けてどのようにアピールするのかがある程度クリアにならないと、その価値は届かない。バブル崩壊後に、企業の慰安旅行や旅行代理店がパッケージを組む団体旅行が廃れていき、現在のようなより小さな単位(個人や家族や近しい友人)での旅行が主流になってきた状況に対しても、結局団体旅行に対応した観光地の在り方しか提示できなかったこのエリアが衰退したことは必然といえるだろう。存在しなくなった対象に向けて発信しても、それは届かない。
そのような背景を考慮に入れながら途方もなく広いこのエリアを巡るなかで見えてきたものは、いくつかのモニュメントだった。十和田湖畔に建つ高村光太郎による《乙女の像》、奥入瀬エリアに多数存在する大町桂月による句碑などの記念碑群、あるいは十和田神社などの建造物や、《雲井の滝》のように名前を与えられた奥入瀬渓流沿いの滝や流れ、岩などの名勝が挙げられる。これらが十和田奥入瀬の表側の美しい歴史を湛える正のモニュメントだとしたら、その裏には廃業した無数の旅館やホテル群などが負のモニュメントとして存在する。通常の観光旅行では正のモニュメントのみが人目に触れ、負のモニュメントは往々にして覆い隠される。しかし、この負のモニュメントにこそ、地方都市が辿ってきた歴史や、なぜ現在の状況に陥ったのかを示す様々な手がかりが潜んでいるはずだ。グラウンドゼロやアウシュビッツ、あるいはチェルノブイリなど災害被災跡地や戦争跡地などを巡る、人類の死や悲しみを対象にしたツアーを「ダークツーリズム」というが、このような歴史的な悲劇や負の歴史を経験することによって理解できることは多数あると思う。近年では東浩紀らによる福島第一原発観光地化計画なども、批判もあると思うが、ダークツーリズムによりフクシマという負の遺産としてのレッテルを貼られようとしている場所を復興していくひとつの可能性と批評性を備えた方法であると思う。また、芸術祭に参加したPortBを主宰する高山明は、Port観光リサーチセンターという団体を実際に一般社団法人として設立し、そのリサーチ活動の一貫として十和田奥入瀬にて観光にまつわる言論イベントを開催し、翌日からはそのドキュメント映像を、イベントを実施した同じ場所に同じ時間で展示作品と上映した。
奥入瀬エリアのように団体旅行の減少とともに衰退していった観光地は日本全国に多数あるだろう。そのような土地にアート作品という新たなモニュメントを多数設置して、それらを巡礼する旅行のかたちは越後妻有や瀬戸内などですでに試みられ、たくさんの観光客を獲得し、芸術による地域や観光の再興の一種の成功モデルとして捉えられている。しかし十和田奥入瀬においては、そこにある歴史や負の経験を新たなモニュメントで覆い隠す上述のような方法ではなく、現状を肯定することからスタートしたいと思った。既にある負のモニュメントを何らかのかたちで再生し、正のモニュメントとともに公開することで、その土地のきれいな表面だけでなく裏側にある現在の困難も含めて見てもらえる方法を模索し、いわゆる巡礼の記念碑としてのアート作品の設置を排除したものが、十和田奥入瀬芸術祭であった。もちろんその理念とは裏腹に、実現できなかったことは多々ある。しかし、その土地や建物などが辿ってきた歴史から目を背けることなく、それらが発するかすかな声に耳を傾けることで、見えてくる地域の未来というものもあるのではないかと思っていた。
サウンドアーティストの梅田哲也、パフォーマンスユニットのコンタクトゴンゾ、そして写真家の志賀理江子という3組のアーティストが半年をかけて協働によりつくりあげた、数年前に営業を休止したホテルの建物一件をまるごと作品化した《水産保養所》(fig.5)は、まさにそのような芸術祭の態度を象徴する、アンモニュメンタル(非記念碑的)なモニュメントであった。この作品は、半廃墟になったホテルをアーティストが徹底的に掃除をし、不必要なものを取り除くことを基本とした。「引き算の方法でつくる」と表現していたが、作品らしきものやオブジェクトのようなものを付加することを避け、水の流れを変えたり、光を導きいれたりというような方法で、機能を失った建築を少しずつ周辺環境に近づけるような作業を施していった。極端に要素が剥ぎ取られたホテル内を巡ると、静かに流れ落ちる水の音が聴こえ、天気の良い日は様々な光が入り、不穏な空気を感じることもあれば、清々しい風を受けることもある。人工と自然の中間のような不思議な状態で、廃墟や遺跡のようにも感じられるし、一方でバブル期のホテルの様相も垣間見える、不思議な場の経験がある。舞台のクライマックスのような象徴的で誰もが盛り上がるような状況は訪れることなく、淡々とささやかな変化のみが連続する。壮大なスペクタクルを徹底的に排除された空間は、ある種のパラレルワールドを経験する感覚にも近い。一切何もないようだが、そこには神経を研ぎ澄ますと見えてくる、聞こえてくる、香ってくるささやかで豊かな経験がある。スペクタクルなモニュメントではなく、非スペクタクルでささやかな経験を生み出すこと。明確で壮大なかたちではないが、目を向けよう、耳を傾けようとする人には、豊かに響き、その経験を記憶に刻みこむオルタナティブでアンモニュメンタルなモニュメントである。目玉となる屋外彫刻のようないわゆる記念碑的モニュメントを設置することなく、奥入瀬という地域に流れる時間や開ける空間をアンモニュメンタルな作品群を通じて経験してもらうことが、地方都市でのこの芸術祭の試みであった。

fig.5《水産保養所》

Courtesy of the artists, Taketoshi Watanabe and Towada Art Center

そのような経験のうえで、私とは異なった角度から「モニュメント」の在り様をその創作活動を通じて探求してきた下道基行と一緒に、対話と思考のためのr:eadという場で、記念碑的な作品づくりではなく、現状を徹底的に共有することで新たな展開の可能性を模索してきた。お互い35歳という年齢に達し、これまでの約10年を振り返りつつ、その先へと向かうためには充分な刺激を与えてくれる隣人たちとの時間はとても貴重だった。下道のことばを借りるなら、「未来において開封されるべき」新たなモニュメントの在り方を探求してきた。なにか大きな結果をこの場で生み出すよりは、その思考過程をとにかく吐き出していくことを意識した。まだ確信が持てないような孵化したての脆いアイディアを、敢えてアートのプロフェッショナルである隣人たちにとにかく躊躇せず開示することで、迷いや違和感、怪しさまでも共有しながら、新たな途を探り続けた。作品や展覧会のように高次に結晶化したものを求められることなく、そうではない「もやもや」やモニュメント的な状態に至っていないものを開示することを議論にあげることを求められるのは非常に刺激的な経験だった。安易に理解できると思われる結果のみが求められやすい現在の社会において、そうではない試行錯誤や不可能であることや失敗までを肯定できるこのような小さな抵抗の場がもっと公につくられていかなければならないはずだ。紛争などは、お互いが向いている方向が少し違っていることや、些細な事柄の不理解が引き金となって引き起こされる。r:eadのような場は、大きな総意や神話的感動を生み出すわけではないので、一見不毛に思われるかもしれないが、このような小さな抵抗の現場にこそ、諸問題に対する異なった解決法を提示できる可能性は開かれているかもしれない。アーティスト・イン・レジデンスとはそもそもそのような創作のプロセスに意識的になるためのアンモニュメンタルな場であるはずだ。そのプロセスに最大の価値を置くこのような場が、最も純化されたオルタナティブなアーティスト・イン・レジデンスの方法として、様々な場所でそれぞれの方法で築かれ発展していくことを切に願う。

こんがらがった糸を少し解きほぐしてみる

r:eadは、基本的に展示会場はなく、そもそも完成作品を人に見せる必要がない。これは作家にとって、「滞在期間内に強引に作品を作り見せる」必要がなく、それぞれが実験を行なうには、かなり興味深い企画であった。(逆に強引に制作するときに生まれるものもあるが)
通常レジデンスでの滞在制作の場合、あるテーマが決められていて、数年や数ヶ月で、その場所のリサーチやフィールドワークを行ない土地や場所の特性を読みながら、その場所で展示することが多い。短期で、作品の完成を求めるなら、いつもの自分の手法に結びつけて、行なうことになるだろう。この企画の場合、共有できるテーマを見つけるためのツアーが行なわれるし、自分たちで旅を企画も出来る。ただ、4週間と時間が短い。対話を行なうのは教室のような場所で、共有する多くの時間はここで過ごすよう設定されている。善くも悪くも、教室内にいる時、ここが日本の東京であることを意識することがあまりない。対話は、教室内でテーブルを円形に囲み、小さな日中韓台サミットのような雰囲気。
はじめは、僕も目の前にいる彼らも、それぞれの国の代表者として、1人ひとりが集まっているような錯覚を覚えた。徐々に、一人一人の中にそれぞれが複雑に絡み合った世界を別の方向から教えられたり感じて育って来た同年代の個人個人がそこにいるだけだ、と感じるようになる。日中韓台は4面ではなく、いつも多面体。
最終日にみんなで食べに行った池袋の中華「延辺」料理は、北朝鮮の国境に近い中国北東部の朝鮮族が多く住んでいる地域。中華料理屋だけど、スパイシーなラム肉に“つきだし”としてキムチやピーナッツがでてくるような、中国か韓国のどちらでもありどちらでもない部分を持っている。味もそうだけど、人も多面的で深みのあるグラデーションの中にある。

この企画の特別なポイントとしては、日韓中台の人が集められているが、それぞれの集団から少し離れた場所で、ひとりひとりの作家が向き合い話し合い考える場、ということかもしれない。
例えるなら、旅先で、たまたま一緒になったものどうしが、国を越えて、生い立ちや仕事や家族のことをだらだらと話し、お互いの生活や置かれた状況の違いを感じながらひととき時間を共有してまた別れる、そんな経験。先日たまたま飛行機内で映画「ロストイントランスレーション」を見てそんなことを思い出した。ある出会いが、それぞれの生活圏ではない、お互いにてっての「どこでもない場所」で起こることのハプニング性。このr:eadはそういう場所なのかもしれない。そうしてそういう場だからこそ、立場を越えて、出会い、1人の人間として、それぞれの違いを受け入れながら、接近できる可能性がある。

結局のところ、今回僕は、作家同士で出来る限り一緒に飯を食べ酒を呑み、いろいろな話をした。もちろんそれは義務感ではない、ただ好きだからだ。このような機会に、いきなりいつも自分の制作に入るのではなく、作品を求められないこの機会だからこそ、出会いから何かが生まれるタイミングを待ちたかったのかもしれない。特に、孫遜(スン・シュン、中国人作家)とは、夜な夜なミーティングと称して、頻繁に酒を酌み交わした。大学生の一人暮らしのようだとお互い笑いながら、とても面白い時間だった。
最終日の僕らのプレゼンが終わった後、孫遜はその感想として、古い中国の詩を僕らに読んでくれた。それは、陳子昂《登幽州台歌》というもので、「天と地を目の前に、人は自分の持つ存在や時間の小ささを感じずにはいられない」そんな悲しい詩。唐の時代の中国で生まれた詩らしく、どこかこのr:eadでの1ヶ月の交流を思わせる素敵な詩だった。最終公開プレゼンの場で起こった突然の朗読に、会場が少し湧いた。翌日、僕は彼の読んでくれた詩に答えようと、動物写真家の星野道夫さんのエッセイ「もうひとつの時間」を、教室でみんなの前で彼に読んでみた。「大自然を前に感動したときに人が残せる物は、自分が変わることかもしれない」そんな文章。朗読など初めての経験だった。

今回一緒にタッグを組んだキュレーターの服部さんは、アーティストインレジデンスで10年程働きさらに自らも小さなスペースを運営していて、作家との共同作業や滞在制作のノウハウと疑問を持っている人で、今回のr:eadへ誘ったのは適任だった。彼とは、二人でいくつかの場所を訪ねながら、自分たちの過去だけではなく、それぞれの未来のことを話し始めることができた。
僕自身、昨年末ひとつ6年間かけて行なって来たシリーズがちょうど終わり、自分制作して来た素材や手法やテーマを疑いながら、新しい挑戦をしたいと考え始めていた。ここで得たものは、たまに誰かとの会話の中や、これから始まるいくつかのプロジェクトの企画会議やそこかしこで身になり始めているが、その得た物を目に見える形で見せ、疑いのない言葉で発するためにはもう少し時間がかかりそうだ。

この企画によって、最も成果が現れる場所は、おそらく参加者それぞれの内側の変化なのではないかと思う。それを外部の人が目に出来る場所/時は、もう少し先になるかもしれない。そしてここでいう参加者というのは、作家そしてキュレーターだけでなく、通訳さん、スタッフ、ディレクターすべてのこの企画(対話)の場にいた人たちだろう。

どんな企画にも、企画者や支援者(国や町や企業)などの制限やコントロールは発生するし、それを知った上で参加しないと、自らもその一部として巻き込まれてしまう。r:eadは“制作の環境“としてのレジデンスであることはまちがいない。ただ、全ての言葉はいちど日本語に訳されるシステムや、この”東アジア“という言葉のように、大東亜内帝国主義的(欧米中心へのリフレクションとしての帝国主義)かというはじめからの僕の中で何度も疑いを持ち続けていたのは事実だ。ただ、このr:eadはどこでもない漂う船のような場所として、存在できる可能性を多いにはらんでいる。舵取りを参加者全員の会話で決めるのも面白い。まだ始まったばかりではあるが。
このような企画が続いていくこと、より発展した形に変化して行くこと、このような企画が例えば隣国同士で開催され、日本人が参加すること、そんなことが積み重なって行くことで、隣人との関係性が、否定や排除からではなく、尊重をベースにした関係が積み重なって行くのかもしれない。この交流のかたちを発展させるためのひとつの過程として僕はここに参加しているのではないか、とさえ感じてくる。

今目の前には、こんがらがってしまった国家間の状況がある。政府やメディアによって多くの国民の感情はオセロのように白や黒へパタパタとひっくり返る。こんがらがった糸を意図的にまたもつれさす奴らもいる。ただ、r:eadでのような機会によって生み出された個人個人の中に生まれたバランス感覚は、今後も刺激し合いながら、どんな嵐が吹く時代でも、少しずつ母国に根を下ろして行くのではないか。

僕として今回は、手垢のついた自らの手法への疑問のはじまり、そして隣国の作家たちとの交流、それは、こんがらがった糸を少し解きほぐしてみるような時間だった。
近い未来みんなとの再会が待ち遠しい。

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r:eadは今後も続くだろう、そしてこのような文化交流の企画も増えて行くだろう。今後、同じような箇所で迷ったりつまずくこと回避し、より議論や手法が前に進むために、r:eadの企画内容を僕なりの視点を交えて書き留めておこうと思う。

【企画内容+感想】
・タイトルのr:eadは、「レジデンス・東アジア・ダイアローグ」の頭文字をとったもの。→3つの単語をくっ付けた造語で、なかなかダイレクトなタイトルだと思う。
・目的は「東アジアにおける芸術や社会に対する問題意識を共有し発達させること」。(オフィシャルサイトより)
・参加者は、日本・韓国・中国・台湾の作家が1人ずつがr:eadスタッフのリサーチによって選ばれ、さらに作家が1人ずつキュレーターを選ぶ。→僕は服部浩之さんを指名。彼は“オルタナティブな制作と発表の環境”について考え実践している人であり、r:eadという新しいレジデンスフレームの実践を考える上でパートナーとして適任と考えたから。
・企画者は、相馬千秋さん。→『フェスティバル/トーキョー(F/T)』ディレクターとして、東京を拠点として芸術の環境を拡張して来たと認識している。
・場所は、「にしすがも創造舎」の教室を使いダイアローグ(対話)を行い、その近所のウィークリーマンションに韓国、中国、台湾の作家と一ヶ月住む。→2つの環境が少し距離がある。
・最終発表の形態は、特に決まってない。「にしすがも創造舎」の教室を使い、1時間の持ち時間にプロジェクターや現物を用いて行なう。→会場に見に来る人々はある程度の制限があり20人程度。ただustreamにてオンライン上映。あまり開かれていない環境かもしれない。

【その他の特徴】
・期間が前半1週間、一度それぞれ帰国し、2ヶ月後に再び東京へ来て、後半3週間。2−3日に1回はミーティングが開かれる(変更も可能だった)。
・東京が滞在都市であり、東京を見て回るためのツアーが企画される。靖国神社、お台場、上野、秋葉原など。そのほか、桂英史さんによる東京の別の側面の話や高山明さんの東京での滞在制作の話など。今回は被災地を巡る東北2泊の旅も企画し行なった。→対話や制作の糸口の見つけ方の例としては、①各自が用意した糸口(事前リサーチなど)、②企画者が用意した糸口(この作家ならこういうものに興味を持つのではないかなど)、③滞在しながら見つける糸口(フィールドワークなどの現場体験)、その3つを複合的に進めて行くのが効果的かもしれない。r:eadは、滞在制作場所が東京と情報量も多いからか、①は各自少し曖昧のままスタートし、③をするには少し期間が短いために、②に頼らざる得ない、構図が少し見えた。
②で得た情報を念頭に置き、「ある共有できるテーマを掲げ、グループ展的にそれに沿った作品をそれぞれが作る」という手法でこの共同プロジェクトを進めて行くことも有意義だっただろうし、その可能性についてみんなで話し合う機会もあった。ただこの短いリサーチ期間から得た共有できそうなテーマを強引にみんなの制作の上に掲げることに少しためらいを持ったし、うまくまとまらなかった。それはそれぞれが全く別の方向を向いている作家であったということでもあるが、それぞれが経験値の高い作家であった分、「簡単になにかの形でまとめてしまう」ことの危険性を意識的に避けた結果ではないかとも考えられる。
もう少し長い期間で行なう事も考えられるが、現在の期間を日本だけでなく、韓国・台湾・中国と移動しながら3−4ヶ月行なって、ひとつのプロジェクトになるのも面白い、が予算などいろいろと問題はありそう…。スンシュンは「期間後にうちのスタジオで展示できるぞ」ということも話していたし、企画からの脱線や飛躍は期待できる。
・レジデンスとして住む場所と集まる場所が距離的に離れていて(3駅)、リビング的場所がない。→逆に今回企画した、東北旅行では、その移動や宿も含めてすべてがリビング的であり対話スペースにもなり興味深かった。しかし、旅の場合、一緒にいることの強制力が強く、そういった状況が不得意な参加者もいる。“旅の行程すべてがレジデンス企画”というアイデアを、服部くんと話してみたが、日程や強制力と自由時間などとの関係をうまく作らないと難しいかもと話す。
・作家が一緒に仕事をするパートナーとしてキュレーターを選ぶこと。→初めての経験。若い作家に比べて、若いキュレーターがなかなか見つけるのが大変だ、と服部くんと話す。熊倉晴子さんにも手伝っていただく。
美術館や従来のアーティストインレジデンスの中で、そこに勤務するキュレーターと仕事をする訳ではなく、箱の無い状況へ作家がキュレーターを引き込む機会、そして何を行なうかと話し合う、のは面白い。
・ 中国、韓国、台湾の作家との共同生活/作業。→大変に貴重な経験。キュレーターは前半1週間、後半最後1週間の滞在のみで、関わり合い方が少し難しいかもしれない。ただ、作家とキュレーターとがいる場合、各国で固まる傾向もあった。
・「東アジア」という意味への言及が不透明→最近、東アジアという言葉を耳にする事が増えた。僕としては、なんだかこそばゆい言葉。「東アジア」や「アジア」ということを一括りにすることは難しい。よって、「文化による隣人たちとの連携と対話」を欧米を介さない手法の模索の場なのかと考える。
・対話では一カ国に1人の通訳を付けて、母国語で話す(英語を通さない)ことができる。「母国語←→日本語」通訳がみんなにつく。全てが一度日本語になる違和感。例えば、「韓国語」から「中国語」への変換だと、「韓国語←(通訳A)→日本語、日本語←(通訳B)→中国語」。伝言ゲームのよう。英語が話せる人にはまどろっこしい。通訳さんは言葉をつなげるだけでなく、2国間の文化やいろいろな事を中間の立場で“通訳“する、とても面白い存在感を感じる。
・対話を最も重要視していて、最終的に作品を完成させる必要性はないこと。r:eadは今回2回目だが、5回(5年間)このプロジェクトを行なった後、全ての作家を集めて、展示か何かまとめを作ることを想定しているらしい。
・対話するテーマも設定されていない。そのため、対話の中で共通のテーマを自由に見つけて討論や制作を行なうことも可能だが、少し短期間であるため、探り探りのまま終わってしまう可能性も高い。1ヶ月ではなく3ヶ月以上あれば、もう少し発展する事もあるだろう。
・企画自体が「どこで」「誰に向けて」行なっているのか不透明。逆に言うと実験的で自由度が高い。

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滞在時東京に降った記録的大雪を固めた雪碑(冷凍庫に保存中)

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服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

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服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

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服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

世界観の再構築 荒川線物語

今日、新自由主義の下に国家管理、言語政治、資本主義が複雑に発展してきている。こうした状況にあたり、アジア地域はいかに国家民族、イデオロギー、消費モデルを乗り越えて、世界観を構築した上で、現代のアートに結びつけるのか。果てなき砂漠を乗り越えることこそが地域の潜在能力を引き出すきっかけになるだろう。

最近の例としては、2014年3月8日に「アジア・アナーキー・アライアンス」展が渋谷、本郷のトーキョーワンダーサイトギャラリーで公開された。この時期は台湾廃核デモと東日本大震災福島原発事故三周年と重なる。展覧会では、袁廣鳴が公開した新作が人々を驚かせた。高い角度から鵝鑾鼻の原子力発電所、および蘭嶼の放射性廃棄物処理場を撮った作品である。作品には、竜頭岩の坂を静かに海に向かう山羊たちや砂浜にいる人たちが映っている。こうした景色を見て、山羊や私たちが原子力発電所と放射性廃棄物処理場にこんなに近いのかと思った。その一方、朗島小学校、海と波、緑の丘が人なしの調整室を囲んでいる。まるでお化け屋敷のようで、ぞっとする。

数ある反原発の声の中で、この作品は最も静かな異議だと言える。この純粋な声は、東京の片隅で反原発に対し大きく働きかけている。

陳界仁の「路徑圖」では、台湾高雄ハーバーのストライキの労働者が「世界の労働者たちが我々の仲間だ」と訴える。この度、陳さんの作品も海を越えて来日し、会場で注目された。作品からアジア・アナーキー・アライアンスにおける具体的なイメージが伝わる。概念的には、世界観の芸術性を再構築し、台湾がここ数十年かけてやってきた現代アートにおける世界観を再構築する取り組みに繋がっている。その一方、実際の行動としては、アジア民族の壁を破り、台湾から一歩踏み出している。今回のイベントは吳達坤さんがキュレーターを担当し、二年間近くの歳月をかけて、ようやく現代アジアとのつながりを掴んだ。

さらに、中年世代の姚瑞中、および若い世代の張立人、陳敬元、陳擎耀、杜珮詩、葉振宇といったアーティストも脚光を浴びている。その中で、張立人さんの「戦いの城」は都市システムを描く繊細な動画を使って、世界警察であるアメリカにコントロールされる台湾を批判した。こうした世界捉え方はまさに「アニメ世代」の台湾におけるグレードアップバージョンである。さらに、トーキョーワンダーサイトの本郷会場では、杜珮詩(ドゥ・ペイシー)さんの新作「世界の博覧会」(World Expositions)が発表された。1970年の大阪・1975年の沖繩・1985年の筑波・1990年の大阪・2005年の愛知で使われた日本万国博覧会の宣伝ポスターを元に、インターネットで集めた世界の大事件の文章と写真を印刷し、背景を透明化したうえで、A4の原稿に貼り付けて制作した作品である。

新作に対して、杜珮詩さんの前作「玉山迷蹤」アニメシリーズは過去の博覧会の写真を縮小し、世界の情報を集めるプラットフォームとした。ここでは、カッセルで開催された13回目のドクメンタにおいて、ジェフリー・ファーマーが1935年から1985年までに雑誌『Life』に載せられた「草の葉」(Leaves of Grass)の写真を切り抜いたのと同じ手法を使った。杜さんの作品ではその新しい組み合わせにより、元のアメリカのライフスタイルが覆され、日本の作った東アジアをもとにした世界観が出来上がった。アメリカにある新前衛やポップアートの代わりに、台湾と東アジアにおけるエピソードが取って代わった。もちろん、冷戦の歴史では、アメリカの要素も頻繁に出てきた。

杜珮詩さんの博覧会シリーズの作品が3月12日の「r:ead レジデンス・東アジア・ダイアローグ」で発表された。日本に従来ある素朴な美学をもとに、新しい現代の要素が加えられた。図像の表象に優れて、色の配置も鮮やかな作品である。この作品はアンゼルム・キーファーのドイツロマンス主義も彷彿とさせ、冷たさと虚しさにあふれた第二次世界大戦への反省を描いた絵画との間に大きなアジア式のコンラストを生んでいた。

今回r:eadの企画に参加したおかげで、杜珮詩さんをはじめ、日・韓・中のアーティストとキュレーターと東京で話し合うことができた。これに際し、評論家としていかにアーティストの既成作品に影響されず、自分なりの世界観を再構築することができるだろうかと考え始めた。私から見れば、世界観の再構築は特定の芸術文化に基づいた上で、世界史の観点から新しいインスピレーションを引き出す必要がある。

台湾における従来の芸術文化について、このようにアドバイスした。1980年代の台湾映画はアジアおよび欧米の評論家に注目されてきているのが事実である。こうした中、この時代の台湾映画を世界観の再構築の糧にしようと考えた。

東京に来る前に、インターネットで蕭菊貞監督が作ったドキュメンタリー「白鴿企画-台湾新映画の二十年」(2002)を見た。それをきっかけに台湾の新映画世界に入った。その時代を振り返ったら、その時の時代感、製作工程、政治と文化闘争などが詳しく残されていた。450万TWD補助金で作った「光陰の物語」(1982)をはじめ、1987年に台湾新映画監督宣言発表までの間に、吳念真、小野、侯孝賢、楊德昌、曾狀祥、張毅、陶德辰、柯一正、朱天文などの若者は素晴らしい文化をつくった。彼らは限られた環境で、当時国民党の労働組合システムとレイティングシステムに直面したが、明驥(当時台湾中央映画会社のゼネラルマネージャー、台湾新映画の父と呼ばれる)の努力によって統合し、このような文化的奇跡を起こした。それにしても、アジアや世界の視点からもう一度台湾新映画を検証すれば、また新たな評価を得られるだろう。

台湾新映画が始まってから30年後、ドキュメンタリー監督王耿瑜はもう一度新映画を検証してみた。他の台湾新鋭アーティストと同じように、彼女は編集中のフィルムを見ながら距離を取らないと新たな観点で物事を見ることができない、ということを改めて発見した。新映画に関する論争を20年後にもう一度検証すれば、「白鴿企画-台湾新映画の二十年」というドキュメンタリーと同じように、我々は見当違いな結論にたどり着く。しかし、もしこの時間が30年になれば?やはり、新映画の美学価値は、観客の視点の変化または新映画中に現れたアジア意識と世界意識の特異点によるところが大きい。

日本の是枝裕和監督、フランスのオリヴィエ・アサヤス監督、中国の王小兵監督と賈樟柯監督、イタリアのミュラーキュレーター、日本映画大学学長佐藤忠男、香港の舒琪監督、アーティストの艾未未、またアルゼンチン映画関係者まで、皆この台湾新映画が始まり王耿瑜が編集した最初のバージョンから30年経った今も、新映画が彼らとアジアを影響していることを認めて、新映画の中にある世界意識を肯定的に認めた。この世界中、ある一世代の文化人は台湾の新映画に触れ、現代の台湾人の生活を垣間みて、影響を受けている。

台湾映画助成金システム、ビジネス価値、またはビジネスバランスなどの外部因子の視点から見れば、台湾新映画の内部価値を読み取ることができない。これは、私がアジアと世界の視点から台湾新映画を検証する時に発見したもの。過去。我々はそのような外部因子をめぐる論争の中で、マーケット動向への注目は決して欠如していない。我々は欠如しているのは、世界観であるだろう。その故、如何はアジア史、または世界史の視点から、もう一度1980年代の台湾新映画を検証すること、最近の私の一つ面白い課題であった。

是枝裕和監督は王耿瑜との対談中に、彼の子供時代のことを話した。当時、家族全員がバナナやパイナップルを食べる時に、彼のお父さんは必ず「やはり台湾の方が甘いなあ」と発言していた。その時の是枝裕和監督はお父さんの気持を理解できなかったが、大人になったある偶然なチャンスで侯孝賢監督の作品『A Time To Live, A Time To Die』を見て、彼はようやく理解できた。そのお父さんの発言の中に、彼が生まれたから青年時代までに台湾で住んだ記憶、幸せ、そして台湾という故郷に対する懐かしさを含まっている。だからこそ、お父さんは太平洋戦争中に中国東北へ行って日本に戻る経歴を一切言わなかった。この是枝裕和監督の話によって、アジア性というものは、映画中に現れたパッションフルーツの中にも潜んでいるかもしれない。

インタビューの中で、賈樟柯はそう言っていた。「新映画は確かに終りだ。懐かしく思い出すことはなにも残していない。しかし、ある映画に属す生活スタイルも新映画と共に消えたことは残念だ。」この話は、「新映画はもう死んだ、新映画はもう終りだ」と呟いている我々に対して、もう一度考え直すチャンスを提供する。一体、「映画に属す生活スタイル」とは何であろう。それは、映画生産方式の更新、侯孝賢監督が映画のために屋敷を売り、楊德昌監督が車輪の音のために深夜で陽明山に行き、長回し手法によって全身で演じなければならないという特異な状況などである。また、楊德昌監督が『Boys from Fengkuei』という侯孝賢監督の映画を見て、BGMを再製作を決意したこともその生活スタイルの一つ。当時都会と田舎の現実状況を忠実に再現する、撮影周辺の環境音を忠実に収録する、日本語、台湾語、そして客家語(台湾方言の一つ)を台詞として使うなど。このようなことの中から、「現在を注目しながら現実から脱ぎだし、映像視点で世界を見る」ことができるという映画的な生活スタイルを見える。言い換えれば、この生活スタイルは一種強烈な、個人的な、創造的な世界を作るスタイルである。

是枝裕和監督は、侯孝賢監督と小津安二郎監督の間にあった美学対話を継承している。フランス監督オリヴィエ・アサヤスは楊德昌作品の中から、ロンドン、パリ、またはニューヨークなどの人間世界で共通なものを読み出すことができる。このような深くて創造的な対話と現代人間の共振ことは、正に新たなアジア観と世界観であろう。私は荒川線の夜行列車の中で、このようなことを考えた。その同時に、私もまた、侯孝賢監督が2003年小津安二郎百年冥誕を記念するために作った映画『Café Lumière』の内容を考えていた。映画の中で、一青窈が演じる井上陽子は名も知らない台湾人の子供を受胎した。彼女は電車の中で、一体どのような孤独を感じているのであろう。

万国博覧会

この度のr:ead レジデンス・東アジア・ダイアローグのプログラムにおいて、私は「万国博覧会」をテーマとしてコラージュ作品を創作した。まず、日本が1851年以来主催した万国博覧会の宣伝ポスターを集めた。「人類の進歩と調和」をテーマに揚げた1970年大阪万国博覧会、「海-その望ましい未来」を主題とした1975年沖縄国際海洋博覧会、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマとした筑波国際科学技術博覧会、「人間と自然」をテーマとした1990年大阪国際花と緑の博覧会、「自然の叡智」を主題とした2005年愛知万国博覧会などだ。それらのポスターをA4サイズのイメージにし、その上に各博覧会のあった年の出来事のイメージを貼り付けた。イメージからあふれたさまざまなメッセージを同じ視覚平面に重ねる。下記は、博覧会と一部出来事の対照リストである。

1970年-「人類の進歩と調和」/ビートルズ解散/PFLP旅客機同時ハイジャック事件/ケント州立大学銃撃事件/ベトナム戦争反対運動/フロッピーディスク開発/ソ連の宇宙探査機ベネラ7号が金星に着陸/ 中華人民共和国が初の人工衛星東方紅1号の打ち上げに成功

1975年-「海-その望ましい未来」/レバノン内戦/マイクロソフト社創立/初期のベトナム難民が船で香港に入国/国際婦人年/アポロテスト計画執行開始/ベトナム戦争終戦/ポルポトがカンボジア首相に就任

1985年-「人間・居住・環境と科学技術」-タイタニックの残骸を発見/ネバドデルルイス火山噴火、アルメロ悲劇/南極上空にオゾンホールを発見/ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任/新しい味のコカ・コーラが発売/ディスカバリーチャンネル放送開始/AIDS血液検査が承認される

1990年-「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」-野百合学運/ドイツ統一/ネルソン・マンデラ釈放/ハーブル宇宙望遠鏡打ち上げ/レフ・ヴァウェンサがポーランド大統領に就任/イエメン統一/ゴッホの「医師ガシェの肖像」が史上最高値で落札

2005年-「自然の叡智」-ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを直撃/ロンドン77同時爆破事件/インドの寺での死傷事件/米軍レッド・ウィング作戦失敗/イタリア女性記者スグレーナ氏救援/小泉純一郎が内閣総理大臣に就任/カナダが世界初の同性婚を合法化する国に

日本が主催した国際博覧会のポスターを通して、世界への想像を表現した。それが現実世界の出来事と呼応することもあったが、皮肉と対照することも多かった。今回の作品の中には、想像の裏に隠れている時代意義と雰囲気への興味を表現した。また、今回の創作を通し、東アジアを基盤とする世界観を構築した日本を観察した。

アジア観点の出現は西側中心論と大きな関係がある。アジア概念はキリスト教文明と産業革命を背景とする欧米概念と異なり、多元性・非統一性という特徴を持つ。今回のレジデンスで、芸術領域におけるアジアの問題に対し、二つの考えがある。一つは、なぜ現代芸術がアジアに関心をもつ必要があるかということ。50~60年代に多く論及された地域問題に対し、今の論議は新たな方向を見つけられるかということ。芸術家である私は、「芸術」を純粋な概念の中心としてアジアを考えるべきだと思っている。もう一つは、現在、我々が新しい帝国の形をつくる必要はあるかということ。90年代から始まったビエンナーレの流行により、アジア観念を構築し、ヨーロッパ観点から脱出し、新たな言葉の権利を獲得する意図が明らかになるであろう。このようなアジアのイメージ統合の必要性の有無、あるいは差異が存在し続ける限り、革新が現れる可能性があるかもしれないことは、考えるに値するのであろう。

東アジア、同時代、私たちがしなければならない行動は何だろう。

2013年12月、2014年2月に行なったr:eadは重要な時期に重要な人々と一緒に過ごした場に違いない。4ヶ国から集まった4名の若いアーティストと4名のキュレーター、ディレクターの相馬千秋さん、それから花々しい活躍をみせたスタッフは、長期間のあいだ一緒に、同時代の芸術における社会的争点について話をした。過去の芸術的、社会的システムを受容しながらも正反対に反発しようとする、若い彼らの発言とテキストから強い同志意識を感じた。

今日は第二次世界大戦が公式的に終わった日で、僕がいるオランダのアムステルダム及びヨーロッパでは小さな記念行事が行なわれている。第二次世界大戦以後、世界は平和的に過ごしているが、まだ人類が解決しなければならない問題は散在しているようにみえる。この間、韓国ではセウォル号の沈没事故があり、幼い命が跡形もなく命を落とした。とても悲しいことである。

長い時間の流れの中で、この世に少しだけ留まって去っていくひとりの人間にすぎない私にとって、この事件は、この世を大きく変えたいということよりは、私が生きている間に、何を、どのように行いながら生きていくべきかについて、本質的な問いをもう一度呼び返させた。すなわち、死ぬ前に価値がある仕事をしたいということである。

もし、特定の人が真の価値について悩み、追求するのであれば、それは芸術的な価値であれ、社会的な価値であれ、政治的な価値であれ、その行為と努力について認められることは当然である。私がr:eadで話したかったこと(今も継続しているが)も結局は同じ脈絡から始まっていることをもう一度強調したい。

私は個人的に、自らの価値を「肯定的な変化」と定義しようとしている。この世は、絶えず変化していて、個人と集団のエネルギーも変化から発生するのであると考えている。停滞はすなわち、死を意味する。人間の生活は変化するエネルギーがあるからこそ存在する。これは、熱力学の第一法則とも相通ずる。人類と社会の集団もこのような変化の段階にて、エンドルフィンを発散してきた。何かが変わり、何かがおこり、希望を抱くことができる時、社会を構成する人々も幸せを感じるのではないか。人間の物質文明は、すでに変化の段階に来ている。大きな悩みによってその変化が肯定的な方向に流れることが出来るように、方向性を提示することもまた大事であると考える。

私がr:eadでやりたかったリサーチは、直接的であろうと、間接的であろうと、私と同じ考えを持って学術的、行動的、芸術的な行為をする人々に会って、これからの人生の方向性を定めていくことであった。(これは、作業の方法論を判断する行為とも言えるだろう。)今月からはそれと同じリサーチを韓国でも進めている。リサーチは自分のアーカイヴとして存在するだけではなく、積極的な活用と流通を通じて広く共有していく予定でいる。同時にリサーチをする行為が多層的な文化芸術の交流として機能する期待感も持っている。今は未完成であるリサーチを続けながら、同時にリサーチがどのように肯定的なプラットフォームとして変形できるのかについて考えてみる。

最後に、r:eadのディレクター、スタッフ、それから無限のインスピレーションを与えてくださった参加者に、もう一度感謝の気持ちを伝いたい。

2014年 5月 5日 火曜日
オランダアムステルダムから

r:eadからの所思 人生はいつもほかのところにある

大体自分がトラブルに遭う時は、困難を上手く乗り超えた人間からコツを学びたいと考えている。
そのような考え方は、改革の根拠として他山の石を望み、そこから理想的なユートピアを構築することにほかならない。今日でも変わらず、われわれには一つの非常に美しいユートピアがある。また、人間自身が装って自分の行きすぎた鮮やかな過去に夢中になった時、自分より悪い競争相手を選択的に空想し、単に鮮やかな光によって作られた陰しか見ず、現実を直視せずに自分自身を麻痺させる。これはアヘン戦争の直前、中国の清王朝がイギリスに対して認識上無知だったことと同様である。
この理想化した他者との制度は、地理的また空間的な遠さに限らず、時間的な遠さの場合もある。従って、歴史を遡って何かを求めることには批判的なパワーもある。チャールズ一世の時、イギリス人はこの暴君の統制をいち早く倒そうとしたが、彼が本当に首を切られた後、彼の統制下の時代の所々が逆に人々に懐かしく思われるようになった。フランス大革命で殺されたルイ16世と皇后も同様であり、何年か後、皇后が死刑執行人の足を踏んだ後言った「申し訳ございません、わざと踏んだわけではありません」という言葉が逆に人々の印象に残った。この言葉から暗示された修養は、大革命で起こったすべてのことと比例していた。
人間と他の動物の違うところは、常に不満を感じることである。従って、他の場所、あるいは他の時代が今より素晴らしいかもしれないと、人間は思う。また、そういうことは歴史の中で循環的に繰り返されているようだ。英語の革命という言葉には循環という意味もあることもうなずける。
過去、あるいは遠いところに他山の石を探す原因の一つは、当然ながら、物事を批判するにはある段差が必要で、この段差が大きければ大きいほど、現実を覆すパワーがあるからだ。従って、人々がある白黒の対立を構築し、完璧に近く他者と何もない現実に対抗している状況を作る時もある。人々は常に自分の国を激しく批判しながら、無知で他の国のことを賛美しすぎる傾向にある。例えば、現在東洋の国々は西洋そのものではなく、西洋に関するある理想に頼っている。時々、人々は他人への賛美が単なる手段の一つであるのを忘れ、知らず知らずのうちに真剣になり、手段を目的と勘違いし、冷静に現実と自分自身を正視するのも忘れるようになる。実は、われわれの真の意図は、西洋を賛美することではなく、現実を痛感することだ。ピエールブルデューが主張したように、都市も田舎も常に同じ道理である。「一つ肯定できることがあって、それは農民の立場から、或は農民のために農民のことを考える。農民の美徳と農村を賛美する言葉は、ただ都市の労働者の悪習と都市の罪悪を批判するための遠回しの言い方にすぎない」
これはあらゆる人生がここではないどこかにあるということである。そもそも人間は現実を離れる満足感を容易に得ることができるので、別のどこかが憧れのユートピアになるわけだ。しかしながら、このユートピアが事実でも真実でもなく、建設性も足りていないのを指摘すると、問題点も出てくる。そのような構築に反対する人々に対し批評者たちは、彼らが事実を是正しているのではなく、現実を変えようともせず、既存の秩序を弁解しているだけだと考えている。批評者にとって、元々の意図とは、ある現実を超えている秩序のパワーを借りて現実を反省、批判することだ。こういう状況の中で、随波逐流せず、世の大勢に左右されない独立性のある考え方が非常にあり難くなるわけである。
アメリカに行ったことのない人は、固定イメージを通じて国を想像するしかない。アメリカ人の仕事ぶりに対して、我々はすでに先入観を持っている。だから、アメリカ(アメリカ人やその過去)を考えるとき、イメージで「アメリカ事情」を構成する。同様の心理で私たちは、自分の認識の中に思うような’世界の模様’を作り出す。これは理性の限界であるが、古代と伝統について確かに自己認識に従うものだ。
古代のことを振り返って見ると、星空を眺めているような感じがする。数多くの星は実際全く違う距離と大きさだが、私たちの目の中では、まるで同じ光である。その「広い曲面」はまた「空が丸、土が方」のように当然なことで、人類の本能的な反応のようだ。だから星空の無限な距離感や層別感を感じがたい。
現代中国人の古代についての想像は明朝中期のイメージに基づいて形成した普遍的な認識であり、この間新たな物事がたくさん出てきた。つまり、この段階の発展は、中国人の古代認識を作り直し、伝統文化へも影響している。そして、現時代に近いイメージをツールとして昔の想像を作る。特に伝統断裂の時代では、私たちに必要な「シンボル」がなかなか見つからず、古代を「組み直し」て作ることになる。「文化工作」という仕事は実際これに属している。たいていの現代人は「伝統文化」への理解もその時期の歴史認識に従う。もっと前の時代だったら、人造な「新文化」とも言えるだろう。「古代」という言葉と同じ、普遍的な伝統も変化や深さを欠いた単一なものとされるが、実は複数である。
さらに、「古代」と「伝統」の内部にも相互矛盾と競争がある。この隠された観点は「伝統」が全体的に否定され、また「古代」の普遍的なロマンス認識の原因になる。しかし、注意すべき点、我々が想像したあの「古代」は、昔からずっと変わらない訳ではない。特に現在この「欠片時代」の中で。

地図の隠喩
私たちは長い間、地図という存在に慣れていて、地図はただ世界を抽象的に再現しているだけだということを忘れがちである。私たちは、周囲の世界について熟知しているかもしれない。しかし熟知とは、ただ表象とイメージだけをよく知っているだけだ。また認識とは、あらかじめ仮想した表象も含まれると考える。前者は表面的であるが、生き生きしている。一方、後者は深刻だが、概念的である。
ただリアルな景色を感知する人と比べ、地図を見ることができる人はよりレベルの高い思考能力を持っていると思う。こういう人は抽象的な点あるいは線や面で、前者が想像できない空間の関係を感知することができる。地図とは一連の記号の凝縮だからである。一つの点で一つの町や村を表し、一つの線で一つの道や川を表し、一つの青い色の面は海を表すことになる。地図を作る持続的な努力自体は一種の衝動だろう。この世界をそのまま表し、抽象的な記号を通して世界を認知・把握・コントロールする。ところが、アーティストに対する要求は兼ね備えることである。これはダ・ヴィンチのすごいところでもある。
「世界」は変わらないものではなく、違う時代の違う人にとって、その範囲と意味にはかなり差がある。大勢の人が指摘しているように、人々は自分の知っている、もしくは見たいと思っている世界を地図で表す。これは認知能力の制約であり、想像と理解の制約でもある。中世の人はアメリカ大陸を描くことができなかったし、エルサレムという聖域を世界の中心にした。それは彼らがそのように世界を構想し理解しているからだ。その時代において、地図は神様が集まる所だった。古代の地図を振り返ってみると、比例と尺が少し歪んでいて、物足りないと感じることがあるが、それがその時代の人が見ている空間なのかもしれない。地図の地理に関する想像は常にある観念と思想を潜んでいる。実はこの微妙な心理は現代においても同じではないかと思う。中国が出版している世界地図だと、中国は世界の中央にあるように見える。またヨーロッパを中心にする地図から見れば、中国大陸・台湾・朝鮮半島・日本列島は右側の隅におかれてしまって、形が歪んでいて、世界の端っこでぶるぶると震えながら、お互いに頼っているように見える。
地図を読めるのは古代ではまだ少数の人しか持っていなかった権利なのかもしれない。しかし印刷術が普及するにつれ、それはもう皆の経験となった。この新たな時代では、世界は上に伸びたり下に墜落したりできるような縦に多層な空間ではないと知られている。天国も地獄も、平たく、目の前に展開していく広い面になっている。
地図をつくる技術の発展は二つの流れがある。一つは「極めて大きな多様性からある種の理性的なかつ操作できるような構造」に測量し、そして、測量する側と測量される側の間に主観的な、あるいは、客観的な二極化した概念を形成する。世界は「故郷」ではなくなり「居場所」となる。世界も国家も独立した、実態化したイメージとなる。一方、もう一つの流れは、より分かりにくい。測量技術の発達により、地図があらわしている世界は本当の世界であることを人々に思わせることができた。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの夢は有名だ。地図を本当の世界と等身大の比例で作ること。この地図はリアルなものではなく、バーチャルなものである。ところがこの夢の実現の前に、世界に科学的で正確で完全で普遍的な表現ができたので、世界自体がある巨大な地図と想像されてきた。そして、今、世界は地図があらわしているように存在しているのだと人々に深く信じられている。
このようなことは、私たちのツール、例えばハサミかハンマーに対する認識と同じであると思う。切実な認識は、使うことを通して得た経験から生まれるもので、ツールそのものの形と関係ないはずだ。だから、カフカは「自分の無知さと、自分が永遠に手に入れられないものが何かということを認識させてくれるのは旅しかない。」と言えたのかもれない。
これで、リアルとバーチャルの間の境界線が曖昧になってしまい、その二つの関係が逆にもなってしまった。地図は本当の世界のように作るべきではなく、本当の世界は地図が示しているように存在すべきだということになってしまった。「紙に書いているヒントに頼りながら物を探す」ように、全てのリアルと再現の間に隙と差がないわけがない。リアルな人や景色は写真みたいに美しくないと、私たちはよくこうやって現実の世界に対して失望したりする。なので、地図を頼って世界を知ろうとする人ももちろんそう考えるだろう。地図は記号が濃縮してできた抽象的な平面図で、間違った距離感と空間意識を生み出す可能性が高いだろう。
このような状況で、「地政学」というのは「地図学」と呼ぶべきではないかとも思う。それにいわゆる「愛国主義」というのは、「国」を愛しているというより、「形」を愛しているのではないだろうか。イタリア人が愛しているのは一つのブーツで、中国人が愛しているのは一匹の鶏である。けれど、このはっきりした形に比べて、本当の現実は逆に抽象的なものになってしまった。
地図が映し出すのは事実というより人々の考えだ。しかし、この考えはよく事実だと認識され、人を間違った方向に導く傾向にある。例えば、地図上同じ丸い記号で表されている町は、おなじ状況にあるだろうと勘違いされたりすることがある。これは政治地図を作る時に一番顕著だ。現代の人が描いた歴史地図の上には、いつもはっきりとしている境界線がある。まるでそれは歴史上に本当に存在しているように見える。現代において、国境線と政治区域の表示方法について、我々はよくこんな勘違いをしている。国境線の両側に雪と墨のような違いがあり、それぞれの内部は均質なる実体が存在しており、そして、これらの実体は「国家」というものが形成されたずっと前に、存在しているものだ、と。しかし実際は、たとえばソマリアのような国家は、どこの視点から見ても、国家としてはもうすでに存在していないのにもかかわらず、全てのアフリカ大陸の政治地図の上に登場している。まるで、あの土地には何も起こらなかったように。一方、オランダは現代の人が復元した古代ローマの地図ではローマの境界線で二つに割れてしまっている。しかし今の地図から見ると、ローマという国自体は地図に存在せず、そこにあるのは、オランダだけだ。
人の経験した世界と世界の実体の間に本質の違いがある。それなのに本当の世界は我々が体験している世界と同じものであるはずだと思われている。いくら挫折してもその考えを諦めないのだ。
人は世界に対してこのような振る舞いなのだから、お互いに付き合う時にはなおさら、同じような振る舞いをしている。これは先天的な「文明の傲慢」だと思う。たまには運良く地理の距離を間違って計算し、コロンブスは新大陸を発見した。たまには笑い話になることもある。19世紀初期、誰かが北アメリカ大陸の地図の西南部に「アメリカ大砂漠」を描いてしまったせいで、当時の開拓者は自分たちがこれから肥沃な大平原を越えようとしていることを知らずに、砂漠に備えてラクダを用意してしまった。
近代になると、地図はただの再現ツールではなく、改造するためのツールになった。フランスは1789年以降、歴史地理のことを一切考えず国を一つ一つのブロックで分けて管理した。列強も同じくアフリカ大陸、アメリカ大陸を制覇する時に、地図の上にそのまま線を引いて境界線を作った。さらに、計画設計図を書くときにも、よく現地の事情を参考にしないで地図上に線を引くことがある。これは実は権力の要求でもある。現実は地図のように存在しており、我々は地図の上でその土地のことを変えたり、完成させたりすることができる。そのため、L.Aは都市計画が失敗した典型的な例になった。ルイス・マウントバッテンの方針は直接インド・パキスタン分離独立とそのあとの戦争に結びつき、間接的に、バングラデシュという新しい国家も作りだした。
こうして、「東アジア」という概念が生み出された。これは地図だけではなく、知らず知らずのうちに人々の「願望」として受け取られた。そして、「権力」を握っている者にとってはなおさら。最後に、補充したいのは、「東アジア」のもう一つの名前だ。それは「極東」という…。

2014年3月10日 東京

r:ead、ナショナリズム、国家、東アジア、スンシュンそしてまたr:ead

アジア情勢が緊迫する中で、まさに緊張の渦中にある国々の人が集まるこのレジデンスは刺激的であったし、またいろいろな事を考える良い機会となった。
領土問題、差別問題、外国人排斥運動、少数民族の弾圧、内戦、これらは世界中で起きているが、中でも領土問題については中国、韓国、日本はここ数年大きな問題を抱えて来た。たとえその下に大変な資源や油田があったとしても、その恩恵にはまず一般市民は預かる事は無い。それなのにたかが数百メートル四方の岩だらけの島をめぐって争うことは馬鹿げているように思える。r:eadのレジデンスの我々はアートコミュニティという、ナショナリズムよりもさらに親密な小さいコミュニティに属しているので、そういう険悪な雰囲気は全くなかった。楽しい時間を共有し、また個人的なところから大きな話まで論じ合えたと思う。
私は香港に住んでいるので、アジアの国の目から日本をみるとき、誇らしいこともあるが恥ずかしいこともたくさんある。我が国の首相の選挙票獲得のための靖国参拝は、内政と米国のみを気にしていればよかった戦後からの旧弊をひきずる日本政府の悪い一面を露呈しているのに、いっこうに止む気配がない。
私自身すでに自国に愛憎入り交じる感情を持つ事自体、愛国心があるということになるわけだ。日本は単一民族という神話があることや*1、国家や企業を家族の延長と見る“お家”的な考え方が数百年も続いているせいで特に強いのだろうか?だが領土問題で焼身自殺までしてしまう人が他の国にもいるし、オリンピックやワールドカップなど自国を応援する気持ちなどはどこの人にもありそうだ。そうすると程度の差はあるかもしれないが、愛国心やナショナリズムは世界の多くの人々が持っているものだろう。
最初の発表の内容に戻ってしまうが、国家は力のある人々が自分たちの利益を守るためにつくりだしたものである、という考え方がある。近代国家の始まりは平和的なものではなく、“戦争が国家を造り出し、国家がさらなる戦争を作り出した。War made the state, and the state made war.”*2 ものだ。

そしてその国家の構成員である国民は国を誇りに思い、愛するべきなのである。村落のような、顔の見える共同体の単位であれば、外界から自分たちを守るためにある程度の規律も必要なので、首長がある程度の権力をもつことが古くからあった。しかし、国の単位となると、もう会ったこともない人々、同じ国であっても民族や文化や宗教が違う人々への共感を創りだすのは難しい。国の単位のコミュニティというものは実は成立しにくいが、国家をどういう形態であれ保持するためには、人々の愛国心が必要である。それは、全体主義国家(Totalitalianism), 共産主義国家(Communism), 社会主義国家(Socialism), 民主主義国家(Democracy), 独裁主義国家(Dictatorship), 権威主義国家(Authoritalianism), いずれも同じである。しかしその形態に寄っては愛国心/ナショナリズムの統治のための必要度が異なる。独裁制、権威主義ではもっとも重要なもの。だから独裁者は情報統制やセンサーシップを行う。(中国、北朝鮮、シンガポールなど)*3
国家は法的、経済的、地勢的、政治的一つの単位だ。もし国民の同意がなければ、クーデターや革命、暗殺が起きる。そこで想像上のコミュニティとしての国家という名の共同体が必要となる。
そのギャップを埋めてゆくのがマスメディアだ。まず言語(文化)的な統一によって、新聞(当時)などで遠く離れた同国民のエピソードなどが語られることにより国という単位での一体感を生む。中国では、広東語を話していた地域の人々も今は北京語を話す。少数派の言語や宗教は抹殺されるが、言語や宗教が文化に果たす重要な役割を考えるとき、それらの統一がいかに乱暴なものであるか気づかされる。その段階をへて、新聞やテレビなどで、同じ国の遠い場所の人々が紹介され、コミュニティとしての幻想の国家が造り出されてゆく。そしてそれは個人のアイデンティティにも入り込んで行く。近代国家ができてから数世紀と経たないうちに、国家はもう私たちの個人の心の中に刷り込まれている。
アンダーソンによれば、国家の概念ははなはだ疑わしいもの*4で、その正統さはいまだ証明できていない。しかしながら、“ネイションネスとは、今日の我々の政治的な側面で最も普遍的に正統とされている価値である。
(Nation-ness is the most universally legitimate value in the political life of our time.”*5)
‘平等ですばらしい共同体、国家という美名のもとで、これまで数えきれない汚職、不平等、搾取が行われて来た。数世紀にわたって、国家のために数百万もの人々の命が絶たれ、もしくは自ら死を選ぶ人々が増え続けた。
そしてそれはこのような想像上のコミュニティのために行われてきたのだ。
Regardless of the actual inequality and exploitation that many prevail in each, the nation is always conceived as a deep, horizontal comradeship. Over the past centuries, for so many millions of people killed and willingly to die for such limited imaginings. (Anderson 1983)‘ *6
とはいえ、私たちの国、そして歴史はまぎれもなく存在していて、力を発揮している。さまざまなわだかまりや問題、そういうものをどうやって分裂ではなく調和、争いではなく話し合いで考えて行くのか。しかも話し合う人々は、もう当時の人々とは違うのだ。なんとか良い方向に向かって欲しいものだ。アジアの国々は、いろいろなものを共有できる兄弟のようなものなのだから。

と、ここまでの話はレジデンス中に発表したことであるが、さて、アートのことを全く書いていない。今回キュレーターとしての役目は果たせたのか?
展覧会はなかったけれど、私はスンシュンとペアでここに呼ばれた。スンシュンには前回書いた自由の女神の話など、いくつかの提案ごときものは行った。もちろんその通りの作品は作るわけもなかったけれど、神田で購入した古い戦時中の地図の上から墨で絵をかく、地名を残して星座に見立てる、といった美しく、政治的で素晴らしい作品を制作してくれた。
これらの作品は、r:eadの議論や発表の時間、そして夜の居酒屋での時間に、私もではあるが他のr:eadメンバーとスンシュンがたくさん話し合ったこと、その内容が彼の芸術家としての頭脳の中で醸成され、数ヶ月の時間をへて制作に至ったものではないかと考えている。超がつくほど忙しいスンシュンが、東京でじっくり人と話したり、制作したり集中できた結果でもあるだろう。そういう意味では、“制作はしない”レジデンスとはいえアーティストには十分なインプットの期間になったのではないだろうか?
わたしにしても同じで、育児や大学、仕事に追われる日常から離れて東アジア、なんていうとてつもなく大きなテーマを、実際のその国の人たちと話し合い、文献を読んで考える良い機会となった。こういうチャンスを作り出してくださったスンシュンと皆様、香港で待っていてくれた子ども達と家族に心から感謝したい。

  1. 小熊英二 単一民族神話の起源—日本人の自画像の系譜、新曜社、1995
  2. Charles Tilly, Bringing the State Back In, edited by Peter Evans, Dietrich Rueschemeyer, and Theda Skocpol, Cambridge: Cambridge University Press, 1985
  3. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983
  4. Hugh Seton-Watson ‘その現象は存在する。しかし国家についてのいかなる科学的定義も確認することはできないという結論に至った。Thus I am driven to the conclusion that no “Scientific definition” of the nation can be devised; yet the phenomenon exists’ Nation and States: An Enquiry Into the Origins of Nations and the Politics of Nationalism, Methuen, 1977
    Tom Narin ‘国家についての理論は、マルクスの偉大な歴史的過ちだ。The theory of nationalism represents Marxism’s great historical failure’ The Modern Janus: Nationalism in the Modern World, Random House, 1981
  5. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983.
  6. ibid.