r:ead ボランティア大募集!

現在r:eadでは2月17日(月)より滞在を開始するアーティストのサポートやディスカッションの通訳など、さまざまなかたちでプログラムをサポートしてくださるボランティアを募集しています。

・東アジアのさまざまな事柄に興味がある
・日本・中国・韓国・台湾のアーティストやキュレーターと対話し、思考を深めたい
・今活躍する若手アーティストやキュレーターが何を考えているのか知りたい、制作過程を間近で見たい

など、r:eadの活動に共感していただける方なら年齢・国籍・経験は不問です。
中国語、韓国語が堪能な方は大歓迎!!
みなさまのご応募お待ちしております。

期間:2014年2月17日(月)-3月14日(金)
活動内容:アーティストの生活面のサポート、制作サポート、通訳、翻訳、その他期間中に行うイベントやアクティビティーのサポート
場所:にしすがも創造舎、ほか
※ 交通費支給 / 出勤日や時間は応相談

こちらからお気軽にご応募ください。
ボランティアに関する質問もこちらからお願いします。
[ボランティア応募フォーム]

r:ead × comos-tv × 森美術館 特別企画トークイベント開催決定!

「r:eadとは?—東アジアにおけるコミュニケーション・プラットフォームを目指して」

今回で2年目を迎えたr:ead(レジデンス・東アジア・ダイアローグ)。「東アジア地域(中国、韓国、台湾、日本)のアーティストや、キュレーター、ドラマトゥルク、批評家のためのコミュニケーション・プラットフォーム」というコンセプトを掲げ、対話とプロセスを重視したレジデンス・プログラムとして実施されています。
今回のトークイベントでは、「そもそもr:eadとは?」という問いに答えつつ、このプログラムの全体像やビジョンを明らかにします。昨年の参加アーティストである小泉明郎氏、現在参加中の下道基行氏に、それぞれr:eadで得た対話や体験を語って頂きつつ、アジアのアートシーンで多くの実績をもつ森美術館の片岡真実氏をゲストにお迎えし、東アジアにおける同時代芸術と社会の関係について議論を深めます。司会は本プログラムのディレクター、相馬千秋が務めます。

《comos-tvとの連携により、森美術館の一角より完全生中継が実現!ぜひご視聴下さい!》

日時:2014年2月27日(木)19:00~21:00
視聴URL:http://www.ustream.tv/channel/comos-tv
※今回はUstreamの放送のみです。

■出演
片岡真実(森美術館チーフキュレーター)
小泉明郎
下道基行 
相馬千秋(r:eadディレクター)

主催: NPO法人アートネットワーク・ジャパン
共催:comos-tv
特別協力:森美術館
協賛:アサヒビール株式会社
助成:台北駐日経済文化代表処 台北文化センター
平成25年度 文化芸術の海外発信拠点形成事業(アーティスト・イン・レジデンス事業)

ノスタルジアと考現:1930年代におけるアジアの断編について

時が過ぎた品から、初めての鉄骨建築から、初期の工場建築から、昔の写真から、なくなった品物から、大きなピアノや五年前の洋服から、時代遅れのホテルから、彼は革命のエネルギーを見ました。
ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン

ノスタルジアは過去を懐かしむようなものであれば、モデルノロジーは過去に対する理解を現在への転用になる。ということになると、現代の作品の中はノスタルジアとモデルノロジーの融合を好む傾向がある。奇妙なタイムマシンのように、このレポートの時間軸を1930年に設定する。どのように芸術家は1930年代を中心にした、ノスタルジアとモデルノロジーを行うかを考察し、それと同時に、アジアの現在の状況からスタートし、結論もアジアにとどめる。
一般的に、ノスタルジアという考えは古い物に着目することにすぎなく、物の質感をタイムマシンになったように時間から生まれた距離感とエネルギーを捉え直す。しかし、もし我々はアンティーク商人的な視野から離れてもう一度考査してみると、ノスタルジアの気持ちが最も起きやすいのは人の変化。すなわち、人間の態度や生活スタイルは取り返しのつかないことになる。要するに、最も時間の交差を感じるのは生命形態の変化だろう。ヴァージニア・ウルフの小説のあの言葉のように「1910年以降、人に劇変が起きた」 現代社会は昔の人や生活スタイルに少しずつ浸透し取り返しのつかない変化がおきた。
アジアの生命形態の変成を綴る小説といえば「名人」である。
この作品は作者である川端康成自身が一番気に入っており、非常に手が込んだ作品と言われている。1938年6月から12月に行われた「本因坊秀哉引退試合」がモデルになっており、新聞の報道や哲学的な分析、客観的な評論を総合し、抽象的なタイムマシンに仕上げた川端はモンタージュのようにこの秀哉名人と大竹七段の囲碁試合を表現した。秀哉名人は集中力がありながらゆったりした雰囲気を漂わせる。病気によって3ケ月の休暇を取ったが、ゆったとりした雰囲気が依然としている。秀哉にとって囲碁は芸術作品であり、気取らない態度で囲碁の試合に臨める。試合以外の時間は花見、ビリヤード、マージャンや友人と会うことなどで気分転換をし、ストレスを解消する。その反対、大竹七段は殺意のような雰囲気の持ち主であり、戦場で戦っている戦士のように鋭い感覚や素早い動きから緊張感を感じる。休憩の時間でも囲碁を考え続けてひと時も気持ちを緩めない。結果、30歳の大竹七段は5目で白子を持った名人秀哉に勝ち、1940年1月の試合終了後間もなく、秀哉は病気でなくなった。
川端にとって65歳で他界した秀哉は一つの時代の終了を意味しているだけではなく、アジアにおける美意識への最後のカウンターパンチとなった。川端にとってのノスタルジアは、消えてゆく品性に対する考察ではなく、人格や生命への指標となる。囲碁の試合の途中、突然抜けたり手元の扇子を弄ったり、頭を上げて庭園の風景を眺めたり、そんな秀哉の精神に対して残念な気持ちを持ち、芸術の道を歩んできた秀哉に尊敬の気持ちを持った。大竹に関しては、アジアの現代化におけるウェスタンの訓練に過ぎない。殺意を感じる化け物とも言え、手段を選ばず規定を守るマシンのような物だとも言える。よって川端の小説の芸術構造は彼自身の美学的感性によるものだ。彼の小説は現代アジアのタイムマシンになり、ノスタルジアではなく古き良き美学が現代に受け継がれている。すなわち、ノスタルジアはモデルノロジーになる。
2007年の年末に台北現代美術館にて行った展覧会「名人-川端康成に倣う」において、謝素梅は川端の美学哲学を引用し、現代芸術と「芸道」精神の関連性を示した。碁盤の線は消え、碁石は無限の空間の中で対決した。ヨーロッパのルクセンブルクに在住する華人芸術家にとって、彼女のモデルノロジーの中にアジアの芸術精神の価値が欠けていると評された。これはもう一度訴えるべき課題であり、ノスタルジアというものからかけ離れ、モデルノロジーを通じで芸術の実践や創造をしてゆく。
僕はキュレーターとして東京でレジデンス・東アジア・ダイアローグ(r:ead)を参加した。東京芸術大学の桂英史教授はモデルノロジーの研究における現代的なヒントを三つ提案した:公園、彫刻、闇市。
僕は靖国神社の大村益次郎の彫刻を見に行った。大村は日本の陸軍を確立した人物である。遊就館でゼロ戦の戦闘機をみて、押井守の映画「立喰師列伝」で見た、戦後食料不足による新橋、渋谷、新宿あたりにある闇市の実態や、当時華僑人や朝鮮人と日本人の間におきた土地管理の奪い合いなどを理解できるようになり、同時に新橋の現状も考察した。
その中で一番興味を引いたのは上野公園だ。台湾総統府の建築士「森山松之助」は1907年に上野公園で行われた「内国勧業博覧会」の「台湾パビリオン」を担当し、絶大なる評価を得た。特に「台湾喫茶店」の設立は革新的であった。ちょうどその当時、台湾総統府は新庁舎の設計コンペが行われていた、森山は積極的にコンペを参加し、コンペを勝ち抜いた森山は、台湾で新庁舎の工事主任として赴任した。現在は残念ながら当時の「台湾パビリオン」の姿は残されていなかった。とはいえ1929年朝鮮博覧会の台湾パビリオンや、1935年に台北で行われた「始政40周年記念台湾博覧会」や1936年岐阜で行われた「躍進大日本博覧会」及び「福岡市博多市博覧会」など、残されなかった「台湾パビリオン」は台湾物産や殖民地文化の象徴として輝いていたに違いない。
過去の風景はもう残っていないと戸惑う気持ちもあったが、高山明氏がプロデュースした「東京ヘテトピア」は私に少し希望を与えてくれた。ドイツで演劇を勉強した高山明は、現在の東京におけるアジア各国の政治難民や移民などと関係する13個の地域について興味をもち、このプロジェクトを始めた。このプロジェクトのコンセプトは「東京でアジアを探す」。いわゆる歩く「旅の演劇」だ。参加者はガイドブックと携帯ラジオを手に様々な空間を訪れる。目的の場所でラジオから流れる、かつてその場所に生きた人や縁のある都市や国の物語。そして観客は未知のアジア、そしてヘテロピアとして東京に出会っていく。
まずは、東京芸術劇場の地下にある築地小劇場。革新的なアジア演劇の公演が多数行われていた劇場だ。例えば、旧ロシアの演出家トレチャコフ (Tretiakov,1892- 1939)の「叫ぼう、中国」は1929年からこの劇場で公演が行われた。また、朝鮮独立運動の代表劇場作品「金玉均」は1928年からこの劇場で公演が行われた。その他、周恩来が1917年に日本に留学した際に、神田神保町の「漢陽楼」に、故郷の味である肉団子を食べる目的でよく訪れた。54歳の明治大学教授、菅啓次郎は1976年の「第一回天安門事件」を中心とした作品を制作し、ラジオ番組で流した。
13個の場所の作品の中、一番興味を持ったのは池袋要町付近の王家之墓。台湾移民の温又柔が作った作品の中心人物は台湾の言語学者独立運動の推進者の王育徳(1924-1985)。1957年に出版された王育徳の著書である世界で始めての「台湾語常用単語」を素材とした、王育徳の物語を綴る。王育徳は日本に留学し、台湾語には発音表記がないことに問題意識を持ち、第二次世界大戦の際中に在学していた東京大学中国哲学博士課程の勉強を中断し、台湾に戻る。その後、台南第一高校で教師となる。台湾語で現代演劇を創作した。しかしその後に起こる228事件の渦中、香港経由で日本に亡命した。その後は博士号の勉強を引き続き行い、1969年に東京大学の歴史における初めての台湾人文学博士となった。1960年に黃昭堂、廖建龍などの六人と「台湾青年社」を設立。その同時に、「台湾青年」の日本語版が出版された。王育徳は生涯台湾語や台湾独立運動に没頭し1985年に東京で逝去した。
僕は芸術家である温又柔の作品の具体的な内容はわからないが、台湾人として、池袋という奇妙な場所に「so close ,so far」という感情を持つ。僕のホテルは西池袋にある。築地小劇場の跡地に1キロほどの距離に過ぎない、王家之墓にも近距離である。しかし、現在生きている環境と、僕個人の生まれ育った環境とこのアジア史において、重要なポジションを持つ場所はとても遠くて見えない場所とも言える。高山明というアーティストは、ノスタルジアをモデルノロジーに変化させた。パフレットとラジオを片手に、ラジオ越しに物語を聞きながら、知られていない都市の物語に入り込む。心を沈ませ、アジアの革命歴史の感情を堪能できるでしょう。
「東京ヘテトピア」というアートプロジェクトは1930年代の世界劇場:ヨーロッパを思い出させる。2012年に行われたカッセル・ドクメンタにてカナダ出身の芸術家Janet Cardiff&Georges Bures Millerは古い駅Kassel Alter Bahnhofにて作られた作品Alter BahnhofVedio Walkは高山明の「東京ヘテトピア」を彷彿とさせる。
 Cardiff作品の中に現れるノスタルジア(nostalgia)も都会考現学的な意識がある。彼女はスマートフォンに保存している映像を媒介として、歴史、小説、音楽、そして踊りパフォーマンスなどの異質的な手法を通じて、現地に設置しているドキュメント・インスタレーションの導線によって、鑑賞者をKassel Alter Bahnhof駅とそのホームの間に彷徨わせた。このような現実と仮想という二重性の中でヘテロオピア的な感覚が、どんどん形になっている。その中、30年代にあった強制収容所へユダヤ人を送るという個と集団の歴史集合の響きは、冷たい時空を超えて、この駅の7番ホームではっきり聞こえるように奥底から熱狂的な気持ちを呼び起こさせる。
 このCardiffの作品に対して、高山明も結構詳しいようだ。彼は会場でスマートフォン映像を鑑賞している時、一人の身体障害者がよろよろと歩きながら彼とすれ違っていくことを体験したそうだ。その瞬間、ノスタルジアの情緒は現実状況の介入によって切断され、二つの世界が共鳴を始め、電流が流れるように彼の全身をビリビリさせたと言った。しかし、こんなに強烈な感覚があっても、この作品は高山氏に対して、展覧企画としての出発点は全然違う方向だと言った。何故なら、高山作品の発想は昔劇場にある観客との連動性、または「theatre」という古い言葉の意味から始まっている。つまり彼が目指しているのは現代劇場のような単純の「演出」ではなく、観客が「演出」の一部分になることを望んでいる。その結果、高山が注視しているのは、劇場の焦点を観客に戻し、そして演出の後に観客たちの対話が活性化することこそ、彼の「観客論」の考察である。それゆえ、アーティストがノスタルジアと考現学を作品の中で交差させる意義は、単に遠くから見られるプロジェクトとして身体の舞台を作ることではなく、その現場でドラマチックな演劇的の効果を作りながら、自ら参加するという「政治性」を通じて、観客をもう一度社会と繋げることを意図とした。
 また、Kader Attiaという作家の「The repair from Occident to Extra-Occidental Cultures」というマイクロ博物館の作品がある。その作品は戦争、医学、そして殖民地歴史などの媒介によって、ノスタルジアを現代創造の知識、空間、そしてプロジェクト配置のレベルまでに転換できた。Geoffrey Farmerが35年から85年までの50年間の雑誌『ライフ』を編集してインスタンレーションした作品「Leaves of Grass」は、やはり伝統的な道を沿い、伝統的な博物館にあるアイロニー的なビジュアル展示の手法となっていた。一方で高山氏の視点から出発すれば、現代の「アジア」における経験によって、考現学が表現てきる「アジア性」、歴史と現在のクロスによって生み出した多様性と豊かなレイヤーは、恐らく現在ヨーロッパにおける直線的な歴史発展を凌駕するだろう。
 言うまでもなく、ノスタルジアと考現学を触れば、歴史的な傷と国際問題に直面しなければならない。そのゆえアジアにおける多言語と多民族によって生み出した歴史の地層は、何より我らが注目せざるを得ないであろう。
東京に滞在していた際に、六本木森美術館の10周年展を見学した。キュレーターの片岡真実が企画した「out fo doubt」。このテーマは謝徳慶の著書『out of time』の視点を真似して考えると、「懐疑無用」と見えるが実際に「懐疑から生まれる」とも言い換えれる。写真家の中平卓馬の作品もあり、中村宏の沖縄戦争に関する絵画や台湾やイランの戦争基地や、台湾とアジア各地の鳥居を訪ねたポスト戦争に対し、モデルオロジーを実践した下道基行の作品もあった。r:eadの日本チームのプレゼンテーションで下道基行の作品紹介を聞いた。彼は基地と鳥居の現状を写真として記録し、祖父をテーマとした「日曜日の描き」のような創作活動も行っていた。これらはアートの手を借りて現代遺跡のモデルオロジーを実践した時空と交差するアッサンブラ-ジュと言える。
 おもしろい事に、若手芸術家である下道基行の作品はこの時森美術館で展示されているのだけではなく台中の国立美術館で「アジア二年展」でも展示されていた。噂によると宜蘭員山のゼロ式飛行機基地は台湾芸術家の高俊宏に薦められてたそうです。ちなみに、一連のノスタルジアとモデルオロジーの討論を終えて、僕は高俊宏の作品のパウワーとルーツは前述の作品と比べて、劣ることなく生きた雰囲気は、十分に注目度を浴びることができると考えた。
 高俊宏は2010年に発表したタンム生映像シリーズの中に台湾車のメンテンナンス工場の廃墟の炭壁絵は、映画監督である蔡明亮の映画「郊遊」のロケ地となり、台湾の芸術業界では有名な話だった。彼の作品は目的性がなく、2013年誠品書店のギャラリーにて「私達は働き過ぎではないか」という個展で発表した、台湾10箇所の現代廃墟の炭壁絵を展示しとても高い評価を得た。高俊宏の「廃墟映像炭絵計画」は1930年の小節が存在している。それはかつて員山戦機基地のゼロ式飛行機の神風特攻隊を経験した台湾籍のパイロット張正光だ。そのほか、廃墟の歴史を前に戻すと、「海山炭坑廃墟」「台湾車両修理所廃墟」など壁絵の団体や自由主義のコラムや受難親族のインタビューなど、様々な活動に発展した。様々な活動を通じてノスタルジアは哀愁だけに留まらず、ゆっくりと台湾地景の構造への考察や再構築になるのではないか。それと同時に、国立美術館で展示した際に、高俊宏本人が炭坑労働者の服を着ることで「体で伝える」という行為を実践した。芸術家は現実と歴史の間にある傷を補い、身体レベルの会話が生まれる。おそらく、ノスタルジアの本質は物が埋めるのではなく、モデルオロジーが必要となる。
 「廃墟壁絵計画」は現在は引き続き作られている。帝国主義の歴史写真、殖民戦争の傷、現代工業の遺跡、ギャラリーの空間、美術館の空間、アジアの繋がり、様々な自己分析、大型の帝国主義と異常なアジア政治との交差における、奇妙なヘトロトピアとなり、芸術的な行動となっていく。1930年代の激動のアジア史の中で人々は「観客参加型」の方法を通じて取り戻した。ノスタルジアとモデルオロジーの政治学は資本主義や新自由主義の公共空間の私有化を皮肉的に批判する。その結果、芸術家がプランを立て、国民が参加するというのことに対してポテンシャルを感じる。私たちはどうすれば現代芸術主義のステレオタイプから飛び出し、アジア現代芸術の「ノスタルジアとモデルオロジー」を成立させることができるのかを考えた時、これはまだ長い道を歩くことになると考えている。人々が廃墟劇所に訪れ、自ら参加、体験し議論すること。無政府、脱植民、国境を越え、資本主義に抵抗する廃墟を再生する道となる。

脱芸術について

▲Kim Haeju:今回のr:eadでファンさんに久しぶりに会い、お互いが制作している環境と関心について、深く考えることが出来ました。それぞれ、現代美術と批評的なデザインが直面した限界を探り、そこで諦めるのではなく新しい方法をどのように模索できるか考えました。しかしこの限界というものは、芸術の場においてのみ発生する問題ではないようです。
前半のr:eadが終わって帰ってきた日、ソウルでは民営化に反対してストライキを行った鉄道労働組合の幹部を逮捕するために、警察が民主労総事務所を襲撃する事件があったし、12月28日にはソウルの中心で大規模なデモがありました。新政権になり、このような最大規模のデモが行われて、一度でもしっかりと士気が高まる事を期待していたのですが、組織的かつ戦略的な警察の動きに比べて市民デモ隊は結束した力を見せられなかったので残念でした。結局、散々に終わったデモの数日後には鉄道労働組合のストライキは中止され、民営化反対の声もいっそう減少した感じでした。
このような残念な経験が、継続的な運動と抗議を行うための組織力を弱め、徐々に市民の政治的な力への信頼を崩すのではないかと考えています。芸術を実践することで感じる限界と、現実問題を抗議することで感じる限界には、似たような感情が伴うようです。
ここで「脱芸術」は、芸術の中の限界を克服するだけでなく、芸術の外の限界を克服するという二重のミッションを持っているのではないかと思います。r:eadのあと、ソウルの風景はファンさんにどのように映ったのか、そして「脱芸術」のアイディアがその期間どのように展開されたのか、気になります。

▲Kim Hwang:この文章を始めるためにあえて言うならば、私にとってr:eadは新しい何かを見つける場所ではなく、今悩んでいること、頭の周りの空気中に漂うものを確実に言語化/文字化するために戦略的に利用しようという必ずしも純粋でない目的を持って挑んだ場所です。
私が批評的なデザインを使い、制作する上でもっとも悩んでいたこと、質問を受けたら答えられない部分(この質問が一番多く出てきたにも関わらず)がまさにデザインの進歩だ、と叫ぶが、最終的には芸術の方法論を借用する。ことでした。この質問への答えとして、私は通常1:ドナルド·ノーマンのデザインの機能性について言及してきました。(デザインは問題を解決して、芸術は問題を発見する行為だ。)そして2:所有のコミュニケーション:芸術作品は、大衆が所有することはできず、視覚的に見ることによって疎通が成立する。(イメージ)しかし、デザインは公共の所有が可能なので、所有権に起因する所有者自らによっての破壊などが可能である。(オブジェ)もちろん、ある程度説得できる論理ではあるが、自らとても不足を感じたりもしました。
そのうち、結局私が自ら選んだ行為が脱芸術の行為であることに気づいたのです。実は、私のPIZZA作業もそのような傾向がありますが、その時は徹底的に霊感によるものであって、自ら論理化することはできませんでした。その上に、r:eadに参加する以前、スンヒョさん(フェスティバル・ボン芸術監督)と対談したことをみると…

(e-mailから対談抜粋)——————————————

ファン:私はスンヒョさんにこんな話をしました。 「この展覧会を通じて芸術を解体させたい」実はこの展覧会を通じた自分の欲望はそれでしたね。私やスンヒョさんは芸術界に身をおいていますが、芸術よりも社会そのものに興味があります。私とスンヒョさんは、お互いにそのビジョンを共有していますが、この展覧会は一種の実験でした。芸術の社会化。芸術の大衆化とは違います。社会的な芸術ではなく、つまり「政治/社会に興味を持ってそのような制作をする作家的な性向が強いデザイナー」ではなく「芸術に興味を持ちながら、ある種の活動をする社会/政治思想家や扇動家」のことです。

スンヒョ:そうです。実際に私が多元芸術の話を芸術界で出すと、過去のアジェンダをなぜ今になって持ち出すのかと言う方も多いです。ですが自分が関心を持っているのは、ファンさんが正確に指摘したように、社会的な芸術ではなく芸術の外側、あるいはその境界にいる人々の社会的な活動です。そのうちの誰かは、より直接的かつ煽動的な方法で仕事をしていて、だれもが芸術の形式を借用しつつ、より美学的な観点からアプローチしているはずなのに、私は後者を新しい多元芸術と定義したいのです。
あえてなぜ定義する必要があるかと言えば、私は資金や政策の中での多元芸術は近いうちに消えてしまっても、それに関係なく多元的の作品はすでに生成され、今後も作られるものだと思うからです。定義をしないと議論自体を始めることができませんから。
批評的なデザインの展示を私がフェスティバル・ボムでしようとする理由のひとつは、多元芸術から、借用可能な一つの重要なメディアとしてのデザインを認識しようとする試みです。またデザイナーの方法論と形式が、ポストドラマ演劇やノンダンスがそうであったように、多元芸術に新しい衝撃を与えることができると思います。
言葉の選択を少し慎重にしたいですが、私もあえて言えば「芸術に興味を持って、そのような一種の活動をする社会/政治・思想家・扇動家」の中で、職業がデザイナーである人々を紹介することだとも言えてますね。

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▲Kim Hwang:この対話の前にも、私はうっすらと脱芸術について認知していたと言えます。実際に脱芸術を標榜しておらず、そのつもりも全くありませんが、私の作品の方向性はそうなのでは、と今は考えています。
この前、ナ・ヨヌさんと会いフェスティバルについて話したことがありました。かつてフェスティバルとは、芸術の進歩化を進めてきたが、さすがに今はどうなのか。溢れ出るフェスティバルが果たして言説の形成になっているのか。これからは新しい代替的なフェスティバルが出現しなければならない時なのではないのか。もちろん深く共感する点もあるが、帰ってきてじっくり考えてみると、このような芸術的な進歩のための進歩的思考は、残念ながら私が思うに、現在私たちの社会が直面している問題点に比べればなんというか、とてもささやかな問題に感じれます。
大統領の退陣を叫びながら焼身自殺する人を見ながら私の芸術的な行動がつまらなく見えてきたというか。(これは病気だといえば病気ですし、傲慢だといえば傲慢ですが。)結局私は、社会的な活動や行為に繋がる芸術をしなければならないと考えます。実際この部分は、自然に脱芸術とは違う他の軸となるようです。
もちろん、まだどのような方法でどのような話をするかはわからいけれど、r:eadのリサーチも、あるストラクチャーを持つ「脱芸術」的なリサーチになるべきだと思いますね。

■Kim Haeju:「脱芸術」の考えとファンさんが現在展覧会を企画しているということが、とても興味深く感じられました。キュレーターは作家と観客を媒介する役割を果たしながら、制度との妥協点を探していく側面があるんですよ。私もインディペンデントキュレーターだけども、ただ組織に属していないだけで、「美術」という一つの大きな制度から抜け出せているとは思いません。抵抗と独立性を主張するいくつかの企画も、制度の認識をせずに始めることができないと感じています。その点でファンさんの「脱芸術」とキュレーティングがどのように出会うのか興味を持って見ています。「この展覧会を通して芸術を解体したい」という言及は、キュレーションを通じた脱芸術の実践的なスタートに見えますね。
このような議論と同じく、最近読んだ本が同じような争点で語られていたので共有したいです。『キュレーティングとは何であるか』(ポール・オニール編、現実文化社、2013)というアンソロジーに掲載されたマーク・ハッチンソンとデイブ・ビッチの会話です。(http://www.markhutchinson.org/writing/writing%20inconsequential%20bayonets.html)
キュレーティングの独立性とコラボレーションの可能性についての会話の中で彼らは「反芸術」と「反キュレーション」の話をしています。デイブ・ビッチの説明の一部を引用すると次のとおりです。

「反芸術の破壊的な潜在性は芸術を犠牲させ、芸術以外のなにか―排除されたもの、日常的なことなどのような―を成し遂げようとしているのではない。芸術は反芸術の破壊的な潜在性により芸術に内在されているが、芸術から支持されてもらうことを拒否することに対抗する。まさにこのような意味から正確に反芸術は芸術の弁証的な転換、すなわち不在の不在である。反芸術は芸術に変化される価値がある何かがあることを意味する。」

「キュレーターが「別の何かを」を出来ないように防ぐこととは何だろうか?ここでは専門性、競争力、技術などのモデルとしての反芸術が好まれる。したがって「別の何かをする」ことは共謀に抵抗する様々な活動の立場を示す。あなたが言ったようにインディペンデントが、いつも何らかのインディペンデントを意味するならば、共謀はいつも何か ―マーケット、美術制度、歴史、芸術の社会的価値の概念、美術愛好家の人類学―と共謀することを意味する。したがって「別の何かをする」ことは、市場、美術制度、美術史などの特定の制約に抵抗することを意味する。我々は反芸術から学ぶことができるように共謀に対する抵抗は、個々の実践を社会から孤立させることから始まったとされるのではなく、芸術の正式的な談論が、抑圧したり排除した社会的文脈へと芸術を妨害して汚染させることにあるのだ。」

もちろんファンさんが言う「脱芸術」は「芸術に内在しているもののうち、芸術が支持を拒否すること」を表わす「反芸術」の意味よりかは、より積極的なものに感じられます。そして最終的には芸術の外側から、方法と実践を模索するものと理解できます。
今回の展覧会のような場合は、扱う対象がデザインであり、表出された方法が展覧会という点ではまだ、芸術の内部で進めているとみられ(多分これは脱芸術へと向かう段階の試みでもあるかもしれないが)上記で説明した反芸術的な実践に近いのではと考えます。この対話で、デイヴ・ビッチは反キュレーションを実践した事例として、アーティストがキュレーティングしたいくつかの展示を例に挙げています。美術館ディスプレイの専門的規定に従う展示というよりは、葛藤や不確実性に満ちているプロジェクトを企画していることです。キュレーターは作品と観客との間の媒介者の役割や、通訳としての役割ではなく、芸術の社会的関係性を暴露する協力者と例えることができるでしょう。そういった意味では、今ファンさんが企画している「批評的なデザイン」の展覧会が反芸術(あるいは脱芸術)を扱うだけでなく、反キュレーションあるいは脱キュレーションの実験場となりうるでしょうか?もしそうなら具体的にはどのように実行されるのでしょうか?

▲Kim Hwang:実際、私の脱芸術や脱キュレーティングは、これまで芸術が持つストラクチャーや制度に反対しようとすることが目的ではありません。ヘジュさんの言葉通り攻撃的な態度ではありません。その制度が間違っていたからといってひっくり返そうとすることも正解ではないと思います。過度な中立論かもしれなませんが、実際に私という人間そのものが、必ずこれは正しい・間違っていると断定をしないタイプの人なんです。やや無為自然な態度をとっていますね。

今、私が興味がわくこと・したいことは、自らが幸せになり、そして他人の生活の負の重さを少し和らげてくれること(楽しさを与えること)だと思います。他人の範囲が広くなればなるほどもっと良いんです。どのような方法があるかと考えてみたときに「社会システムがポジティブに変化するときに」人々は喜びを得るようです。絶対に変えることが出来ない不条理な社会がポジティブに変化するような希望があるときに、多くの人々が幸せを感じるのではないでしょうか。だから統一を考えることでもあり、この時代をより明確に眺めなければならない時代性を持つべきだと考えています。あわせて次の社会を想像し、悩み、提案します。

私はアーティストなのでこのような行為を芸術という形態に表現しようとすることですが、そうしながらも今まで見てきた従来の芸術の形態に表現しようとはしていません。すなわち、悩みを作業として表現しますが、実は作業が芸術の範囲の中に入ることも入れないことも可能なことをしようとしています。ヘジュさんが紹介してくださった文章、マーク・ハッチンソンの言葉を借りれば…(文書が英語だったので全部読むのに大変でしたが(笑))

「私はこれを加えたい:異なったことをするという意味はキュレーターとしてキュレーター以外の他の何かになることを意味する。(I want to add this: doing something else means being something other than a curator as a curator.)

「だからもしキュレーターが他のことをやるのであれば―同時に他のことになれば―私はこの「存在」が現存するシステムを違う方法で使うことに同意する。しかし私はそれ以上にこの「存在」が従来とは異なったシステムすらも異なった方法で使っていると提案したい。(Hence, when and if the curator does something else – and becomes something else – I agree that this ‘being’ occupies existing structures differently but I want to go further and suggest that this ‘being’ also occupies different structures differently.)”

ここで重要な点は「なぜ従来とは異なることをしたいのか」ですが。これは私が思うのに業(Karma)です。結局「変化」と「創造」に価値を置くためでしょう。基礎的な作品のインスピレーションとなる社会システムも肯定的な変化に繋がり、その方法論として借用する芸術も肯定的な変化につながった。こうなっては、他の分野でいくつかの方式を借用し始めます。結論的に言えばそのシステムが嫌なので「反芸術」をするより、自然に「脱芸術」を行うのだと思います。そうして「業」によって芸術の範疇に残るようになるのです。多分ヘジュさんは、私の態度はより積極的ではないのかと話してくれましたが、私はむしろ消極的で観照的な態度ではないかと思いました。

政治を見ても、実は、私は進歩も少し異なった方法が必要だと思います。保守に反対する進歩ではなく、保守を抱えて一緒に歩むことができる進歩が必要な時だと思います。そうでないと勝つことができないと思います。私の作品の「消費配給取引制(http://www.hwangkim.com/crts.html)」を見ると、私の悩みがよく出ていますが、結局、資本主義が成功するには、新自由主義でもなく、強制的な福祉の増加もなく、自発的な寄付の増加が行われるということだと思います。これは人間の基本的な欲求である所有欲に反するものであり、とんでもないことですよね。私の作品のイラストレーションを見ると、金持ちがホームレスにお金を与えようと列を成しています。こんな感じで保守を安定させるのです。我々が執権してもお前らのメシは安全だから心配するな。お前らを守ってあげながら進歩するよ…と。

ここでもう一側面を加えると、私は人生をそのように生きてきた人々から感動を受けるようです。作業よりはむしろ作家の人生を見たがるんです。そのような意味で単純に生きてきたのに、その人生が芸術である人々を探してみたかったようです。私もそのように生きて生きたいですから。私はその人々より業が芸術なので、もっと積極的に芸術で表現すると思いますが。たとえば私がアーティストではなかったら単に北朝鮮へピッザーDVDを送っただけで止まったと思いますが、私はそれを展示や公演で作り上げたことのように。

結論を出すと:

キム・ファンの作品=時代性/進歩した社会システム(ファンの悩み) +融合型芸術/システムが進歩した芸術(ファンの業) >自然に脱芸術(ファンの作品/人生) >芸術の形式でプレゼンテーション(ファンの作品)

キム・ファンの批評的デザインの展覧会キュレーティング=時代性/進歩した社会システム(ファンの悩み) +システムが進歩した芸術(ファンの業):例えば今、一緒に制作しているオンカ/ノーム光州518に対する視覚芸術も、公演も、観客参加型でも、デザインでもない何か >展覧会の形でプレゼンテーション(ファンのキュレーティング) :ところが、実際これもあえて展覧会といえば展覧会だが、これを公演とすべきか何とすべきかは…

r:eadは以前に話した通り、自然に脱芸術した人々をリサーチし、これを一つの方法論として確立して、他のアーティストに一度、適用してみればどうだろうかというアイディアがあります。まだ悩み中です。アーティストが私のリサーチを台本に、演技をするようにするのです。

消えると残る/物と物語

「過去はどのように編集され継承されるか。そこに関わるモノの存在と、形状と意味の変容。さらに閉じ込められた過去を開封する方法と体験」
そのようなことが、僕のこの10年のテーマだったと最近考えている。制作する手法は写真とインタビューなど。目の前に既にある関係性に興味を持っているので、なるべく自ら作るのではなく観察と収集と編集に徹する手法をとってきた。歴史という大きな物語と、その周辺で捨てられて行く小さな物語を同時に扱っていることも多い。ただ、今回のreadでは、これまでのドキュメンタリー的な手法に「自ら何かを加える」ことを想定して、リサーチを始めたいと考えている。

中国韓国台湾の作家とキュレーターたち、その他にも留学生や通訳などとの交流の1週間は、非常に有意義な時間だった。今回コンビを組んだキュレーターの服部浩之さんは、タイのバンコクに滞在していてこの一週間、直接会う事はなかったが、アシスタントとして協力いただいた熊倉晴子さんと三人で毎日往復書簡的にメールで会話を行ないながら、考えやアイデアを混ぜ合った。

僕自身、一つの作品制作に数年の時間がかかる事も多く、今回の1週間を終えた現時点では、制作の出発地点も定まっておらず、いろいろな刺激や要素を受け取ったに過ぎない。そのことも踏まえ、たくさんの“きっかけ“から、一つ例を挙げてみようと思う。

今回参加作家の孫遜の「芸術作品は未来のためにある」という言葉が心に残った。(この言葉は通訳さんが選んだ言葉なので本人の意図とは違うかもしれないが)
彼の言う”芸術作品”を(ある思考や行為を結晶化させた物体として)”モニュメント”という言葉に置き換え「モニュメントは未来のためにある」として思考を開始する。
モニュメントの多くが、誰かのエゴで過去を自分勝手に編集し残すために強固に作られたもの(その多くが残念なもの)であることを理解した上で、未来に開封され誤読可能なソフトなモニュメントのようなものの可能性を作品?として考えてみたい。
その事を話すと孫遜は、「あるモニュメントは、意味を変えても、例えば待ち合わせ場所として残ったりするんじゃないか?」と話す。それに対して「渋谷のハチ公像は、日本で一番有名な待ち合わせ場所かも。有名だから待ち合わせ場所になるんだね。ただ、携帯があるから待ち合わせ場所はあまり必要じゃない」と熊倉さんが反応する。
ハチ公は、かつて渋谷駅前で飼い主を毎日待ち続けた。飼い主の死後も駅前で待ち続け、そのことが美談として有名になって銅像になった。
ハチ公像は今でも「じゃ、ハチ公前で待ち合わせね」という機能を持ち続けている。ある個人的な待ち合わせ場所がモニュメント化し、公的な”待ち合わせ場所”として存在し続ける興味深い例かもしれない。さらに調べてみると、1934年建造されたハチ公の像は、第二次大戦中の供出(金属不足で兵器などにする為にあらゆるものが没収され形を変えた)により破壊されたが、戦後再建し今の姿にあることが分かる。オリジナルのハチ公は兵器か何かに形を変えてしまったこと、ただコピーされ復元されたモノが時代を超えても機能が継続していること。

12月の滞在1週間を終えた次の日、服部さんがタイから日本に帰国した際、一緒に靖国神社で“待ち合わせ”をした。少しこじつけかもしれないが、靖国も”待ち合わせ”の施設としての機能をかつて持っていたのではないか…、そこでそんな話しをした。未来に会う為、死者の待ち合わせ場所という装置という側面。

……と、まだ、点と点の状態が繋がってはいない現状の一部を書いてみた。
服部さんと熊倉さんとの往復書簡は、お互いの意見交換と思考の飛躍として有効で、思考のプロセスのアーカイブとしても継続的に続ける予定。2月〜3月滞在中には、東北で生まれ始めているモニュメントや他にも関東も含めリサーチを行ないたいと考えている。もし機会があれば、中国韓国台湾の参加者のリサーチについて行ったり、一緒に旅をしてみたいなぁと勝手に考えている。なぜなら、この企画で言うレジデンスというのは、ある設定された特定の場所ではなく、一緒にいたり話したりする時間なのではないかと、今は思っているから。

不在からはじまる

12月22日朝、バンコクから戻り羽田に降り立ち、そのまま靖国神社へと向った。そして鳥居の前で下道基行氏と落ち合う。僕がバンコクにいたため参加できなかった1週間のr:eadでの滞在プログラム第一弾を彼は終えたばかりだ。黄金色の葉が散る大銀杏を見ると、ここが日本で今が冬の入り口だということが実感できる。同じ「アジア」という枠組みで括られるタイは常夏で、とても共通の呼称をもつ地とは信じがたい。この数年アジアと括られる国を往来して活動するなかで、この「アジア」とは一体なんなのだろうかとずっと考えている。

現在参加させてもらっているr:eadは、東アジアと括られる国々のアーティストやキュレーターが「対話を重ねる場」そのものをアーティスト・イン・レジデンスの新しいかたちとして提示する挑戦的な試みだ。僕は普段アーティスト・イン・レジデンスを主要事業とするアートセンターでキュレーターとして活動しているため、この新しいレジデンスの枠組みを考える機会には非常に興味を惹かれた。僕の所属する機関は、制作のためのスタジオがあって、宿泊施設があり、発表のためのギャラリー空間があるという、まさにいわゆる創作活動に集中するための場だ。アーティストにとっては、作品を集中して制作し発表するという「モニュメンタル」な活動が大前提となる状況だ。それはもちろんとても意義があると思うが、そういうモニュメンタルで目的が明確に固められた場ではない、滞在制作ということ自体の意味を問う、あるいはその根底を再考するための、オルタナティブな環境が今回のr:eadであると考えている。

パートナーを組んでいる下道氏は、継続的に「モニュメント」や「モニュメンタルな出来事」とその周辺や裏側に立ち現れる風景を様々な方法で探求してきたアーティストだ。彼は、第一回滞在での対話ののちに「待ち合わせ場所」というキーワードに出逢ったようだ。つまり、いわゆる記念碑ではなく、未来のための不在のモニュメントを考えてみること。それは、僕が美術や建築のフィールドにおいて出来事や経験に輪郭線を与えていくような作業をしてきたこと、とどこかでうまくかみ合うのではと期待が高まる。

最後に、今回対象となっている「東アジア」について。本当に東アジアという枠組みは存在するのだろうか?もしかしたらそんな枠組みは幻なのかもしれない。僕はそれをとりあえず、「隣接する他者」または「隣人の集合」と解釈してみたい。国家というフレームにより切断されてしまう、あるいは時に同化されてしまう、すぐそばにいる人々。距離的にはもっと離れた東南アジアの国々でさえ、僕が暮らす日本と様々な方法で隣接していると実感するなかで、僕たちはより近い隣人としてどんな対話を重ねられるのか。「未来のための不在のモニュメント」は、その対話を深化させるひとつの起点となるかもしれない。

東アジアは空っぽである。

今日における「東アジア」とは、アメリカの視点からの東アジアか、安倍氏と習近平氏との間の東アジアか、普遍的価値から考えた東アジアか、それとも中国人、日本人あるいは韓国人にとっての東アジアのことだろうか。
いずれの立場に立って考える場合でも、いわゆる「東アジア」に含まれる地域と文化を自分で歩いたことも経験したこともない人は、真実とはほど遠い無知さと偏見で、自分でもどこから生まれたのかわからないような論点を人に披露しようとする。そして、その論点のための論拠を探し、時には自分で論拠を作り上げたりさえもするようになる。
そうなると、人は物事の表面しか見えなくなり、自分の頭で考える力や知恵を失うことになる。本当の世界を見ども見えず、まるでサーカスの犬のようにどんな訓練でも受け入れる。
今日の世界はグローバル化しているということを忘れないでほしい!グローバル化が文化にもたらした大きなリスクの一つは、私たちが「奴隷」のようになったのにも関わらず、それをまだ認識していない上、さらに独りよがりになっていることだ。「正確性」の価値はすこしずつ小さくなっているのに、大多数の人はそれについて疑問も持たない。それは目覚めもしない、茹でカエルのようだ。
東アジアと関係のないことを記述しているかもしれない。しかし、まずこの話を議論しないと、真の問題に辿り着けない。つまり、もし私たちの議論が前述の話のような状況に当てはまってしまうなら、その議論は「学術」に見せかけた偽りの議論なのだ。
私は一人の「真心」を持つアーティストとして、このような「学術議論」は酒の肴にすぎないと思う。もし私たちの議論を形だけでないものにしたいのであれば、最初から計算された枠に全部の問題を入れ込むべきではない。このことは大多数の人にとっては難しいことなのかもしれない。なぜなら多くの人が求めているのは「安心感」で、真理を追求することは結局危険なことだからだ。私たちが本当に議論を通じてやるべきことは「動物園での狩り」や「公園での探検」ではない。

さていよいよ、「東アジア」のことについて話そう。まず、古典主義と政治はもう時代遅れだ。今の世界はとっくの昔にそのゲームをやめた。昔は領土を開拓し、帝国を築いたが、今はルールが全く変わっている。だから、狭量の民族主義と愛国主義はバカげているし、自分を麻痺させる以外に何の役にも立たない。勿論、政治家たちにとってはまだ使えるが、それは「バカ」な国民の投票、あるいは支持を得る力があるからだ。それに、東アジアはアメリカのように自然に民族主義をシャットアウトしていないし、ヨーロッパのように痛ましい経験をして教訓を得てもいない。だから、民族主義はまだここで受け入れられる。私たちの「カワイイ東アジア」を議論するならば、今日の民族主義を整理して明確にしなければならない。今日の民族主義は私から見れば、浅はかな考えの産物で、昨日までの歴史ではなく、明日も必ず違う。
この「民族主義」は日中韓を一掃し、さらに台湾にまで影響を与え、近代の歴史発展と政治変局に深く関係している。そのため人々は知らず知らずのうちに歴史と政治の操り人形になっている。しかし彼らは誰も自覚がなく、自分が深い見識と思想を持っているのだと勘違いしている。
実は私たちはある強大な、これに対抗する人がいないような体系に盲目的に従属している。この体系を西洋的か東洋的か、もしくは古代ギリシャ文明的かアメリカ文明的かというように断定はできないが、それは次第に吸収し、変化している。ただ私たちが今見ているのは西洋の(明確に言えばアメリカの)文化をコアにした文明体系だ。一つ例としてあげられるのは1ドル札の裏面にある「new order」だが、これはもう遥か昔の話だ。
アメリカ人が世界に対する構想を考えたのは「ヤルタ協定」よりもずっと早かった。「ヤルタ協定」の政治取引のために、東アジアで「混乱」が起きるよう昔から段取りをつけていた。そして新しい「国」さえも作り上げた。そのおかげで、私たち東アジアのいくつかの国は、よくお互いを見下し合ったり、憎み合ったりする。(まさにサーカスで飼っているサルと同じではないか!だから「民族主義」と「愛国主義」は極めてバカバカしいことなのだ。)東アジアの「混乱」は折よく「世界の秩序」のかけがえのない部分である。中国の共産主義と革命輸出と、その後の冷戦秩序と文明分断は、尽きることのない弊害をもたらした。
中国は東アジア文明の源、東アジア文明の中心だった。日本は清の時代から中国を追い抜き、東アジアのリーダーに取って代わった。これは、実際のところ、西洋文明が東洋文明を勝ち抜いたということである。そしてその時私たちは、やむなく西洋文明が世界の中心にあることを認めた。
中国と日本は基本的にお互いに学び合っている。昔は、日本は中国から学んだことが多かったが、近代になって中国は日本から学ぶことが多くなった。この二つの国は普段は仲がよく、時には義理堅い。
しかし、一定のバランスが取れると、必ず喧嘩することになる。唐の時代には一度、元の時代には二度(二度の間は短かったので、一度と数えてもいい。もちろんこれはモンゴル人によって建てられた当時の元の時代が中国として数えられるのであればの話だが)、明の時代には一度、清の時代には一度(第二次世界大戦はある意味でこの喧嘩の延長だと考えられる)。このように定期的に起こる喧嘩は、夫婦喧嘩に似ている。
(鄧小平時代の日本と中国はまだラブラブな恋愛期で、日本は当時ほぼ全ての財産を使い果たしたと言ってよいほど力を尽くして中国を援助した。中国も日本に対して驚くほどの市場開放をしていたが、)今は別れ話で騒いでいる。意地を張り合っているが、実は心の中でまだお互いのことを思っている。これについては毎日の新聞を読めば分かるはず。本当は日中の首脳は皆バカではない、かわいそうなだけだ。「民主」が災いを招く。民主によって全てのことを決めるべきではない。多数の人にとって、ある一つの事件に対する判断は簡単に概念化される。それはウォール街の金融の話をアーティストと議論することが想像できないのと同じだ。
韓国は辛い思いをしてきた。日本と中国と戦争を始めるたびに、いつも先に被害を被ってしまうのが朝鮮半島だ。冷戦の時も、朝鮮半島を分けて戦争最前線として利用した。今になってもこの状況はまだ変わっていない。だから韓国の民族主義はとても強く、理解することが難しい。そしてこの苦難の多い国家が今のように成熟していることは敬服に値すると思う。韓国人にとって、中国と日本は二人の「クソヤロウ」だと思っているかもしれない。さらに世界のいくつかの大きい勢力を持っている国もみんな「クソヤロウ」だと思っているのかもしれない。人々はいつも韓国人の家で喧嘩をし、朝鮮半島はそれに対して痛ましい代価を支払わなければならない。本当は私もそれについて怒りを感じている。そのせいで、韓国は文字も変え、独自の世界を作った。ただし、客観的に見るとこの部分は韓国の文化の中でも曖昧な部分である。政治と文化は関係がないからだ。短い歴史観で見ると確かに関係がありそうだが、長い目で見ると本当は関係がない。これはどちらかというと歴史に対する情緒的な反応で、百年後のことは誰も分からないのではないだろうか。

台湾人は中国人だが、日本人に感謝している。清政府が台湾で健全な通貨システムを打ち立てないでいるうちに、日本人が台湾人に近代文明の発展をもたらした。清政府が台湾を日本に渡したこと(当時「馬関条約(下関条約)」では、日本に山東半島の一部占領を認め、台湾を割与するとした)と台湾民主共和国の成立した後に国民党が台湾に入ったことは、台湾の民衆に「中国文化が最高だという考えを忘れよう」という感情を抱かせた。彼らの反応を見てもそれは明らかだ。
これらの問題は全て歴史と政治の分野に属し、歴史と政治は双子の兄弟のように分けて取り扱うことができない。政治は目の前の歴史のようなものだ。しかし、歴史は以前の政治に属する。彼らは二つの巨大な座標軸のようなもので、私たちすべてのものを定義する。私たちの世界中すべてのものが、その座標軸に従属している。たとえば父母兄弟、国家成立記念日、辞書など一つだけではない。この座標系統のなかで私たちは、「私が誰か?」ということをはっきり理解できる。これも私たちのプロジェクトの究極の目的だと思われる。
いかなる戦争変革や歴史変遷があるにせよ、歴史の長い流れの中にわれわれはある不思議な一貫性を見る。たとえばヨーロッパのヒトラーとナポレオンの二人は、ヨーロッパの大陸を主導した後に同じことを二つした。一つはイギリスを進撃し、二つ目はロシアに負けることだ。このことが近代の欧州文明の構成に影響しないと誰が言えただろう。(イギリスはユーロ圏に参加していない。) 彼らはキリスト教の文明体系に属する。
似通った歴史的関係を拡大していくと、私たちの過去はすべてキリスト文明、イスラム文明、(実はキリスト文明から分岐してできた)ギリシア文明、および東アジアの儒学文明、ユダヤ文明の間を取り囲むようにしてある。これらの文明の発展は「文明」と「戦国」の関係のようだ。時に連合し、時に対抗し、よろめきながら今日に達する。それは今でも相変わらず世界の問題の鍵となっている。ある事情の発生と発展は、つまり文明の衝突だ。もっとも深い核心にある原因を究明することが難しいのだ。
だから、文明は歴史と政治に次ぐ三つ目の座標軸になる。それぞれの文明背景は、世界に対して異なる認知と判断をもたらす。この三つの座標軸はお互いに主要なものと副次的なものを担当する。多くの場合、政治と歴史は実用的だ。例えば、日中の釣魚島(尖閣諸島)、日韓の竹島(独島)の争い、そして日本の北方四島の紛争、すべてこの二つの座標軸のあいだに属する。しかし文明は現実の実用性を備えていない場合が多い。長い目で見るとそれは一番重要に違いない。だから政治、歴史と文明、三つのものさしで世界の「存在」という座標系統を定義し、同時にお互いに牽制し合う。だからこそ私たちの世界は崩壊しない。これは、私たちが芸術と芸術家を必要とする要因かもしれない。もちろん音楽や哲学や詩も同じだ。
以上のことがふまえることで、私たちは「東アジアとは一体何か」という問いに近づくことができる。文明には新しいものを作り出す力と、無知を減らす力がある。我々の文明は、後者の傾向が強い。革新的な創造は、さまざまな問題を解決できるが、同時に多くの新しい問題をもたらす。一つの体系バランスを維持するために革新を加速させるだけで、一定程度まで加速すると新たに本質的な問題が発生する。そしてそこから新しい可能性が生まれるのは無知がなくなったときだ。これはまさに我々東方文明の特別な魅力の一つだ。
コップの価値は、材質や模様ではなく、空いていることにある。水或いはワインがたっぷり注がれた後、コップは価値を失う。ただ、コップの内容が絶えず更新されることで、コップは永遠の価値を持つことができる。しかし「更新」と「革新」は異なる。すべて成長と発展だが、異なる部分がある。
「東アジア」の問題について、我々が文明の観点から検討するならば、積極的に事件を促進する意義はある。政治と偏狭な歴史は、有限で不完全に違いない。文明の観点で重要なのは、我々の哲学文化観と世界観が「空っぽ」と「無限である可能性」に置かれていることにある。

日本と中国の自由の女神 —スンシュンとの対話から

リードでのエクスカージョンで、お台場まで出かけた時の事。スンシュンがなかなかやってこないので、戻って探してみるとお台場にある自由の女神を見ていたのだった。彼はそこに自由の女神があることにひどく驚いていて、どういう理由でそこにあるのかを私に尋ねた。
確か数年前の日本—フランス年のときにフランスから送られてきた、ということは覚えていたので、うろ覚えで答えたものの、後で確認することにした。

彼がニューヨーク滞在から直接日本に来たのは知っていたので、なおさら奇異に思えたのかもしれない。自由の女神は、民主主義の象徴だ。アメリカの独立記念日の日と、フランス革命の日が刻まれている。自由と独立を勝ち取り、すべての抑圧から自由になる、という意味を込めて足もとには引きちぎられた足枷と鎖が女神によって踏みつけられている。また、フランスのフリーメイソンからアメリカのフリーメイソンに1886年に送られたものでもあるらしい。 *1

しかし自由の女神はなんといっても現在アメリカの象徴だろう。スンシュンとしては、敗戦後にマッカーシー、GHQにより統治され民主主義をそのまま受け入れた日本という国には自由の女神はそぐわない、と思っているようだ。
確かにそういう一面はあるが、アメリカの象徴でもあり、ハリウッド映画や本や写真や絵画、様々な媒体に登場する自由の女神は、戦後アメリカ文化に染められた日本にこそふさわしいような気が私はした。また、置いてある場所がもとの埋め立て地、ゴミによってつくられたお台場にあるというのも大変日本的な気がする。
お台場の自由の女神は98年から99年のフランス年に、友好の目的で2年間だけフランスから貸し出されたもの。その後2000年にレプリカが作られ同じ場所におかれており、デートスポット、観光スポットの撮影名所となっている。ニューヨークのものは巨大だが、こちらのフランスにある自由の女神の方は11m、正確にパリにあるものを型取りし、ブロンズで鋳造されたものである。 *2

しかし形は違うものの、実は香港にも自由の女神はある。中国語では民主女神、という名前だ。

もともとは中国の、北京の中央美術学院の生徒らによってわずか4日間で制作されたものである。大きさは10m、ほぼ姿勢やたいまつを持って立っている姿も自由の女神に似ている。
民主女神は、天安門に集う学生達の、ハンガーストライキと座り込みの反政府の象徴として作られた。まさに民主主義への渇望の象徴なのであった。しかし天安門広場にもちこまれた1989年の5月30日、完成にわく反体制の学生らと対照的に、中国当局は公的な場所にこのような像を持ち込む事は重大な違法行為であると声明を発表し、6月4日の午後5時、政府が無抵抗に市民に向けた銃撃を行ったその日に、民主女神もその場から取り除かれたのである。

その後1996年、香港のビクトリアパークにこの女神像のレプリカがたてられた。が、2010年政府の意向により撤去が決まり、市民の強い抵抗や様々な議論の末、現在は中文大学にひっそりとおかれている。当時タイムズスクエアにこの像を展示した13名は逮捕され、香港においてさえも強い北京の力に屈した形となったが。その後無罪請求を勝ち取った。
また、天安門後に世界中に散った反対派の中国人や賛同者により、この像は現在天安門事件とそこで命を落とした人々を記念し、また民主主義の象徴として世界各地にレプリカが作られているという。アメリカではサンフランシスコに1999年、バージニアの自由公園、またワシントンDCには2007年に建立された。中国人亡命者を数多く受け入れたカナダでは、学生運動の象徴としてバンクーバーのブリティッシュコロンビア大学、カルガリー大学、トロントのヨーク大学に設置されている。 *3

アメリカ文化の中心、ニューヨークのシンボルとしての自由の女神、そしてフランスとの友好記念として日本にある自由の女神、民主主義と抵抗、天安門事件の血なまぐさい事件のメモリアルとして世界各地にある民主の女神。東と西、西洋と東洋でそれぞれ異なる意味合いをもつこの像は、民主化や自由の意味、グローバリゼーションや搾取の縮図、フリーメイソン、アメリカ文化、天安門事件などのディスコースを抱え現在もいくつかの場所で静かに我々を見つめている。

  1. 自由の女神像 (ニューヨーク) – Wikipedia
  2. お台場に自由の女神があるのはなぜですか? – Yahoo!知恵袋
  3. 民主女神 – 维基百科,自由的百科全书