入流亡所―三日月、団塊、無名の島

「対話」(dialogue/r:ead)、それは私に必ず「言語」を思い起こさせる。「言語」、それはわたしからしてみれば「叙述者」「発言者」或いは「ナレーション」に他ならない。もしも、中国、日本、韓国、台湾のグループごとに一人称の主語が語ること、また三人称の物に及ばない現場観察を集めたというならば、r:eadプロジェクトの「対話」の翻訳チームは、諸々の言葉と意識の「介系詞(介在する言葉)」に躊躇することだろう。しかし、語られた言葉がどのようなものであったにせよ、全ての「対話」はどれもが個人の解釈の表現なのだ。

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今回のアーティスト・イン・レジデンスの活動は、今年の初め、香港のParaSite芸術スペースでの『大三日月:60年代の芸術と激藤―日本、韓国、台湾』を私に想起させた。この展覧では、多くの記録映像の原版、マイクロフィルム、東アジアのアヴァンギャルドな芸術の為に局部を注視することを利用したようなものが集められた。参加した芸術家は、オノ・ヨーコ、Hi Red Center、『劇場』の雑誌、張照堂、零次元/加藤善博(ZeroDimension/ KatoYoshihiro)などの作品を包括し、これらの分野の異なった共史的身体資料は、台湾・日本・韓国の三つの地域をアメリカによって作られた「関係」(三つの地域を三日月に見立てた地政学的関係)を芸術によって応対させる事を企図していた。この延長線上、『大三日月』の地図の絵が、今回のアーティスト・イン・レジデンスに参加した中国の芸術家である鄭波が投げかける第一の質問である中国の位置、および蘇育賢の地図上の位置における第二の質問である即ち東南アジアの位置が連なる。もしも、我々が、大雑把に東アジアを三日月のアーチ型にあてはめるとするならば、中国はおそらく三日月の側面にある巨大な塊となり、この両者の外に東南アジアが点在し、四重に囲まれた無数の星屑によって作られた島々となるかもしれない。ではこの地域の中間に位置する台湾は、どのような語りでもって対話するのだろうか?或いは、もしも我々がこの中間点を一種の「介系詞」と見做すならば、観察記録としての長期にわたった東アジアの芸術家に注目した高俊宏その人や、また如何に「二重の介系詞」(記録が欲する記録)で以って存在すると言うのだろうか?もしも、異なった地域の共史の「跨(越境)」が確かに存在すると言うならば、我々はまた、どのような節点で跨ぎ、声を出して対話するのだろうか?

韓国の芸術家
Mixriceは、作品の背景について述べる時、ユニークに形容された言葉を用いて、創作時に自身の身体に起こった経験を語る。この経験は「内臓の皮膚」、「内部の外部」、「写真を埋め、頭蓋骨を掘り起こす」といった抽象的存在と同一である。この「表面」に一致する「矛盾」した言葉は、瞬く間に私の視覚を遮る。私はこれが訳語の明確なデッサンなのかわからない。それとも訳者が転化させた理解の説明なのだろうか。いずれの翻訳であっても、前者は視覚を、後者は触覚に訴えかけ共鳴する。こうした特異な翻訳の語感は、レジデンスにおける対話において私を絶えず離散させ、様々な精神世界の中を漂わせる。これは亡命ではあるまいか。我々が自己の存在の所在・地理的位置を共に語ることが叶わないならば、我々の言葉は存在する場所から分離された精神世界から流れ出た言葉により通じ合う。精神世界の言葉は、映像であり、音であり、微かな動作の表情である。Mixriceが言う「内臓の皮膚」、「内部の外部」、「総体的フレームの平面化に抵抗する個性」とは、「標準語/国際化/グローバル化」に組み込まれない「個人陳述」の言葉でないかと私は一人思っている。つまり亡命した言葉の所在である。

高俊宏と香港で占領時期の一連の出来事について注目すると同時に、私は流浪の言葉の激しい変動の状況についても注視している。台湾人として、私たちの介入はある種「今日の香港、明日の台湾」の顧慮かもしれない。創作者として、私たちの存在は芸術家・高俊宏が自嘲する「偽社会運動人類学の注目者」としての「当事者」なのかもしれない。我々は何物でもなく、私たちの身体は此処にある。意識は彼方にあり、内には戦闘がある。この異なる地域に共通する歴史をいかに映像で語ればよいのか。国家・母語・国籍・精神世界。私はこれらを記録することを試みる。

「内部の外部」、「写真を埋め、頭蓋骨を掘り起こす」といった出来事の性質を、「標準語/国際化/グローバル化」されない、あるいは巨大なカタマリに包摂されない個性の言葉の叙述を如何にモンタージュされればよいのか。r:eadレジデンスが私に与えたものは、三日月・カタマリ・離島群の地理的配置における対話からの離脱である。ひいてはこの地理環境において絶えず自身を普遍化させ、浮遊する精神が移り変わる状態にする。台湾の高雄小港空港に到着したその足で三余書店に向かう道中、私のカバンは香港の序言書室で購入した許煜訳『無政府主義人類学の欠片』、Barbara Demick著『Nothing to Envy: Ordinary Lives in North Korea』の2冊の本、Mapopo Community Farmの地図、高俊宏、左派の陳俊輝が序言書室において偶然出くわした時に撮影された映像が詰め込まれていた。言語の変換、地理的移動、人物の衝突、原文と訳文の不対応関係、翻訳書に述べられる「象徴的資本」(symbolic capital)…、こうした境界を越えてもたらされる「思いもよらない物」(the unthinkable)は、文学のイメージをショートストーリーとして構成するに足るかもしれない。私は自身の普遍化させ・自身の言葉と地理的位置を忘却した内在的亡命状態によって、さらに残された語彙の選択・文法の変換・語意の理解によって、翻訳書をイメージのように、ある種「入流亡所」の境地のイメージへと推し進める。

『入流亡所』この言葉は楞厳経から借用したもので、それが意味する所は音から入り、さらに音の流れの本性を意識し、忘却の主体と繋がる。忘却は音それ自身だけでなく、音の環境を生むことを含み、ある種の主体客体が全て消失して散ってしまう状態である。イメージの中の音は環境音から取るが、殆どは静音で処理され、それによって現場で観察する者自身の内在する声の生産を指向する。『入流亡所』のイメージは台湾・香港・沖縄・済州島で以って作り上げ、交錯するイメージと叙事するテクストの映し出す一つの無名の島、その島の影で散らばり砕けた言葉が叙事するすれ違う人、現在の他者、亡者との対話、主語の回応、それもまた一つの諸々の言葉の叙事における個人の陳述である。その中、香港が陳黎の詩『独裁』で、済州島が抗争する歌手の文鎮五の詩で以って、日本が高俊宏の『小説』の一部でもってテクストとし、刺し連ね結合させる。あらゆるシーンは、全て芸術家の高俊宏が長い間、関心を持った命題点で、そしてまた、私は長期にその命題点の現場を写し続けてきた。この点から見ると、台湾の視野で以ってイメージの叙事を作り上げることかもしれないし、更に二種類(芸術家、観察芸術家)の語りを透して無名の島の内在状態を映射する。

隣の自分

一般的には、国の対外認識は個人から、また一部の対外認識の累積から出来上がる物なので、誤解の発生もかなりある。特に東アジアの歴史
における実体の間のお互いの認識が外れ、相手に対する優位感を持ち
または「便利な誤解」でお互いの関係を維持することも少なくない。
「便利な誤解」の歴史:韓中の互いの認識の軌跡 白永瑞

今回r:ead #3の「亞洲城市‧游動民Asian City, Nomad People」のプロジェクトに参加した以来、僕は「会話」について、ずっと考えていた。東アジアの創作者の間に微妙な関係が存在している。お互いに違う生活を送りそれぞれ違う経験を持つ中に、地理と政治、歴史と文化の発展から見ると、東アジアの人々の間の関係は、アジア人とヨーロッパ人、アジア人とインド人、またアジア人と東南アジア人との関係は、かなり違うと思う。なので、東アジアに中の会話ができる理由は、各種似た条件が揃うことは先決条件である。ただ、自分の標準で相手のことを理解しようとすることも注意しなければならない。まるで韓国学者、白永瑞氏の主張如く、「便利な誤解」になってしまう。

r:ead #3プロジェクト開始前に、すべての参加者はきっと、頭の中で自分なりの東アジアに対する地図を絵がられていた。その自分の地図に、自分が相手に位置を、そして自分にも位置をセッティングしたでしょう。それは、相手と会話するための位置付けである。でも会話、プレゼン、見学などが進めるとともに、その事前に自分なりのセッティング(「便利な誤解」であること)が明らかにゆるくなり、だんだん未解決のなぞ、意見、記号、差異がなどが発生し相手に伝えた。そこが会話の中で一番面白い部分であり、また、その差異を乗り越えてどうやって前進することも、一番のネックである。

私はここで考えているのは、「真の理解を促進するやり方」などの、仮説の問題ではない。すべての理解には、「相違」、「差異」がすでに入っているかもしれない。自分は明確な主体意識を持つ中で出てきた理解というのが、恐らく自分を回って反映した意見だけである。それは当然、「便利な誤解」の基本様態であるが、「理解」(誤解かもしれないが)という一番難しいことは、東アジアの会話では重要の大前提である。

たとえば台湾の歴史脈略を沖縄、韓国の歴史に対照すると場合、台湾歴史の拡張、拡張の補充も提出しなければならない。ただ一方、対照される他国の歴史の深さと複雑さがそれで削減されてしまい、お互いの一部だけの解釈で誤解もなりやすくなる。欠点が明らかに存在する「理解」のなかで、会話をどうやって進めればいいのか?

だからこそ、「創造」の概念はさらに大事だと思う。いかに創造するか?会話そのものにさらに「創造性?」が存在することは、可能である。自分の立場を持って他人と交流する以外に、自分も必ず「自己の主観をはずす」部分を示さなければならない。その「自分で主観をはずした」部分は、お互いの理解可能に対してとても重要である。今回のプロジェクトに参加した経験では、日本人作家、温又柔氏の国籍、言葉上の切替状態は、「自己の主観をはずした」状態で、ここの「自分」は、明らかに「主体」の概念とは関係があると思う。その自分から伝統国族主義、血統主義、地理主義をはずしてできた「主体」の概念は、東アジアのアーティスト達のコミュニケーションの近道かもしれない。

ただし、「はずす」ことは、「犠牲」とは違う。たとえば、強烈な衝撃がもたらされる沖縄旅行の後は、自分の中から「知らない自分」が出てくる。特にこの旅行先は、東アジアの「近所さん」なので、異国とは違う雰囲気がでる。

近所は、遠い先の概念とは違う。台湾の詩人、羅智成氏が言ったように、遠い先は、見知らぬ先;近所は、知っているようが知らぬ場所、また、その人々。たとえば、近所に住んでいる隣人とは同じ雨水タンクを使い毎日会うのにお互いのことはよく知らない。なので今回r:ead #3プロジェクトの最大の特色は、近所、隣人の概念を基本にしてからお互いの相異点を探りあい、またその中から自分を探すことである。たとえば、r:ead #3のアーティスト達は、外国人労働者、ドキュメンタリーの撮影方法、国、民族、国語などのテーマにともに関心し、お互いはこれらを関心する同時に、それぞれ関連のある隠れ関係も見られる。たとえば大川景子氏のインドネシア人労働者の撮影、Mix Rice氏のインドネシア人労働者村のプロジェクト、台湾の蘇育賢氏のインドネシア舟歌などから東アジアの労働体系のグローバル化の中の共通点が見られる。そのような共同性の中からさらにいかに創造し、無階級化の会話を作り上げることは、きわめて大事だと思う。

最後に、白永瑞氏の「感知的な東アジアとして」の主張を創造性のある会話の参考目標として提出したい。東アジアの間のアーティスト達は、自分自身の創作、および各自の社会に対面していながら、違う面に向かう中から伝統的な一面もみられる。それも実は、現代主義式の個人–世界との関係と想像であろう。このような感知は、伝統的に、デカルト式の一点透視式法からできたものが、「感知的な東アジアとして」の観点から見れば、東アジアの人、物事自身は、感知のそのもの、対象になれる。方法は、デカルト式の一点透視式法ではなく、お互いの「反射」の間にもう一人の自分が見つけられる。なので、「感知的な東アジアとして」の大命題として、東アジアの類似な人、物事、歴史、時間、経済状況、戦争などの共通のテーマで創作の材料にいれ、共同に、合作の形で創作と会話を行うことは、r:ead #3プロジェクトに対する感想と今後の提案である。

「皺を掘り起こして記憶を埋める」に対する出会い

r:ead3の参加提案をもらって間もなく、私たちは日本へリサーチに行く機会が生まれた。
実は、日本は最終目的ではなかった。私たちのリサーチの最終場所は多分、ジャカルタ、バンドン、もしくはその周りの島だったかもしれない。もう一度考えたととき、何の為にこのリサーチを始めたのか正確に思い出せない。「気になったから」と話すことが、より正直なのかもしれない。そうだ、私は気になっていた。60年前に近代化になる直前、しかも戦争の状況で、彼らがどこで何と出会ったのか、とても私は気になった。

この大きな流れのリサーチは、過去、アジアの近代化の中でディアスポラを経験した個人らの状況を通じて、歴史が個人のアイデンティティをどのように屈折させたのか、その屈折はどこに行かねばならなかったのか、ということについてである。私たちは出会った。済州島から大阪に移住した在日朝鮮人に関する状況を、太平洋戦争が原因としてインドネシアに残る事になった朝鮮人軍務人たちの記録を、そして彼らについてを記録し、再現した学者である村井吉敬と内海愛子を、漫画家である水木しげるの日記を、在日朝鮮人小説家である梁石日の過去と小説たちを。そして、それらの間にある裂け目を。
しかしそれらは分節されているように見えるが、繋がっているものだ。誰かはそれらをアジアの近代性の穴と呼ぶが、私はアジアの近代性が折り畳まれた部分を表現した。
私はこの、紙の折り畳まれた部分を開き、ならした後、その折り目を手で触りながら慎重に見ようとしている。

最終の目的地がインドネシアにもかかわらず、本を読んだり資料を調べるうちに、どんどん日本に行かねばという思いが強くなった。近代のアジアの大部分の国家がそうであるように、自分たちの記憶と歴史を、自らが記録できない時間を過ごした。韓国もやはり近代に関する多くの資料が、日本やその他の国の人々によって研究された。私たちは他者の手と口を通して記録されたアジアの近代性をつくった文脈について悩んでみようと思う。この他者の手と口は政治的、倫理的側面で問題になる場合が多いが、真摯な研究においての他者の手と口は、時には重要な関係性を紡ぎだし、拡張する場合もある。学者である村井吉敬と内海愛子の記録と水木しげるの漫画は、私たちの記憶の中にぽっかりと空いてしまっている場所を、手探りだが、かすかに掴むきっかけとなった。そしてそのような円環が私たちを日本に導いたのだった。

リサーチをしながら、個人がどのように現状に耐えながら再現行為をしたのかも考えてみた。これは民族、帝国や植民などの倫理的側面に囚われてしまい、見えなくなっている個人の経験、忘却された存在、地続きなものを断ち切られた風景たちだ。この風景のなかで、私たちは個人が何かを地面に埋め、掘り返す行為を反復することを知った。済州島から大阪に移り住んだ移住労働者たちは、梁石日の著書である『血と骨』、『夜を賭けて』の主人公で再現された。彼らは暗闇の中で、地面から鉄屑を掘り返し生活を維持させる。彼らは夜な夜な地面を掘っていた。大阪城の周囲で爆破された地面を、暗闇の中で掘り返した。
水木しげるが描いた『ラバウル戦記』の描写によれば、太平洋戦争時、腹をすかせた軍人たちは青いバナナをすぐに取ってしまい、地面に埋めて掘り返して食べていたという。その当時、似たような環境で勤務した朝鮮人軍務人たちもはやり、何かを地面に埋めて生活したのではないか?近代日本映画に没頭しながらインドネシア初期映画を演出したホ・ヨン(許泳)は、名前が三つある。허영(許泳)、フ・ユン(Dr.Huyung)、日夏英太郎(Ritaro Hinatsu)。
彼は日帝時代に親日的活動を展開したと知られている。紆余曲折の末、彼は朝鮮人軍務人を助け、オランダからインドネシアの独立を支援し、インドネシアの独立過程を描いた映画『フリエダ(Frieda)』を製作した。その後、彼はスカルノから鞄二つ分の報償をもらった。その鞄の中には金銀財宝が敷き詰められていたと伝えられている。その鞄は今もジャカルタ市内の中心部に埋められているという。また、時代を戻ると、済州島から大阪に移り住んだ在日朝鮮人たちは「済州島4.3事件」から逃れるために日本に渡ってきた者も一部いる。その「済州島4.3事件」以降、済州島の畑ではぎっしりと埋まっていた人骨が掘り返されたという。
私たちは、軍務人たちが地面を掘り返して食べたバナナ、『夜を賭けて』で主人公が地面を掘って得た鉄屑、ジャカルタ市内に埋められているスカルノから授かったホ・ヨンの金銀財宝は、地続きで繋がっていると想像している。

内海愛子と村井吉敬は、朝鮮人が日本の戦争責任に代わって戦争戦犯になった事実を知ったのは1970年代のことだ。1970年代インドネシア人たちが「コリアとは何だ?」と聞き返したと内海愛子は回想した。お互いがお互いをよく知らなかった過去、現在もお互いがお互いを記号的に知るが、その「矛盾」の中で繋がっていた小さな歴史と物語は地面に埋められている。この導線は、韓国と日本、シンガポール、タイ、インドネシアと周辺の島まで、とても広域だ。過去の、歴史の導線を辿る時間が現在よりも長かったとしたら、その導線は今のものより時間的、地理的にもとても長かったのだろう。その反対に、いっときの時間と距離を、彼らが耐え忍びながらどのような事象と出会っていたのか想像するように、東アジアにおける近いけれども遠い時間と距離において、私たちがどのように耐えながら出会わなければいけないのかを考えてみる。そして、そのきっかけをr:eadが与えてくれたと思う。
温又柔の朗読で、体中で語ろうとする力であった「祖父の詩」は、「祖父の言語」とは何だったのかを私に想起させる。韓国の私たちの世代は、祖父は不透明な存在だったと感じる。私は一生懸命思い浮かべたが「祖父の言語」があまりにもぼんやりしていて、どのような声でどのような口調だったのか、イメージすら浮かばない。多分、私はこれかの間、それらを継続して想像してみるだろう。

非分節による対話の力

お互い違う言語で、自作の作品プランなどについて対話をするr:eadの目標は、最初は不可能のように思えた。意思疎通とは一致と透明感を基盤にするという先入観を今でも持っていた私は、その不透明な条件下で短時間ではない対話をすることに対して、なかなか確信が持てなかった。芸術に対して悩んでみるという最低限の共通点のみで、見知らぬ人、見知らぬ言語、見知らぬ分野の人々と何を分かち合うことが出来るのか。しかし「アジア都市とノマド」を主題にした今回のr:ead#3のプログラムは、多様な言語の痕跡のなかで、不透明な疎通方法の豊富さをそのまま経験させられた。

液体状態のイメージを読む: mixrice(ミックスライス)との太平洋戦に争における移住民についての対話

私は完成した(もしくは完成した状態を仮定した)作品に対して文章を書くとき、絶えず何かに違和感を覚えていた。作品がつくられた過程に対しての簡単な説明と、目で見える結果のみでその作品の意味を読み解かなければいけない場合が多いが、それはいつも、固体になった作品の上に固いフレームを重ねようとする感覚だった。また、そのフレームはなぜか作品に対して正確にフィットしない自責感を持っていた。しかしr:eadに参加したmixriceは、まだ完成していない作品制作のプロセスをそのまま話してくれ、私はその作品がどのような形態で完成されるかを予測することばかりに集中しなかった。その話から浮かび上がるイメージと知識たちを論理的関連性なしにそのまま並列させた。それはまるで、液体状態に静かに滑りながら挟まっていく感覚だった。
mixriceはr:eadのプログラムに参加する以前、太平洋戦争における移住民についてのリサーチをする機会があったと言っていた。一般的に「移住」について話すとき、主に「誰がどの地域からどの地域までどれほど多く移動したのか」という水平的な動きに注目する。r:eadに参加し、mixriceと対話をする以前は、私ははやりそのような動きだけに注目していた。しかし移住にはもっと違う動きがある、それはまさに移住した地域に定着して根ざす垂直的な動きだ。
このような観点から、ディアスポラ(diaspora=離散)という単語の語源を調べてみると、実際にこの単語は、すでに二つの動きを内包しているということを知った。この単語は、種を「蒔いて」+「植える」(dia+spora)という語源から成っており、大きく広がる水平的な移動と、土に植えるという垂直的な移動がすべて含まれている。mixriceが行なっている太平洋戦争の移住民についてのリサーチは、水平的動きのみでは無く、垂直的な動きにも注目している。しかし興味深いのは、アーティストであるmixriceは、リサーチをしながら歴史学者的な態度で客観的資料を収集するのではなく、限りなく身体的で物理的な行為の、土を堀り、埋めて、掘り返す行為に着目した点だ。
何かを掘って埋めて掘り返す行為は、それ自体はとても原初的であり単純な行為だが、私たちは、そこに様々なイメージを読み取ることができる。埋めて掘り返す行為は、一応ある地域に一定期間の間、停泊することを前提としているため、この行為において定着のイメージを読み取ることができる。またこのような行為は、時には社会的に奪われやすいもの、許諾されないもの、時には不法的なものを隠蔽する行為でもある。しかしそのよう許諾されない行為は、やはりそこに根ざすひとつの方法でもある。このようにmixriceが読み取った具体的なイメージについて、まだ作品化されていない前段階で対話をしながら、歴史についての芸術家のリサーチとはどういったものなのかという問いを投げることになった。

芸術家のリサーチ

上記であげた移住のふたつの動き、つまり水平と垂直のイメージで表現される方法を探してみたとき、二つの動きはとても違って再現される。移住の水平的動きは、大部分客観的な統計に根拠される地図や、ダイアグラムで表現されることが多い。
(Googleで「Korean Diaspora」と検索したらほとんど地図画像が出てくる)
反対に垂直的な動き、つまり定着に関する物語は、大体具体的で生々しい個人的経験に依存したものなので、とても主観的なイメージが多い。
mixriceが収集した資料は、大体のものが公式的で客観的な統計資料たちではなく、主に漫画、小説、日記、映画など、個人が記録したもの、記憶に依存したイメージたち、虚構を加味したもの、また誰かが再現したものをもう一度再現した二重的再現(double representation)のイメージたちだ。このようなイメージたちは客観的資料ではないため、歴史学的研究の補足資料にはなり得るが、事実を確認できないため史料には成り得ない。しかしイメージを敏感に読み取る芸術家には、歴史に接近する重要な資料となる。このような客観化できない再現されたイメージから、また違うイメージを読み取ること、それがまさに芸術家が歴史をリサーチするひとつの重要な方法ではないのかと考えるようになった。

分節できない歴史と言語

mixriceが注目した移住の物語たちは、正確な歴史的事実に基づいて構成されているものではなくいため、明確な節に分けることが難しい。それらは生々しく興味深い物語だが、とある歴史的事実を変形させたイメージで表現されたものだ。しかしこのように分節し難い性格はまさに、移住の歴史と密接に絡み合う言語にも同じように表れてくる。このプログラムに参加した日本人作家である温又柔は、日本語が母国語の台湾人であり、幼い時に祖父から習った台湾語で書いた詩を朗読し、大川景子は、温又柔が言語と地域の境界線を静かに探すだす場面を美しい映像に納めた。私は台湾語を聞き取ることが出来ないが、彼女の朗読とインタビューには、明らかに日本語が母国語である彼女の独特な発音が伝える響きがあり、たぶんそれは、標準の中国語では表現できないような、歴史的特殊性による妙な情緒が圧縮されていた。それらはよく言われる分節言語の疎通では考慮されていない部分であり、明確な節に分けて説明することが難しい要素だった。
改めてこのような芸術家たちは、分節できない歴史と、分節できない言語のなかで、強烈なイメージを捉えようとした。このようなイメージは、客観的であり規範化した歴史と言語とは距離があるが、実際に少なくないアジアの移住の物語たちは、まさにこのような分節できない次元で記述されており、歴史と言語がそのような次元で密接に結合したりもしている。聖書に登場するシボレットのお話のように、アジアの移住民は現地の言語を使うが、違った使いかたをすれば差別や虐殺の犠牲者となる場合が往々にあった。今回のr:eadを通じて改めて注目したことは、このような分節できない対象を芸術家が読み解く過程だ。アジアの芸術家の目と声で記録したこのような対象は、おそらく伝統的な歴史学研究に看過されやすく、繊細に説明しにくい部分でもある。芸術家たちが、この分節できない言語と歴史をどのように視覚的、聴覚的イメージを通じて記録するのかを、別の機会のr:eadで継続的に論議するべきであり、私自身も長期的な研究課題にしようと考える。

エピローグ

プログラムが行なわれている間、多くの参加者たちが香港のデモとそれを象徴する黄色いリボンを掲げていた。そして今も韓国では、この黄色いリボンがセウォル号沈没事故の原因究明のための連帯の象徴として使われている。各国のデモ隊がお互いを支持して、お互いの民主主義を願ったという点では、小さな象徴を通じた大きな連帯の可能性を垣間見ることができた。
短くないプログラムの中、細かく内容を企画し、途方も無い集中力と時間を要する通訳を担当してくれたスタッフの努力は、それ自体に感動を覚えると同時に、このプログラムにおいてのサポート的な役目ではなく核心的な部分であった。もちろんすべての内容が円滑に伝わったわけではないが、東アジアの各国の母国語を使いながらそれが通訳される過程において、西洋圏の言語に翻訳されるときに消失される、言語の情緒を感じることができた。それだけではなく、各国の芸術と専門用語に長けた2カ国語以上を使う芸術専門の通訳と企画者たちが、プロジェクトに積極的に介入し、言語と関連したテーマを発展させるにおいて核心的な媒体的役割を担っていた。r:eadがアジアの違う国に継続していきながら、新しい連帯と芸術的想像力のプラットフォームになるよう祈っている。

失われた国際主義をもう一度探して

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「ノマド」をテーマとするr:ead #3への参加は、2013年に私が香港で創作した作品『アンベードカル‐彼女のために歌う』(Ambedkar – Sing For Her)がきっかけであり、さらにこの作品は、2010年に「西天中土計画(West Heavens)の招待を受けてインドのデリーに滞在したことがきっかけだった。北京からデリーへ、香港へ、そして台南へ、これまでにない素晴らしい旅だった。

『彼女のために歌う』、この作品は、私が香港のフィリピン人メイド団体と共同で創作したものだ。香港には主にフィリピンやインドネシアから来た10万人近いメイドがいるが、彼女たちは香港にどれだけ長く住んでも、永住権を取得することはできない。作品は巨大なメガホンとカラオケシステムを組み合わせたもので、コンピュータのプログラムが、観客に参加を強制し、参加しなければディスプレイの画面がずっと初期状態にとどまったままというものだ。to start the system shout. 観客は『O Ilaw』(光の歌)という歌を覚えて歌うことを迫られる。これは1930~40年代にフィリピンで流行したラブソングだ。歌詞はこのようなものである。

おお、光よ
暗く冷たい夜に
お前は空の
星のよう

おお、光よ
静寂の夜に
お前の写真は、若い娘は
心を傷つける

ああ

目覚めて
夢から
深い眠りから

窓を開けて
僕を見て
そうすれば分かる
僕の本当の悲しみが

これはラブソングだが、アメリカの占領に抵抗するフィリピン独立運動の暗号でもあった。歌い手が目覚めてほしいと願っているのは塔の上の娘だけでなく、フィリピンの民衆のことでもある。中国大陸の民衆からすると、「深い眠り」「悲しみ」「目覚めて」これらの言葉の意味するものは決して他人事ではない。それらはすべて、かつて私たちを導いた革命語なのだ。20世紀において、革命、解放、民族独立は第三世界の民衆にとって共同の訴求と行動だった。しかし現在、私たち(中国の民衆)は、もう自分たちとフィリピンの人々の関連性に思いを向けることはなくなり、その夢は中国が成功しアメリカと肩を並べて世界を制覇することになった。

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ここ数年の間に、私は何度もアジアの国際交流に参加し、新しい冷戦の構図が今まさに東アジアにゆっくりと浮かび上がりつつあると感じている。香港、台湾、韓国、日本はいずれも工業化からポスト工業化の時代に入り、民主への転換を経たか、または現在模索している段階であり、人口も国土の規模もいずれも中国より小さく、共産主義革命や社会主義の実践を経験したことがありません。これらの国の芸術家や学者に会うと、皆同じような問題に直面しており、互いに参考にし合い、互いに平等に尊重し合っている。しかし中国は違う。巨大な規模の国家を抱え、20世紀の多くの時間を共産主義の夢想に導かれ、そして30年前の改革開放を経て、私たちは今工業化のピークにいる。表面上はあたかもすでに世界第二位の国家にまで上り詰めたかのようだが、しかし一般の人々の生活は依然として周辺国家からは遠くかけ離れている。もし東アジア各地のすべての文化人が、西洋の文化を以て我々の他者と見なすなら、共同の危機に直面すれば、その危機が互いの交流の原動力になるかもしれない。しかしいったん外部の仮想敵が失われてしまえば、中国と香港、台湾、韓国、日本の差異は簡単に突出し、交流の障害となるだろう。

東アジアの民衆(文化人を含めて)の間に連帯を打ち立てるには、あるいは私たち弱体化した民族国家の境界に、再び「私たちは皆圧迫された者」という感情の共感が台頭し、20世紀に各国の無産階級を結束させた国際主義がもう一度台頭することが必要なのかもしれない。これはまさにオキュパイ運動(Occupy Movements)の真髄だ。オキュパイ運動は、階級を再び政治語の核心に据えた。we are the 99% and you are the 1%. ここでいう「私たち」はアメリカの民衆だけにとどまらず、中国、台湾、韓国の民衆をも含む。トマ・ピケティなどの学者による分析はさらに明確だ。「新自由主義に席巻された全世界で、各地の民衆は皆、貧富の差が拡大し続けるという共同の災難に見舞われている」

私がもっとも強く国際主義の精神を感じたのは同志社群だった。どの国から来ても、皆が互いに同志であり、友好的で、互いに助け合うことを知っているのだ。これは人々の「私たちは皆圧迫された者」という思いから切り離すことはできない。これもまた、私たちに「圧迫された者」「無産階級」などの概念が新しい含意を持つ必要があることを気づかせてくれる。私たちが階級という視点を再び持つとき、身分政治、環境運動の成果と訴求を手放してはいけない。幅広な、差異を保有した連盟を設立するべきだ。たとえ私たちが皆、その広大な99%に属するとしても。

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この圧迫された99%には、おそらく人間以外の植物、動物、土地、河川も含まれるだろう。昨年の夏に私は上海の「西岸双年展(west bund biennial)」に参加したが、その会場は徐匯区の上海セメント工場の跡地だった。工場が移転してからは、ここで仕事や生活をする人がいないため、私がその場所を見に行ったときには工場区域のほとんどの土地が植物に占領されており、それを見て嬉しくなった。造園家の友人に頼んでそこの植物を教えてもらったところ、20種類以上の植物があることが分かった。カジノキ、ヘクソカズラ、ハマヨモギ、ガカイモ、タマツヅラ、それから危急種であるツルマメまであった。展覧会の主催者側は当初それらの「雑草」は抜いてしまって、そこをセメント広場に改造するつもりだった。キュレーターの劉瀟氏が彼らの説得を手伝ってくれて、そこの草地―生態学者に言わせれば、「都市に残る自然に近い生態環境」を残すのに同意してもらうことができた。しかし工事グループの作業者は私たちの意図を理解せず、まったく気にも留めずに、ブルドーザーで草地の四分の一を根こそぎ掘り返してしまった。これは他の作品とは違って、まるで魔法のような奇跡によって救い出すことができたのであり、どれほど優れた芸術家であろうと自然を造り出すことはできないのだ。続いて、誰が指揮したのか工事グループは草地の周辺に穴を掘り植樹を始めた。草地の中で自然に成長していたクスノキの苗の根はたくましく、しかし造園会社の植えたクスノキは何日もしないうちに半分が枯れてしまった。開催前、清掃員が来て掃除を行い、建物内のツタはすべて取ってしまったのに、草地の中にあった使い捨てのお弁当箱は動かしもしなかった。植物は私たちの一面を映す鏡であり、私たちの頑迷さや傲慢さを反映している。

初秋の頃、草地ではセイタカアワダチソウが満開になった。これは1930年代に観葉植物としてカナダから中国へ取り入れられたものである。天敵が少ないために、中国で多年草の侵略的外来種となり、華東地区の多くの土地を占拠し、農民にとってはもっとも頭の痛い雑草の一つとなった。実は外来種の植物は皆そうで、今年の春に私が深圳で地元の「野草」を調査したときには、道路わきの植物の半分近くがラテンアメリカ原産であることを初めて知った。今日、国家は一方では種が国境を超えることを厳禁していながら、他方では穀物や果物などの植物商品を自由貿易のロジックに従って各地で流通させている。両者はどちらも資本の必要からだ。国家の暴力は安定的な資本主義体系の維持を必要とし、より熾烈な流通だけが資本の増殖をもたらすのだ。植物は圧迫された者たちと手を携えて、新しい国際主義を派生させることができるだろうか?

4

私は「クィア農場インターナショナル」(Queer Farmers International、略称QFI)という組織を提唱し、クィア生活、植樹の実践、国際主義の三者の連結を模索している。学ぶことがすなわちプロジェクトの核心であり、なぜなら私たちは、学ぶことを通してのみ、私たちのなお不確定な未来を描くことができるからだ。クィアは決して、同志と単純に同義というわけではなく、メジャーな生活方式に対する反省と反抗を強調したものだ。QFIのメンバーになるには、クィアテストを受ける必要があり、テストの内容はグループ討論によって決まる。植樹においては、私たちは現地の伝統的な部族に学び、また立体植樹などの新技術を参考にする。国際的な連帯を形成するための入口として、薬用植物は一つの可能性だ。異なる地域で植樹し採取した薬用植物は、贈り物として(商品としてではなく)別の地域の必要とする人々に贈られる。国際主義は真心の実感を通してのみ、初めて芽生えるものだ。贈与や治療は、いずれも感情と切り離すことはできない。

龔卓軍教授、相馬女史とすべての参加者の方のサポートに感謝する。台南で得た密度の濃い討論と、自己の直近の仕事に対する反省により、国際主義をもう一度探し求めることの逼迫性と可能性を見つめることができたと思う。

2014年11月16日,香港

歴史の寄生:開王殿の物語

台南では、少し気ままに歩けば廟を見つけることができる。祀られているのがどんな神様であろうと、どの廟にも鮮やかに重なり合う現代的な灯りが瞬いており、都市生活の中で大変身近に活躍している存在のようだ。神様が人々の日常生活ないし都市空間でこのようにはっきりとした位置を占めているというのは、台南で初めて感じた独特の感覚だった。
しかし高雄の開王殿には、また別の様相があった。
高雄の開王殿を訪れたのは、良く晴れた日の午前中だった。開王殿のすぐ近くに、「国定」古跡である中都唐栄レンガ工場がある。その二つの間には、廃墟の荒れ地が広がっており、野草が生い茂っている。開王殿には台南の廟のような大舞台はなく、色鮮やかな構えもなく、ただ小さく一間が開け放されているだけだ。すべての陳列物は、これまでそれを見守ってきた老人たちと同じように、年月を感じさせる。
我々が来ることを知って、何名かの老人が迎えに来てくれた。彼らは高雄大学の楊先生と一緒に来て、私たちに開王殿の歴史を紹介してくれた。中都唐栄レンガ工場の前身は、もともとは1899年に日本人がここに建てた工場だった。創業以来、愛河を利用した運輸の利便性と資源―沿岸の粘土や周囲の山から取れる木材の豊富さによって、レンガ工場は繁栄し、澎湖から台南まで多くの移民を惹きつけてきた。その後、大陸の解放、国民党の台湾上陸があり、歴史の転換の中でレンガ工場の所有者も変わり、そこで生産された研磨タイルは販売量が大幅に増え、当時香港の学校の校舎丸々一棟の建設にも提供されたほどだ。親切に私たちの世話を焼いてくれたおじさんも、当時レンガ工場で働いていた児童労働者だった。
レンガ工場と同時に出現したのが開王殿だった。その年代、この地に移住した人々はレンガで生計を立て、多くの老若男女が、昼夜を問わず労働していた。しかし医療や生活上の保障はまったく受けられず、また医薬を求める方法もなかった。そこで、労働者は自分たちの焼いたレンガで開王殿を建設し、故郷の神を祀った。楊先生の言葉を借りれば、当時の劣悪な搾取や、医薬の欠如した状況下では、開王殿は彼らの信仰のよりどころであっただけでなく、更に医療と社会保障の中心でもあった。あるおばあさんは自宅からわざわざ開王殿の当時の記録簿を持ってきてくれた。中には、100年近くにわたる各家の診察状況、精神的に縋ってきた物語が書かれていた。ある家の嫁がおかしくなった、ある家がたちの悪い病気に見舞われた、ある人が口がきけなくなった…。これらの症状を記録した後に、担当者が下に処理方法と神に助けを求める記述をしており、心身ともに緊張状態に満ちていた社会生活史を見て取ることができる。おばあさんは私たちが記録の文字を読むのを助けてくれる傍ら、開王殿の神はいかにご利益があり、当時各地から人が来てにぎわっていたかということを強調した。おじさんは私たちに、開王殿の神がなぜご利益があるのかというと、それは移民たちが大陸から直接分祀した神であり、台湾での世代がとても高いからだと教えてくれた。以後、台湾の廟に祀られる神はすべて開王殿から分祀されたものになり、法力が足りない時は、やはり開王殿の神に教えを請うのだということだった。
昔から宗教を持たない私からすると、これらの神との関係を理解し、彼ら老人たちの開王殿に対する信仰と感情を理解するのは、実際簡単なことではなかった。しかし、それでもこの狭く小さく古びた開王殿と、そしてその近くにそびえ立つレンガ工場は、やはり私の頭の中に格別に鮮やかな絵を残した。このレンガ工場は建設時には当時世界最先端のレンガ焼成プロセスが導入され、たとえ今日から見れば朽ちたレンガ工場でも、やはりいくらかの気勢が感じられる。しかし、一日中働き続ける労働者を守り、加護を行い、邪悪なものを追い払い、疾病を取り除くことで、最先端のレンガ工場に夜を日に継いで利益を上げさせてきたのは、このまったく人目を惹かない、労働者たちが故郷から持ち寄った神を祀った開王殿なのだ。
当時「最先端の」レンガ工場は、高雄のこの土地の資源に寄生していただけでなく、労働者たちの勤勉さに寄生し、また同様にこの様々な神を祀った「封建的で迷信的な」開王殿に寄生していたのだ。
しかし為政者たちはこのような現代史を直視したくないのか、少しもこれらの寄生の現代史を理解する能力がないかのように見える。インターネットで、私はこの「古跡」の認定理由を読んでみた。
1. 唐栄レンガ工場は台湾の20世紀のレンガ材生産工業の重要な遺産であり、現存する建物の八掛窯や煙突などは年代が古く、工法が精緻なうえ保存状態がとても良い
2. レンガ材は、コンクリートや鋼鉄材の技術が発展する前は台湾においてもっとも重要な建築材料であり、工場に現存する設備である八掛窯および二本の煙突は、高度な歴史的および文化的な意義を持っており、保管する価値がある。
3. レンガ材生産設備の類は台湾各地で既に非常に少なくなっており、その中で唐栄レンガ工場の規模は最大で、かつ後期には新式の生産設備を追加しており、生産技術の変遷を見ることができる。
4. 各種異なる生産設備が併存されており、産業文化の希少性、代表性、完全性を兼ね備えている。
5. 産業の観点から言えば、高雄市の工業化の過程の重要な遺産であり、そこで提供された建築材料の産業的な意義は、台湾工業および経済発展の進歩の歴史的価値と意義を備えている。
こうして見ると、歴史の保存に敬意を払っているふりをしている為政者たちが本当に表現したいのは、「経済」に対する重視と「現代化」に対する敬慕に過ぎない。彼らの目には、歴史の価値とは、それが「経済の飛躍的な発展」と「技術の進歩」という、現在の物語を語るものとしてしか映らないのだ。この土地で起きた変遷と急成長、どのような寄生があったのかは完全に無視されている。
 今日から見れば、忘れられ、削除され、否認されているこの寄生的な現代史は、依然として世界各地の発展主義者の通弊だ。こうして、高雄の新たな土地開発と愛河沿岸の高級住宅地の建設に伴い、中都唐栄レンガ工場は「現代化」の化身として保存されていくのに対して、開王殿に代表されるレンガ工場の生産を支えてきた生活村落は、根こそぎ空白にされてしまった。 ※1
 高橋哲哉は福島の問題を議論するにあたり、かつて「犠牲のシステム」をこのように定義した。「犠牲のシステムでは、ある者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業など)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。」
 もし高橋哲哉の議論の重点が、犠牲がいかに日本文化における共同体の名目で正当化され崇高化されてきたかという話であるとすれば、私にとってさらに興味深い問題は、そういった様々な植民を経験して発展してきたアジアの国家や地区では、特殊な発展観のために要求されて来た犠牲のシステムは、いったいどのように隠され続けることができたのだろうか?もし西洋側が言うとすれば、この犠牲のシステムは、多くは「腐敗した心」またはオリエンタリズムでぼかされてしまうだろう。しかしアジアの国家や地区の人々からすれば、赤裸々な犠牲、植民者の寄生、それはこれ以上ない鮮烈な歴史経験であり、犠牲のシステムに抵抗するための十分な言い分であり、単純な現代化の幻想を振り捨てるに足るものだ。しかし、現実の状況は決してそうではない。植民を経験したはずのアジアの各国は、見たところそれに対して特別な免疫力はなく、さらには経済主義の文法で歴史的経験を書き換え、それがむしろこの時代の主流となった。犠牲にされた歴史経験は、一体どうやって系統的に文化を改装する経済主義の操作によって遮断されて来たのだろうか?どうやってこの犠牲/寄生の感覚構造を受け入れ、そして無視してここまで暖めてきたのだろうか?正義感に溢れていると自分では思っている現代都市の人からすると、類似の構造の犠牲のシステムも彼らの道徳観と互いに矛盾しないものだろうか?
 これについては、開王殿の物語が、あるいはいくらかの答えを導いてくれるかもしれない。それは、規模に関わらず政府主導の現代史に対する想像や教育は、それに対して逃れることのできない責任を負っているのだということだ。もしいわゆる現代化を発展させてきた「遺跡」が、常に「中都唐栄レンガ工場」のように経済的進歩の象徴として保存され、「開王殿」のように実際にはそれらの経済発展中の社会生活を支えたものが削除されるのであれば、つまりその歴史教育によって、犠牲を必要としない進歩、または円満な自己の現代化というものが、もっとも人々が理解するところの現代化に向けた発展方式になった。そして、それを基礎として発展を思い描き、自然と今日の都市生活の基盤ができた。まさに歴史をばらばらに解体して経済を進歩させた「歴史教育」であり、人々は二度と実際に存在した犠牲/寄生に目を向けなくなり、天真爛漫に、または皮肉っぽく、現代の歴史は犠牲となった人々、寄生された土壌を手放し、自ら形成されることができたと思い込んでいる。
 出発間際に、同行者が冗談で、もし開王殿の神がそんなに強力であるなら、どうして自己を守らず高雄市政府の開発計画で消されてしまったのだろうか?と言いました。これは私に、あの子供のころからレンガ工場で働いていたおじさんの「古跡」保存作業に対する意見を思い出させた。彼が言うには、修復作業によって工場を熟知する老人たちが外へ排斥されたばかりか、さらに修復者たちは工場の建築構造などまったく分からず、表面の見た目だけをきれいに修復して固め、実際は建築にかかる負担を重くしただけで、今まで以上に倒壊しやすくなってしまったということだった。
 思うに、歴史のいつの段階であろうと、レンガ工場と開王殿は常に寄生する者と寄生されたものの不可分な一体構造なのだ。レンガ工場が「国定古跡」となるなら、開王殿とそれを愛する老人たちも保存され継承されていかなければならない。もしこの一体構造を無視し、寄生されたものへの尊重と理解を無視すれば、現代化の自我形成の幻想に溺れ、現代の「古跡」は遠からず倒壊してしまうだろう。
 もしかしたら、それが神の力であり、また歴史の審判なのかもしれない。

2014/10/27 上海

  1. 2004年高雄市政府地製処『中都地区開発案実行可能性評価』において、中都地区は愛河沿岸の美化後、対岸の美術館区と欠どうした高級住宅街になるとしている。今後の中都地区開発工程は2009年に施工を始め、2010年4月に中都湿地公園も施工開始し、中都地区の1894年から形成された産業集合区の風景は瓦解し消失する。
  2. 高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、李依真訳、第36頁、台北連経出版公司2014年6月。

「消ゆく過去を他者の心にどう残して行くか」

私が今回「r:ead #3」に参加する機会に恵まれたのは小説家の温又柔さんが声をかけてくれたからだ。
私と温さんの出会いはほんの一年半前のことだ。
私は2013年の3月に日本文学作家リービ英雄が52年前に家族と過ごした台湾の台中へ再訪する旅に立ち会った。その旅の記録を「異境の中の故郷」という映像作品にした。その旅の同行者の一人に温さんがいた。
映画の内容と背景を簡単に説明させていただくと
リービ英雄は西欧出身で初めての日本文学作家である。中国語の研究家であった父親の仕事の関係で、6歳から10歳までの4年間を台湾の台中で過ごした。彼が生活したその区域は日本統治時代に「模範郷(Model Village)」と呼ばれていた場所。日本がこの場所に作った模範的(理想的な)な街である。そこには大きな庭付きの日本家屋が建ち、戦前・戦中は台中の市長など日本人が暮らしていた。つまり日本が植民地につくろうとした実験的なユートピアだった。1949年以降はその同じ場所に四十世帯ほどのアメリカ人家族が生活した。そのうちの一世帯がリービ家族だった。彼の父は中国語学校の校長をしアメリカ人に中国語を教えていた。家の中では父を訪ねてくる老将軍の中国語が響き、住んでいる家は戦前の日本人が建てた文化住宅日本人が残して行った本やレコードがそのまま残っていた。そして彼の住む家の高い塀のすぐ向こう側には現地の人たちが暮らす村や豚が走り回っている市場があり台湾語が響いていた。自分で選択すべもなく彼の子ども時代はそのような環境の中、つまり日本とアジアの歴史の関係の中にあった。
そして彼の家族はこの場所で崩壊した。彼の父はその地で大陸からやって来た上海の女性と恋仲になる、彼の父と母は離婚をし彼と母親と弟はその地を経ちアメリカへ帰る。
リービ英雄が過ごした1950年代のその台湾は決してその当時の多くの現地の人々がいわゆる知る台中の世界の話ではない、むしろ現地の人々の生活からは隔離されたユートピアのような場所だった。
地理的にもそうであったと同様に彼にとってその場所は家族4人が唯一共に過ごした場所で彼の記憶の中では永遠に続くユートピアなのだ。
彼はこの52年間決してこの場所を再び訪れることをしなかった、その感情をよく表している文章があるので引用する
「―その島は自分の国ではない、とそこを離れてからよく分かった。しかし、自分の家はどこにあるのか、あるいはどこにあったか、と聞かれたら、その島だと答えてしまう。(中略)しかし、「自分の家」のあった現実の場所をもう一度訪ねるということはなかった。(中略)すぐそこの島へ渡ることを、僕は長い間躊躇していた。躊躇していた理由は、すぐれて非政治的だった。ぼくの家は他人の家になった。そしてぼくをつつんでいた風土そのものは消えていたはずだ。ぼくの家があった島は、風土を消してしまうほどの経済発展をとげてしまった、ということをよく承知していた。ぼくの家があった島は、町並みが何十年も変わらない西洋と違って、家も家並みも否応なしに短期間ですっかり衣替えする東アジアにあるからだ。」  リービ英雄
(イーリャ・フォルモーサ――四十三年ぶりの台湾『越境の声』岩波書店、2007年より)

リービ英雄の半世紀ぶりの故郷の再訪の背景にはこのように極めてパーソナルな私小説的要素と東アジアの歴史の要素が入り交じっていた。この一見パーソナルな個人の感情の物語の中には、東アジアで繰り返された侵略と植民地支配が個人に残したトラウマ、その場所に残した痕跡を強く感じる部分もあった。私はこの作品の編集段階で、この個人の感情と歴史的な背景をどう作品にしていくのかを慎重に考える作業が続いた。
過去に存在した時代背景と其処にあった個人の感情はすでにどこにも存在しないもの。見えないもの。
個人の記憶の中にのみ生き続けているものを映像で撮る、そして表現するということは冷静に考えると無謀なことにも思えてくる。
と同時に、常に更新される時間軸の中で、次の瞬間には過去の時間に巻き込まれて行くその場にあった個人の感情、空間と時間をどう捕まえてそれを再現•再構築していくかを試みることは自ずとその場所にあった歴史について知りそして語ることにもつながるのだ、ということを実感しつつもあった。結果的に出来上がった作品がこの試みに到達しているとは思えない。実際に上映後の観客とのディスカッション時に「あなたはこの時代の台湾・中国・日本・アメリカの関係について何も作品の中で触れていないのはなぜなのか?」「なぜ個人的なテーマしか描かなかったのか?」といった意見や質問をうけることがある。
この作品の中でもう一人の主人公でもある温又柔さんには、作品が完成した後の上映活動にほぼ毎回参加しもらい上映後の観客とのディスカッションを共に経験した。そのことによって温さんと私は表現方法は違えどもお互いに共通のテーマを意識し合ったもの同士だということに気づくことができ、会って意見を交換するたびに益々貴重な存在になっていっていた。
各地での上映の度私たちはこの作品を何度も観客と共に見返し、観客の方々からの様々なリアクションに触れた。観客との対話の中で温さんが語る言葉によって私は大きく勇気づけられ、映像作家として、小説家としてその時間を共有し人前で意見を出し合い語り合うことによって何かを得ることを実感しつつあった。
そして、その経過の先に「r:ead #3」への参加があった。
温さんと私はこの滞在中においてもまた、台湾・韓国・中国のアーティストとキュレーターのみなさんと多くのディスカッションを繰り返し、他者の意見から新しい刺激を受けそのことを更に双方で再び話し合い自分たちだけではこれまで上がってこなかったテーマや意見と向き合うことができた。そしてその一方で私たちがこれまで積み重ねてきた会話を更に明確な言葉で置き換えることも出来た。
それは温さんが最終プレゼンテーションのなかでも話した「個人的なことの中に歴史が含まれる。歴史について語るために個人が引用されるのではない。個人が存在したから歴史は存在する」という言葉だ。私は温さんが語ったこの言葉を今もずっと何度も頭のなかで繰り返す。
二人ともこのことにおいて揺るぎない意思を持ち創作を続けているのだと改めて認識した。
そして「r:ead #3」の2週間の滞在が終わり日本に帰ってきてからもう一つ私が加えたいと思ったこともある。
「私が映像で表現する再現・再構築とは今の進歩したテクノロジーの中でかつてあったその出来事をリアルに複製しありのまま再現することとは全く異なる。
嘘の世界を信じさせてしまうこと、まるで自分も理解したのだと思わせてしまうことが映像に孕んでいる危険性だと私は考えるようになった。疑似体験することによって自分も理解したと思わせることは今現在ある映画が犯してしまった罪なのではないかと思う。人々は虚構の世界を本当だと思い。自分の身に降り掛からない、つまり傍観者であるままでその出来事やその場にあった人々の感情までもを共有できてしまう恐ろしいツールを手にしてしまっているように時に思える。
では私たちが過去の個人の歴史について、そこにあった個人の感情について向き合いそれを作品にするということがどう向き合うべきことなのか。またそれが意味することは一体どういうことなのか?
その場にいなかった体験しなかった者がその時のことを語ることはできない。けれども語れないことを語らないことは容易だ。しかしあの時の出来事は今とつながっている。私たちはその事実をどうやって今の時代に持ち込むことが出来るのか、時が経ち薄れていくその記憶と感情と歴史を、その希薄さを認識しつつ私たちは表現という手法を使ってどう生き続けさせることが出来るのか、人々の心の中に忘れないものとして残して行けるのだろうか…」
「r:ead #3」へ参加し過ごした日々によって、私はまだ模索中である自分の考えや意見を参加者のアーティストの前で話し、他者の意見も聞くことを同じ場所を共有しながら何度も繰りかえすことができた、そのことによって自分の言葉に危うさがあることに気づき再度考え直すことができた。

話は前後してしまうが「異境の中の故郷」は完成したが何度見返しても未だに私はリービ英雄という作家に対する謎と興味が尽きないでいる。その理由のひとつが画面に映る彼の姿には東アジアの複雑な歴史の物語とその中で揺れ動いた個人の感情がその生身の身体に混在しているからだろう、その事実がわたしの心をかき立て、同時に胸が詰まるような感情をおこさせる。同じような感情を温さんの存在は私に訴えかけてくる。

映画や小説は歴史とは違う方法で歴史を伝えることができると私たちは信じているのかもしれない。
それは情報ではできないこと。表現の中に生き続けさせるということ。

自分の人生は全てノンフィクションだがフィクションを作ることによって人はその意味を掴める。あるトークの際にリービ氏がそう語っていたのを覚えている。
作家が創作することで人々はそれに惹付けられる、身を投入することが出来る。そして忘れずに覚えている。そのことを身をもって行動し創作している作家が私の目の前に2人いる。
そのことに私は勇気づけられ、この作家との関係が次の新しい作品のかたちにつながっていくはずだと思っていた。

そしてやはり「r:ead #3」への参加はわたしに新しい展開への機会を与えてくれた。
私にとって意見を交換し刺激を与え合う旅のパートナーであった小説家温又柔の存在が今度は被写体になりつつあった。それはいずれそうなるであろうと心の中で思ってはいたが、想像以上に早い展開の訪れだった。
この滞在中、彼女の生まれた台湾で温さんがその生身の身体である小説の原文を探し、見聞き体験し、その出来事から言葉を紡ぎだした。最終プレゼンテーションで彼女は発表の最後にその「台湾の祖父への手紙」という詩を台湾語で朗読し、その場にいた私たちはその肉声を聞いた。
私は一人の小説家がこれから創作の領域に踏み込んで行くスタート地点を目撃し、そのことによって自ずと私の新たな創作も始まった。
私たちは自分たちがこの滞在中に言葉にした信念をもってどう人々に過去の歴史のトラウマを沈黙されていた個人の言葉を表現し人々の心を惹付け、忘れることのないものに替えて行けるだろうか?

以下最終プレゼンテーションを引用させていただきます。


ほんの一年半前に「異境の中の故郷」の撮影がきっかけでで私は温さんと知り合った。
彼女の小説は日常の個人の生活とそこでせめぎあう感情を浮き上がらせる。
彼女はそうやって読者にアプローチする、優しく作品世界に引き込んで、はっ、と何かを気づかせる。
考えるきっかけをあたえる、私はあることを知らなかった、無知だったと気づかせる。
私は彼女のその創作方法にシンパシーをかんじている
自分自身も映像表現の中でそのアプローチを探っている。
私たちは表現方法が違えどもお互いに同じ方法で(たとえば過去と現在の人々の感情について、場所と記憶について)伝えようとしている。
温さんが先に言ったように、「個人がいたから歴史が存在する」ことを常日頃考えている。
彼女と一緒にこのr:eadに参加しみなさんと共にディスカッションを重ねながら私たちは更にこの考えを強く持っていることを
「個人がいたから歴史が存在する」ことを再確認し合うことができた。
この部分をもっと掘り下げる同行者として温さんはわたしを
このr:eadプロジェクトに誘ってくれた勝手ながらに思っている。
彼女の書く小説と同じく私にとっては生身の温さん自身が魅力的だ
彼女のこの小さい身体にはたくさんのせめぎ合いと混沌と言葉と感情と時代と歴史と風土が入り交じっている
その身体とそこから出てくる肉声もまた。私をゆさぶる。


最終プレゼンテーションにむけての2日間の準備時間の中で
温さんは台湾文学館へ「呂赫若の小説」を探しに行った
細かい内容は温さんからの説明通りなので省略する
温さんはここで呂赫若の小説「白木蓮」と感動的な遭遇をする。
わたしがここで遭遇したのは小説「白木蓮」と現代の小説家温又柔が出会った、ということだ。
文学館ですぐに見つかった彼の日記をふたりで夢中になってみていたところに
70年前に書かれた小説「白木蓮」をもう一人の同行者であるZOEが探し出してきた。
ZOEは台湾で生まれ育ちここで私たちの言葉を通訳してくれている彼女のことです。

ZOEさんは流暢な日本語と台湾語、を使い分けr:ead期間中ずっと私たちの日本語通訳としてそばにいてサポートしてくれた。
温さんと私とZOEさんは日本語という同じ言語を使い日常のどうでも良いくだらない話からシリアスなディスカッションまであらゆる話を共有し言葉を交わした。何も違和感もぎこちなさも感じることなく。

呂赫若の小説「白木蓮」を介してこの二人が会話をはじめた
ただスムーズに日常を過ごしているだけでは掬いきれず滑り落ちて行ってしまう二人のやりとりがそこから始まった。
その瞬間からわたしはカメラの後ろで透明な存在になる感覚を味わった。
それは私が撮影者として被写体と向き合う時の身体の状態。
目の前にあらわれた空間とそこに流れる感情とことばのやりとりを汲み入れたいと思う程
私の存在は透明になって行く、二人とは対照的に私から言語で語る感覚が無くなっていく
二人の全ての会話がそのままダイレクトに身体の中に汲み込まれて行く
その時の私の頭はとてもニュートラルな状態だ。

70年前に日本語で書かれた台湾人作家の小説をめぐって今を生きている同世代の二人が話している。
机の上には70年前に書かれた呂赫若の本が置かれ現在の時間がながれるこの空間で向き合う二人が話すのは公の用意された場ではなかなか語られないふたりの生の言葉だ。
その対話と、感情が見え隠れする二人のその表情と仕草をわたしは映像で受け取り、その背景にある可視化できない要素をイメージで捕まえようとする。
その画面の外側にある時間と空間と感情をつかみ取ろうと全神経を使っていた。

こうやって私たちは2週間の台南での滞在を終え、共に新しい創作がはじまる予感を感じている。
日本に帰ったあと、温さんはきっと新しい翻訳の形で彼女の解釈で「白木蓮」をかたちにするだろう。
そしてその経過をわたしは撮っていくのだろう。

私がこの期間中に撮った素材をここでみなさんと共有したい、まだしっかりとした輪郭はつかめていないこの素材を使うことになるかもわからない。
ただ今の段階で私が提案できるのは初期段階のこの素材をここで見ることによって
私自身この素材から何かを再発見することができるかもしれないし
みなさんとこの断片を共有することでお互いに考えが発展するかもしれないということです。
10分のラシュ(編集に至らないただ素材を並べた状態の試写)にお付き合いください。
(※以下はその場でながしたラシュから抜き出したもの)

Okawa1
(呂赫若の小説「白木蓮」の日本語の原文は見つからなかったが中国語に翻訳されたものが見つかる)

Owaka2

Okawa3

Okawa4

Okawa5
(温さんとZoeは呂赫若の本をはさんでそれぞれの祖父の話をしはじめた)

始まりにも至らないプロジェクトの、出来事の報告と投げかけになってしまいましたが
これでわたしのプレゼンテーションを終わります。


温さんと私の最終プレゼンテーションの後、「r:ead #3」に韓国から参加したアーティストmixriceの
チョ・ジウンさんは温さんの表現についてこう語ったことばが印象に残っている。
「温さんのやっていることは再現に対する再現への試み、アジアの固まってしまった歴史をときほぐす作業。」そしてキュレーターであるアン・ソヒョンさんも「温さんの肉声による詩の朗読は言葉だけでなく温さんの考えや、感じることが声に圧縮されている…温さんの文章からこぼれおちてしまうものを映像で表現する。小説と映像2つの作品でなく1つの作品になるような作品にしていけるのではないか。」
滞在中もたくさんの対話を重ねたこの二人からのことばにわたしは今あらためて感謝している。

「r:ead #3」の滞在によって温さんと私は確実に新しい展開が始まるきっかけを見つけることが出来た。

「玉蘭花」と祖父たちの声

実際にあったままの過去を再現することなどけっしてありえない。というのも、再現はどれもみな暫定的なものであり、多様な解釈に左右されるからだ。もはや事実そのものが勝手に語ってくれることはない。(……)歴史にとって、歴史を生みだすプロセスと向かいあわねばならないときが来てしまったのである(シェリー・ワリア)

 相馬千秋さんから電話で「r:ead」の第3回目が台湾・台南で開催されると伺ったのは7月の半ばだった。
 ──おんさん、日本のアーティストとして参加してくださいませんか?
小説家の自分が「アーティスト」として「r:ead #3」に招聘されるというのもこそばゆかったが、それ以上に、自分が「日本」を代表するという事態に私は軽い眩暈を覚えた。
 何しろ私は、「日本」で育った「台湾」人である。それ故に、「日本」と「台湾」というふたつの国の間で、どちらの国も、自分の国であって自分の国ではない、と同時に感じているような身のうえなのだ。
 改めて強調したいのは、私が自分自身について説明するとき、自分は日本育ちの台湾人であるという要素に触れるのは、自分が日本で育った台湾人の「代表」として語りたい、というのとはまったく違うということだ。
 「日本人」、「台湾人」。あるいは「日本育ちの台湾人」。
 私は自分が、そのいずれも「代表」できるとは思わない。私は言ってみれば、私自身を「代表」するので精いっぱいで、それすら負担に感じることもあるぐらいなのだ。そのようなことを、私は確か、相馬さんに告げた。相馬さんの反応は素早く、温かかった。
 ──そんなおんさんであるからこそ、ぜひとも参加してほしいんですよ。
それから話は、私のキュレーター役にはだれが望ましいか、ということに及んだ。
 真っ先に浮かんだのが、大川景子だった。
 『異境の中の故郷──作家リービ英雄52年ぶりの台中再訪──』(2013)の監督である。
 この映画の製作がきっかけで私たちは知り合った。彼女がほとんど一人で撮影・編集・完成させた『異境の中の故郷』を初めて観たとき、私は感動した。被写体に対する距離、素材の編集をとおして作品を構築する感性……彼女の映像作家としての力量に胸打たれたのだ。幸運にも私は、『異境の中の故郷』の「関係者」として、大川監督とともに映画上映会にたちあってきた。各地を巡りながら私たちは急激に親しくなった。一緒に過ごすうちにわかったことがある。
 権威者が語る全体の歴史ではなく、匿名の個人史の集積によってみえてくる歴史。大文字の歴史が掬い取らなかった無数の個人の感情。その個人が、そこに存在していたという圧倒的な事実が、感触が、感情が、荒々しく生々しく、吹き込まれているような…そのような表現に、私も大川氏も心惹かれる傾向があった。
 個人的なことの中に歴史が含まれる。
 歴史について語るために個人が引用されるのではない。個人が存在したから歴史は存在する。
 そう、これが私と彼女の根本的な考えなのである。
 キュレーターというよりは、映像作家あるいは映画監督、つまりは表現者としての大川景子と共に、r:ead#3に参加したいと感じた。彼女の名を挙げると相馬さんもまた、私のパートナーとして、これ以上の適役はないと判断した。その日のうちに私から打診のメールをした。数時間もせずにr:ead #3行きを快諾する大川氏からの返信が届いたときは飛びあがるほど嬉しかった。
 2014年9月30日、大川氏と成田空港で待ち合わせ、同じ飛行機に乗り込んだ。相馬さんたち日本スタッフは一日早く台北に到着していたので、まるで二人旅のようだ。しかし台北・桃園空港の入国カウンターの前で、私たちはいったん別れなければならなかった。日本人の友人と台湾に着いたときはいつもそうだ。「外国人」のレーンに友人たちが並ぶのを横に私は、「本国人」の最後尾につく。逆に言えば、私は、日本では今でも「外国人」の扱いだった。表紙に中華民国(Taiwan)と刻まれたパスポートを手にしながら、私もまた「異境の中で育った子ども」なのだな、と思っていた。
 「入国」と「帰国」の手続きをそれぞれ済ませ、再び合流した大川氏と私を台北の到着ロビーで出迎えてくれたのが、私たちのr:ead #3にとって、絶対不可欠な存在となる葉佳蓉女史だ。
英語が流暢で、韓国語も少したしなむ彼女の日本語は、抜群だった。後で知るのだが、彼女に日本語を手ほどきしたのは、日本統治時代に教育をうけた彼女の祖父だ。桃園空港の到着ロビーで、初対面ゆえのかすかな緊張をまじえつつ挨拶をしあった私たち三人は、たった数日後に、台南の国立文學館でそれぞれの祖父について語り合うとはまるで想像もしていない。
 ZOEこと葉佳蓉が、日本チームである私たちの通訳兼案内役を担ってくれたからこそ、私たちは、ある作品と感動的な遭遇をすることが叶った。ZOEは、私や大川氏の直感・感触・感情に、敏感に察知し、対話の相手となってくれた。r:ead #3におけるZOEの存在が、私たちにとって単なる通訳以上であったことは再三強調してもしすぎることにはならないだろう。
2014年10月11日の最終プレゼンテーションでは、ZOEの通訳によって、その作品と、これからの自分と大川監督が、どのように関わっていきたいのかについて発表した。
よって*以下の文章は、そのときの発表原稿を修正・加筆したものである。議事録と重複する箇所も多々ありますがご了承ください。


 今から71年前、1943年の台湾で発表された「白木蓮」という小説があります。
作者は呂赫若(ろ・かくじゃく)。日本統治下の台湾で教育をうけた彼は、植民地台湾をおとずれた日本人青年・鈴木善兵衛が、7歳の少年・虎坊たちとふれあうというストーリーの小説「白木蓮」を、日本語で書きました。
内地・日本からやってきた「鈴木善兵衛」に対して、台湾の女性たちや子どもたちは憧れの眼差しを注ぎました。鈴木は、近代の象徴ともいえる写真機・カメラを持ち歩き、南国情緒あふれる台湾の風景や、ひとびとの姿を撮影します。村のひとびとは鈴木を慕い、鈴木も緑の生い茂った自然の中で心優しきひとびととのびやかに過ごします。しかしあるとき、彼は病気になり、村の医者ではなおせないので、内地・日本に戻らねばならなくなる。
 鈴木は、植民地台湾においては一時的な滞在者でしかないのでした。その証に、彼は台湾の風景や人々を日本から持参したカメラという機械のレンズをとおしてみるのだが、自分自身は最後まで台湾の風景にはなれなかった。
 この物語を、作者である呂赫若は、7才の少年・虎坊の目をとおして描きます。
 もっと正確にいえば、すでに成人している虎坊が、鈴木が村に滞在していた少年時代のひとときを回想する形で描きます。
 おとなになった虎坊の手元には、自分が7才だったとき村にひととき滞在した鈴木善兵衛が残していった二十数枚の色あせた写真がある。すべて鈴木が撮ったものである。
 撮影者だった鈴木の姿は、どの写真にも写っていません。
 が、鈴木不在の写真の数々は、かえって鈴木が、確かにここにいた、という事実を、語り手に強く思わせる。

 ……実は、私はまだ、この作品を読んでいません。
 今お話ししたあらすじを知っているだけです。
 私はこの小説の存在を『大日本帝国のクレオール言語』という学術的な書物によって知りました。
 この書物の原文は英語で、作者はフェイ・阮・クリーマンといいます。在米台湾人の女性です。
 先日、林欣怡さんが、r:eadでは、通訳の存在が印象的だと仰っていました。ひとつの空間のなかで、色々な話が、色々な言語で次々と語られていく。通訳者のコトバが、複数の文化と文化の間をゆらゆらと妖怪のようにさまよう、という表現をなさっていて、まさにそのとおりだなと私も感じました。
 日本統治時代の台湾人が日本語で書いた小説の存在を、台湾人でありながら日本で育ったわたしは、英語で書かれたこの研究書の、しかも日本語翻訳によって知る。
 こんな状況もまた、r:ead的な体験だなと、今振り返って思います。
 私は、クレーマンさんの本をとおして、1943年12月〈台湾文学〉に掲載された「白木蓮」という題名の小説を読んでみたいなあ、と感じました。
 それが約1か月ほど前のことです。
 実は、私ははじめから、呂赫若の原稿を求めて台南にやってきたのではありません。台南には「日本統治時代に日本語で書かれた文学作品を多数収蔵する」国立台湾文学館があると知ったのは偶然で、もしかしてこの文学館を訪れたら、呂赫若の「白木蓮」があるかもしれない、と思いついたときも、まだほんの軽い気持ちでした。
 ZOEに協力してもらい、事前に調べてもらったところ、『呂赫若日記』なら確実にあるが「白木蓮」はわからない、ということがわかりました。
 それでも、ひとまず行ってみようという話になり、ZOEに導いてもらいながら、大川監督と三人で行ってみることにしました。

 文学館には、昭和17年~昭和19年、西暦でいえば、1942~1944年の間の〈呂赫若日記〉の他に、「牛車」をはじめ、「風水」「隣居」など日本では手に入りにくい呂赫若の他の作品が掲載されたアンソロジーもありました。
 肝心の「白木蓮」は見つかりません。

 しかし、それでも、私には充分なほどでした。特に、手書きの日記帳を複写した「呂赫若日記」はながめているだけで、とても面白かったです。

 日本人にはなじみのある〈当用日記〉と呼ばれる3年日記で呂赫若は日記をつけていました。同じ日付の内容を、3年分、同じページに縦書きで書く形式のものです。同じ本を一緒になってのぞきこんでいた大川監督が、彼女の祖父もおなじ形式のノートで日記を綴っていたと教えてくれます。それを聞きながら、もしかしたらわたしの祖父もそうだったかもしれないな、と考えました。

 はじめは、その日記の中に「白木蓮」にまつわる記述がないか探していたのですが、だんだん目的を忘れて、私は呂赫若の肉筆を夢中で追いかけていました。「眠たくてたまらない」「あいつはでたらめだ」。
 文学観や哲学などといった、いかにも高尚な記述よりも、そのような感情のほとばしりが面白いと景子さんと笑いあいました。私たちが心惹かれるのは、そのようなきわめて個人的な感情なのです。このときの私たちは、確かに、時間と空間のむこうで、確実に存在していた呂赫若という個人の感情に触れていたのです。
 そのようなことを感じながら私たちが呂赫若の日記をのぞきこんでいると、ZOEが「〈白木蓮〉が、中国語に翻訳されたものならありました」と言って、

〈短編小説巻・日據時代 呂赫若集 冷酷又熾熱的彗眼〉(前衛)
〈小説全集 呂赫若 台湾第一才子〉(聯合文学)

の2冊を持ってきてくれたのです。
 日本語の原作は見つからなかったが、その小説が中国語に翻訳されたものなら目の前にある。
 私はこの状況に対して、ふしぎな気持ちになりました。
 この状況とは、わたしにとって最も得意である言語、日本語で書かれたはずの呂赫若の作品が、中国語になった姿で、今、自分の目の前にあるという状態のことです。
 元々中国語で書かれたもので、読んでみたいと思う台湾の小説はいくらでもあります。しかし私の語学力では、やはり日本語の翻訳に頼らざるをえません。中国語が原作の本を日本語の翻訳をとおして味わうとき、わたしはこんなふうな気持ちになることがあります。

 もしも台湾で育っていたら、こんな遠回りしなくて済んだのに!

 ところが、呂赫若の場合、原文は日本語です。
 ですので、それを読もうと思うなら、日本語が理解できなければなりません。
 中国語が母国語の台湾人なら、ちょっと遠回りしなければなりません。
 しかし私は、日本語が母国語の台湾人です。ですので、直接、呂赫若の「白木蓮」に近づけると思っていたのです。
 ところが今、自分の目の前には中国語版の「白木蓮」、
「玉蘭花(yu4 lan2 hua1)」しかありません。
 そう、それは戦後の台湾で植民地文学を研究するうえで、中国語に翻訳されたものでした。
「玉蘭花」という、繁体字になった呂赫若と私との距離は、近いようで遠く、遠いようで近い。そのような感じがしました。

 実はこのときまで、私は、「白木蓮」には、ふたつのバージョンの中国語翻訳があるという事実を重要視していませんでした。どちらか、あるいは、どちらともに目をとおして、この中国語を解読しながら、ここにはない呂赫若の日本語の文章を想像するしかない。もういっそ、自分で翻訳しちゃおうかな、と冗談を言ってみたところ、ふたつの翻訳は、それぞれ趣が異なる、とZOEが説明してくれます。
 ZOEによれば、「日本語をよく知るひとが読めば、ところどころで日本語の気配を感じさせる、中国語としては、どちらかといえばいびつな文体」と「日本語をまったく知らない読者にもなめらかに読めるような、より標準的な中国語にととのえられた文体」なのである。
 つまり、ひとつしかない日本語の原作に対し、その訳文である中国語のほうが、翻訳されるときの時代や社会や政治的な文脈の要請によって、変化をしているのです。

 そのとき大川監督がある提案をしました。
 今ここにあるふたつの「玉蘭花(yu4 lan2 hua1)」をもとに、おんちゃんが、自分自身の「白木蓮」を書いてみたら面白いかもしれない。
 それは、翻訳というよりも一種の創作なのだと景子さんは説明します。
 この中国語を日本語に翻訳する、というよりは、おんちゃん自身の想像力を働かせた解釈によって、自分の小説を書いてしまえばきっと面白いものになるはずだ。
 その提案は、私の背中をぽんと押してくれました。

 たとえば、日本の読者にむかって、かつての台湾には日本語でこんなにいい小説を書いたひとがいた、と紹介するのが目的なら、わたしよりも相応しい翻訳者がいるはずです。
 また、ただ、呂赫若が何を書いたのか研究するためなら、ふたつのバージョンの「玉蘭花(yu4 lan2 hua1)」を、徹底的に厳密に比較検証する必要があることでしょう。

 恐れずに言ってしまえば、私は、そのどちらも目指していません。

 実は私が、呂赫若をはじめ、周金波、陳火泉などの大日本帝国による皇民化教育を受けた世代の台湾人たちの著作に触れようと望んだのは、祖父母のことをもっと知りたいという、きわめて個人的な願望からなのです。

ここで、少しだけ、私の祖父について話しをさせてください。

 父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっているので、私にとって「おじいちゃん(アゴン)」といえば、母方の祖父のことです。
 生きていたらもうじき90歳になります。
 私が子どもの頃、祖父はよくNHK中継で大相撲や甲子園を見ていました。千代の富士が活躍していた時代、私に「よこづな」という日本語を教えてくれたのも祖父でした。
 幼い私は、台湾人である祖父が日本のことについて、日本で暮らしている両親以上に詳しいことが、どうしてだかまったく不思議ではありませんでした。おじいちゃんとはそういうものだ、と思っていたのでしょう。
祖父は、父や母よりもずっと熱心に、私が学校で取り組んでいた作文や日記帳を読んでくれました。祖父に作文を褒められるのは私にとってとても誇らしいことでした。
祖父が70歳で亡くなったとき、私は高校1年生でした。ですので、私が『多桑』という映画の存在を知ったとき、既に祖父はこの世にはいませんでした。
 大学生の頃、私はしょっちゅう近所のレンタルビデオ屋に通っていました。『多桑』のことも、その時期に知ったのです。「Duo1 san1」と発音する一風変わった題名は、「お父さん」という日本語から来ています。「多桑」は、とうさん、の当て字なのです。
 呉年真(Wu2 nian2 zheng4)──日本の方には『ヤンヤンの夏の思い出』でヤンヤンの父親を演じた俳優といえばピンと来る方も多いかもしれません──監督によるこの台湾映画は、日本統治時代に高い教育を受けた台湾人・本省人男性の悲哀を描いたものです。
 
 国立台湾文学館の閲覧室で、机のうえに呂赫若の著作を広げながら互いの祖父についてZOEと話していたとき、私は『多桑』のことを思い出していました。
 自分やZOEの祖父は、とても雑駁に言ってしまえば、多かれ少なかれ「多桑」のようなひとたちでした。この会場にいる、私と同世代の台湾人の方で、おなじような思いを抱いている方もいらっしゃるかもしれません。

 あの日、私とZOEは、それぞれの祖父から教わった日本語について話していました。
 私の印象に残っているのは、私が幼稚園のとき、「いってきます」と元気よく言ったら、「女の子なんだから、いってまいります、と言わなくちゃいけないんだよ」と祖父にたしなめられたことです。
 みなさんご存じのように、今の日本では、女性が「いってきます」と言っていても、決しておかしくありません。
 ZOEもまた、「スポーツ」という日本語を祖父から「運動」と教わったエピソードなどを話してくれました。
 ──だから私は大人になってからもう一度、日本語を自分で勉強しなおしました。
 私やZOEの祖父の記憶する日本語には、どこか古めかしさがあり、それもそのはずで、彼らの話す日本語は、1930年代から1940年代という時期にかけて習得したものなのです。

 1945年を境に、台湾の国語は日本語ではなくなりました。
 その後は、周知のとおり、特に日本統治時代に高い教育をうけた知識人男性にとってすさまじい時代がはじまります。
 蔣介石率いる国民党は、大陸奪還をめざして台湾全島に戒厳令をしき、ほんの数年前まで台湾に吹き荒れていた皇民化教育をうけたひとびとは、日本に奴隷化されたひとびととして扱います。

 1950年代に生まれた私の両親は、上の世代が大日本帝国の皇民として日本語を習得したように、中華民国の国民として中国語を習得します。

 わずか半世紀。世代にすれば、三世代ほどの時間の中で、台湾の歴史はこのように複雑に引き裂かれています。子どもだった私は、自分の両親よりもずっと流ちょうな日本語で語りかけてくれた自分の祖父、アゴンが、上の世代からも下の世代からも、「日本」との関係の深さによって、どこか軽んじられていた世代にあたるとは知る由もありませんでした。

 ZOEと話していて興味深かったのは、私の家でも彼女の家でも、政治の話題にはなるべく触れないようにしていた、という点でした。たとえば、「日本時代」を巡る評価が百八十度異なる父親と息子の関係は、その話題に触れたとき、穏やかでいられるでしょうか。
 私の母親と同年齢のある在日台湾人の女性が、こんなふうに言っていたのを思い出します。
 彼女の父親は、彼女が外省人の恋人を作ったとき、娘を激しく怒りました。
(外省人とは、蔣介石とともに1949年以降に台湾にやってきたひとたちのことです)。
 そのこともあって彼女はその恋人とは別れました。その後、縁あって日本人と出会い、付き合うようになります。外省人との付き合いにはあれほど反対したのに、外国人であるはずの日本人との結婚を、彼女の父親はあっさり許しました。
 彼女の父親はもうじき90歳になるそうです。
 彼女は今でも、帰省中に父親と政治の話はしないように気を付けていると言います。
 「父は心臓病を患っていて、あまり興奮させてはいけないの。でも、政治のこととなると、彼には許せないことがまだまだたくさんあって、必ず激昂するの」
 いったい、何が、彼女の父親を激昂させるのでしょう。
 いったい、だれが、彼女の父親や、私やZOEの祖父たちに穏やかならぬ沈黙を強いるのか?

 ところで、白状しなければならないことがあります。この成果発表会のために与えられた準備期間の2日、私は台湾文学館の閲覧室に長時間いました。呂赫若とむきあいながら、祖父の時代のひとびとのことをずっと考えていました。そのような日をまるまる2日間過ごしたあとの10月9日、r:ead #3のメンバーと一緒に高雄へ行きました。
 高雄應用大学の楊雅玲教授が高雄の町を案内してくださったのですが、逍遥園という場所にたどり着き、鬱蒼と茂る木々の中でほとんど廃墟と化している大きな家屋を見ました。その家屋は、日本統治時代に、大谷光端(おおたに・こうずい)という、大正天皇の娘と結婚した人物が建てた別荘でした。大谷のことを「和日本皇家有関係」と楊先生が話すのを聞きながら、私は「皇家(huang2jia1)」という中国語の響きに、どうしてだか、何か禍々しいものを感じていました。今、自分の目の前にたたずむ廃屋は、その大谷が、自分の別荘としていた家なのです。楊先生は語り続けます。「這裡是眷村的時候……」。
 「ここが軍人村だった頃……」という意味の中国語に、私は胸騒ぎを覚えました。「眷村(Juan4 cun1)」とは、日本人にはちょっと耳慣れない言葉だと思います。
 「眷村」とは、軍人の村、という意味です。毛沢東率いる共産党との国共内戦に敗れた蔣介石は、無数の軍人を引き連れて台湾にやってきました。そのように大陸を追われて台湾で過ごさなければならなくなった軍人はたくさんいました。「けんそん」とは、そのような軍人たちが集まって暮らした集落のことです。逍遥園の廃屋を示しながら楊先生はいいます。一時期、ここには百世帯ほどの軍人家族が住んでいました。
 私はめまいがする思いでした。日本の皇室の親戚である大谷が、植民地の別荘として悠々と暮らした家に、大陸を追われ故郷に帰れる日を夢見ていた軍人たちが、百人以上でひしめきあって住んでいたという事実。2日間、台湾文学館の中で祖父のような本省人──1945年以前から台湾にいる台湾人──の「悲哀」について頭がいっぱいで、どこか夢心地だった私にとって、逍遥園でまのあたりにした廃屋と、そこにまつわる歴史的経緯は、衝撃がありました。
 祖父と同世代でありながら、まったく異なる物語を生きた台湾人たちの気配が、そこにはうごめいていました。
 もちろん私は、台湾における省籍矛盾の問題、特に祖父の世代の外省人と本省人の対立について知識としては知っていたつもりです。ですが、このときの私は、台湾の、一見、何でもない風景の一部に、そのことを突きつけられて、動揺したのです。
 と同時に、もう一つの記憶も蘇ります。
 それはr:ead #3において、折り返し地点ともいえる10月6日のことです。あの日の午後、我々は林牙牙さんをはじめ、台湾スタッフの皆さんに案内してもらいながら、龍果(ドラゴンフルーツ)畑や漁村などを訪れ、とても楽しい半日を過ごしました。私にとって最も印象に残った出来事は、台南芸術大学から徒歩圏内の大崎農村を散策する最中に起こりました。曾祖父母が暮らした家を彷彿させる、私にとってはどこか懐かしく感じられる閩南式の家屋が続きます。風にそよぐ畑や、山々の緑が心地よい道でした。そんな道の傍らに、小さな椅子を出し、腰かけているひとたちがいました。近くで暮らす方々のようです。台湾スタッフのどなたかが台湾語で語りかけました。
 ──おばあさん、この方々は、韓国、日本、中国からやってきたひとたちなんですよ。
 それを聞いた2人の老女がはにかんだように笑います。
 ──おばあさん、日本語をおぼえていませんか? 彼女たちは日本人です。
 そのような台湾語を、だれかが投げかけているのが聞こえます。思えばこの瞬間にはもう、私は何か落ち着かない気持ちでした。私は、台湾旅行で出会った老人が流暢な日本語で非常に親切にしてくれたのに感動した、と無邪気に話す日本人に対し、いつも複雑な思いを抱いてきました。大崎農村にいる自分は、傍からみると、そのような日本人にしか見えないのだろう……そのことがとっさに息苦しくなったのです。しかし予想を反して、老女たちは、日本語が全然わからない、と言います。
 ──戦争中、あたしたちは学校に行けなかったからね。
 ……考えてみれば、まったくふしぎなことではありません。日本統治時代、皇民化教育とはいえ、高度な教育を受ける境遇にあったのは、ほんの一握りの台湾人だったのですから。女性なら、なおさらその数は限られるでしょう。頭ではわかっていたことですが、祖母と同世代の彼女たちが日本語を全然知らないという事実に、私は自分の知る「台湾」はやはり非常に限られている、と痛感しました。
 私は、呂赫若や私自身の祖父をとおして自分が考えようとしていることは、歴史に封じ込められた彼らの声を掬いあげることだと思います。しかしそのことは、別の者の声をかき消して、踏みにじむことであってはならないと自戒もしています。つまり、本省人のひとびとの物語を紡ぐために、彼らが、ある種の必然性から憎しまなければならなかった外省人のことを、ひとくくりにまとめて、祖父たちの敵と単純にみなすことは絶対にしたくない。また、同じ本省人でありながら、日本語を習得する機会のなかったひとびとの存在もないがしろにはしたくありません。
 1945年以来、祖父の「日本語」は、歴史に封じ込められ、置き去りにされました。
 しかし私は、沈黙させられた祖父の苦痛とむきあうとき、自分の肉親である祖父や、祖父によく似た人々の声のみに耳を傾けるような態度はとりたいと思いません。ましてや、それが歴史の「真実」であると声高に叫ぶことなど絶対にしたくはない。
 私がr:ead #3で遭遇した「台湾」は、呂赫若だけではありません。
 逍遥園や大崎農村での経験は、祖父が生きた台湾とむきあおうとする私に「文学的であれ」といっそう強く戒めます。私にとって「文学的」とは、スーザンソンタグが強調する「常套的な言説や単純化と闘い、複合的で曖昧な現実をまっとうに扱う」態度のことなのです。
 
 以上のことを踏まえたうえで、改めて日本育ちの台湾人としての自分と日本語の関係を問おうとすると、それでもやはり幼い自分を日本語で可愛がってくれた祖父のことを思わずにいられません。突飛な言い方かもしれませんが、私の日本語は、祖父の日本語が「隔世遺伝」したものなのではないか、と感じることがあります。
 今、このように考えている私を知ったら、祖父はどのように感じるのでしょう。
しかし、もうすでに祖父の声を直接聞くことはできません。
 日本統治時代の台湾人が日本語で書いた小説を読みたいと思ったのは、そこに祖父の気配を感じたかったから、というのが最たる理由です。
 わたしのそのような思いを、直感的に嗅ぎ取っただろう大川監督は、中国語で綴られた呂赫若の「玉蘭花」の前で途方に暮れていた私に提案します。
 「玉蘭花」に、ふたつのバージョンが存在するのは、それぞれの中国語が、時代と文脈の要請に応じて書かれたということにちがいない。
 それならば、今、現時点で、おんちゃんが、そこから受けとめたものを、自分のコトバで応答するのが、もっともふさわしい方法なのではないか。
 ですので、呂赫若の日本語による「白木蓮」が、この滞在中に見つからなかったことで、かえって私は奮い立っているのです。
 それは、鈴木善兵衛が残していった数十枚の写真の中に、鈴木自身が一切写っていないからこそ、鈴木の存在感がいっそう際立っていることと、もしかして非常に近しいことなのかもしれない。

 原作の日本語が不在だからこそ、文学研究者としてでもなく、翻訳者としてでもなく、あくまでも一人の「文学者」として、自分自身のコトバで呂赫若の「白木蓮」を再創造する。
 これは、この台南滞在によって、私の中に沸きあがった、希望のような欲望なのです。
 この欲望を、私は時間をかけて果たしたいと感じています。

 ……最後になりましたが、台湾文学館にまる一日閉じこもったあと、私はひとつの短い文章を書きました。日本語で書いたのですが、それをZOEに中国語に翻訳してもらって、その中国語を下敷きに、ZOEと台湾語に翻訳しました。それを朗読したいと思います。台湾語は、中国語とともに、私が日本語をおぼえる以前の、幼少期にいつも耳にしていた言語です。中国語は、大学生になってから第二外国語として学びましたが、台湾語は学んだことはありません。台湾語で朗読するのは、今回が初めてです。聞いてください。


 朝晩、すっかり冷え込むようになった。台北から東京に戻って約2週間が経つ。
分厚い2冊組の『呂赫若日記』を傍らに置き、私は再び祖父のことを考えようとしている。もっと正確にいえば、祖父たちのことを考えたいと思っている。
おじいちゃん、アゴン、ハラボジ、イェイェ……あの日、朗読する私の背後のスクリーンには、3つの言語による文章が映し出されていた。
 「原文」の日本語、ZOEによる中国語、そして趙純恵氏がたった一晩で翻訳してくれた韓国語。
日本、韓国、中国そして台湾のひとたちに、拙い台湾語を聞いてもらう瞬間が自分に許されたのは、このうえもなく幸運なことだった。台湾語を含むテキストを声に出して読む機会は、それまでにも何度かあった。しかし、短い文章とはいえ全文台湾語で朗読したのは初めての経験だった。前の晩、その文章を完成させたあとも、私はZOEを帰さなかった。発音をチェックしてもらうのだ。ZOEは私の台湾語に熱心に耳を傾け、声調や、語尾の「n」と「m」の区別など、細やかな部分を指導してくれた。そのような練習を数度繰り返したのち、ふとZOEが呟いた。おんさん、私の台湾語の発音は標準的ではないかもしれません……心配には及ばない、と私は即答した。
──いいの。だって私は“正しい”台湾語を披露したいわけではない。自分の台湾語を朗読したいのだから。
今、目の前にいるZOEの声をとおして聴こえる台湾語が、自分の台湾語になっていく感覚を私は楽しんでいた。朗読後、私の台湾語がおかしいと指摘するひとがいたとしても、それはZOEの責任ではない。私自身の責任だ。それを引き受ける覚悟ならとっくに出来ている。
そうであったからこそ、安素賢さんが、
 ──朗読するあなたの声の中に、あなたの考えること、思うこと、感じることが、圧縮されているのを感じた。
 と評したときは、どきりとした。
 ──あなたは、あなたの中のざわめきをその声で包み込む。そして、あなたが言葉によって含むことのできないものを、あなたのパートナーである景子はカメラという眼をとおして掬いとる。
 そのことは私も感じていた。
 大川氏が撮影した自分自身の姿がスクリーンに映し出されると、「玉蘭花」という二つの中国語と遭遇したときの興奮が生々しく蘇った。国立台湾文学館でZOEと話し込む自分は、記憶の中の自分以上にはしゃいでいる。あの数分間を長時間かけて言語で反復しながら自分ではわりと冷静なつもりだったが、案外そうではないのだな、と照れた。「玉蘭花」と遭遇したあの瞬間が、大川氏のカメラによって記録されているという事実は、これから「玉蘭花」を参考に自分の「白木蓮」を再創造する過程で、私にとってますます重みを増していくのだろう。
(プレゼンテーションの際は、日本語がわからない聴衆にも私とZOEの会話内容が理解できるように英語の字幕をつけた。極めて限られた時間の中で、私たちの意図を的確に把握し、素早く翻訳作業を行ってくれた田村かのこ氏には心から感服している。本当にありがとう!)。
 だからこそアンさんの言葉は私たちを喜ばせ、大いに勇気づけた。同じく韓国から来ていたmixriceのチョ・ジウンさんが私たちのプレゼンテーションに対して語ってくれた言葉も忘れがたい。
 ──歴史の中に確かに存在していた声。それを繊細に掬いとろうとする行為は、凝り固まった東アジアの状況をときほぐすことに繋がる。これからも、あなたたちと一緒にそのことを探究したい。
 それからジウンさんは、アゴンに語り掛けるあなたの声を聞きながら私は自分のハラボジを思いだしていた、とも言ってくれた。
 ……今、アンさんとジウンさんの言葉を、彼女たちの声が発したとおりに、要するに、韓国語によって再現できないことが私には少々もどかしい。r:ead #3の期間中、アンさんとジウンさんの声をとおして聞く韓国語の響きに、私は懐かしい親しみを抱いていた。自分にとって全く未知の言語にそのような思いを抱くのは初めてだった(もちろん、それを話していたのがジウンさんとアンさんであったからこそ、そのように感じたのは言うまでもないのだが)。特にジウンさんが、オンユジュ、と私の名を発音する声を耳にするたび、自分の姓名が、온 유쥬、と綴られる世界がこの世には確かにあるのだと温かく思い知らされる気がした。
 온 유쥬
 オンユジュは、「温又柔」という漢字に備わるふたつの響きのうち、ウェンヨウロウとは全く似ていない。オンユウジュウとそっくりだ。
 生まれた台湾で育っていたら、ウェンヨウロウと名乗っていたはずだ。しかし私は、オンユウジュウとして日本で育った。
 日本からr:ead #3に参加した。
 そんな私の台湾の祖父への手紙を、台湾語で、韓国、日本、中国、そして台湾のひとたちに聞いてもらえたことは、今振り返ってみても、私にとって小さな出来事ではなかったと感じる。特に、龔卓軍さんが、私の朗読にふれながらご自身の父親について言及した際の、かすかな声の震えを思うと、今もなお、私の心は激しく揺れる。
 東京に戻った今、私は、日本、韓国、中国そして台湾……東アジアの現在を生きる友人たちの祖父について、もっと知りたくなっている。東アジアに生きる私たちは、祖父たちの物語を交わし合うことで、互いを理解するための対話を始めることができるかもしれない……私にとっての、r:ead #3とは、その始まりを予感する旅だった。
 「国家」単位で語られる「歴史」は、私たちに別々の物語を強いる。
以前にも増して、その危うさを感じている。私たちはもっと、「国家」から自由であるべきではないだろうか? 
自分が所属する国家の物語こそが歴史の「真実」である。
「国家」を主語として語られる歴史は、時に東アジアの現在を生きる私たちを切り裂こうとする。このような状況のもと、隣国同士が唯一の「真実」を巡って競い合うような事態は、「国家」単位で自分を説明しようとすると必ずズレが生じてしまう私のような人間には、きわめて不毛な光景に見えてならない。
 東アジアの友人とむきあうとき、私たちはもっと「個人的」であってもいい。「国家」が強いる物語に従順でいるあまり、隣国の友人の生身の声が聞こえなくなるのは、寂しすぎる。少なくとも私は、それが何語で語られていようと、彼らの個人的な声に可能な限り耳を澄ましたいと感じている。そう、r:ead #3で出会った友人たちが、私のコトバに耳を傾けてくれたように。

November 2, 2014

非記念碑的手法による記念碑のつくりかた

本事業のタイトルr:ead(=residency, East Asia, dialogue)からも明確なとおり、このプログラムは東アジアと括られる韓国、中国、台湾、日本を出自とするメンバーの「対話」と「思考」のための場であった。この前提条件となるフレームをいかにポジティブに捉え、且つ脱構築するように拡張するかを、日本チームとして招聘された下道基行と私は強く意識して取り組んだ。つまり、最終的なアウトプットとしての大文字の作品をこのレジデンスの場で生み出すことを目標とするのではなく、その数歩手前のひとつの方向に射程を定めるまでのプロセスを如何に築くかを意識し、隣人たちとの対話の場を積極的に楽しみ、不完全で断片的なものを敢えて晒していくことに注力した。モニュメンタル(=象徴的)な「作品」というかたちを求められず、議論や思考の過程を透明化し公開していくことがのぞまれるのは非常に稀有な現場だ。それによって、直接「東アジア」ということが主題にならずとも、このような場それ自体がr:eadというプログラムを支える骨格となっていると言える。
ただ、賞味1週間のみのレジデンスへの参加だったため、結果的にはプレゼンテーションというアウトプットに向けて集中する状況にはなった。しかし重要なのは、必ずしも豊富な時間とは言えないが対話と思考のための場を公に準備していただき、それに応じる方法として、新たな方向へと舵を切るきっかけとなるいくつかのアンモニュメンタル(=非記念碑的) な断片を発見できたことだと思う。
私たちは最終的に、『「不在」のかたち─モニュメント再考』というタイトルで、オルタナティブなモニュメント(=記念碑的存在)と定義できるようなものたちを集めたアイディアのスクラップブックを制作した。誰もが一目で認識できるいわゆるモニュメントからは外れるが、異なった地点からその存在を眺めると象徴性や記念碑的性格が見いだせるものや、あるいはある対象者にとっては記憶に触れるものなど、一見明確な輪郭線をもたないがある側面からは記念碑性をもつ存在を広義に「モニュメント」と捉える、少しずらした視座を提示したものだ。

ここで、「モニュメント」や「モニュメンタル」ということばについて、少し説明したい。モニュメントとは、「政治的、社会的、文化的な事件や人物を公共的、永久的に記念するために作られる工作物あるいは建造物。また文化財関係の用語としては、遺跡敷地に対して、地上に立つ全ての建造物、記念物を含めてモニュメントという。」(ブリタニカ国際百科事典)ということだ。もう少し簡略化すると「記念建造物。記念碑・記念像など。遺跡。不朽の業績。金字塔」(大辞泉)ということになる。この原則的な意味を少々拡大解釈し、記念碑性や象徴性を生み出す私たち人間の行為に着目し、かたちを持たない「行為」などを、記憶に刻む記念碑(=モニュメント)として定義しようと試みた。強固な物質としてのモニュメントではなく、しなやかな行為や記憶をとどめるささやかでそこらへんにある当たり前の存在。言い換えると、ある特定の視座を与えられることで記念碑性を獲得するアンモニュメンタル(=非記念碑的)なモニュメントの探求を試みたわけだ。作品とはそもそも記念碑的(あるいは象徴的)な存在であるが、その記念碑へと至るプロセスにより自覚的になるということだ。

今回我々が探求したのは非記念碑的(=アンモニュメンタル)な記念碑(=モニュメント)という一見矛盾するものだ。作品を制作発表することを目的とするのではなく、作品という記念碑へと至る過程を顕在化すること、そして不特定多数のいわゆる「みんな」に向けるのではなく、もう少し特定された明確な対象に響くモニュメントのかたちを探求するものだ。そのようなモニュメントを、「常温の」「ソフトな」「かたちのない」というおよそモニュメントとはかけ離れたイメージを持たれることばで形容することで、かたちではなく状態や行為に焦点をあて、別の角度から記念碑性や象徴性を考察していった。強固な物質性や絶対的な存在感というモニュメントの既存のイメージを表象するような特徴とは正反対にある「不在」のもつ象徴性を探求すると言ってもよいだろう。絶対的な形態や存在ではなく、生成変化する「不在の在」あるいは「不在のかたち」を求めることだ。
ここで下道がこれまで作り上げてきた作品群を振り返ってみよう。第二次世界大戦までに日本中に築かれた戦争のための建造物であるトーチカや掩体壕、砲台跡などの数十年後の現在の姿を風景として捉えた写真シリーズ《戦争のかたち》(fig.1)、そして現在の日本の国境線の外側に残された鳥居の様子を捉える《torii》(fig.2)のシリーズなどがある。例えば、《戦争のかたち》に登場する機能を剥奪された戦争遺構が埋没する現在の風景は、時の経過とともに戦争を経験した世代が去っていき多くの人の意識から消えていこうとする戦争の記憶を呼び起こし、《torii》は鳥居があった場所にはかつて日本人の生活があったことを示す。どちらも本来の意味や形態の一部が消失することによって、その当時のことを想起させるソフトな記念碑(=モニュメント)として機能するものたちを捉えた風景だ。また、写真として下道に切り取られることによって、それらの忘れられた存在をモニュメント化する行為でもある。ある目的のために必要に迫られてつくられたものが、月日の流れとともにその機能を消失し、存在理由を棚上げされたかたちで風景のなかに残された。これらは保存という名目により柵で囲わたりすると、典型的なモニュメントへと変貌する。下道はそのような画一的で思考停止に陥るようなモニュメント化に対して疑問を抱き、むしろそのままの現在の風景を俯瞰的に捉え、写真として収集する行為により、ソフトなモニュメント化を計った。

fig.1《戦争のかたち》
fig1_戦争のかたち
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.2《torii》
fig2_torii_NewTaichungTaiwan
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

また、砲台跡から花火を挙げたり、トーチカを一時的にスクウォッテングするなどの方法で戦争遺構の再利用計画を打ち出す《Re-Fort Project》(fig.3)は、誰もその存在に眼を向けないひっそりと佇む遺構に遊戯的な方法で人々の眼を向け、かつてあった戦争について想いを巡らす場を生み出す。ある行為を働きかけることで遺構の機能を一時的に鮮やかに変換し、同時にその遺構群を、人にメッセージや歴史を伝えるモニュメントへとソフトに変換させるのだ。
また一方で、震災後にバイクに乗って日本全国を周遊する旅で捉えた田んぼの畦道に渡された一枚の板や、段差を解消すべく積み上げたコンクリートブロックなど、どこにでも存在する身の回りにある最小限の要素により必要に迫られて生み出されたこちらとあちらを繋ぐものを極小の「橋」と規定して、それらをスナップ的に収集していく《bridge》(fig.4)のシリーズがある。これらは多くの人は見過ごしてしまうほどささやかで当たり前で、同時に偶然つくられたものであるため翌日には消えてしまうかもしれない儚さをもつ、それこそいわゆるモニュメントとは対極にあるような存在だ。どんな時代のどんな場所にでも存在するある種の普遍性を備えた儚さや、それらを生み出す誰もがもつ無意識の創造性や美意識を捉え定着することで、やはりソフトな方法でモニュメント化していった。

fig.3《Re-Fort Project》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.4《bridge》
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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

その他にも雪国で道なき場所を人々が通り抜け足跡を残すことで新たに生まれた道を捉えた《crossover》なども、雪に残された足跡という数時間後には消えてしまう「かたち」を定着する行為で、これも下道らしいモニュメント化と言える。つまり、下道は本質的にアンモニュメンタル(=非記念碑的な)な存在である忘却されたものやかたちが消え去ってしまうような不在にかたちを与えるように、ソフトなモニュメントを作品化により生み出し続けてきたのだ。
この延長線上で、「不在」そのものの在り方を探求するよう、より意識的にアンモニュメンタルなモニュメントを生み出す過程を、r:eadという対話のテーブルに持ち出すことで、共有や断絶を経て、新たな方法論を獲得することを試みたのが、本プロジェクトのフレームに対するひとつの回答と言えよう。
最終プレゼンテーションにゲストとして参加したメディア批評家の桂英史氏は「モニュメントとは必ずサイトスペシフィックである」というようなことを簡潔に述べた。そもそも下道と私がこれまで取り組んできたことは、それぞれ職能に違いはあれど、サイトスペシフィック/モニュメントとは切っても切り離せないもので、この桂氏の発言は事後的に我々の活動にひとつの補助線を与えてくれた。

次に私のこれまでの活動にも少々言及したい。私の拠点はアーティスト・イン・レジデンスを主事業とする小さな機関なので、その性質的にも大多数の人というよりは、必要性を感じる人に向けるものを探求してきた。レジデンスでは最終的な展覧会や完成された作品を記念碑(モニュメント)として生み出すよりは、そこに至る過程をいかに経験するかが重視されると信じているため、その経路のよりよい設計を継続して考えてきた。なんとなく大きな規模でひとつの明解なものをつくり出すことのみには違和感や懐疑をもっていただけでなく、限られた条件の中で別の道や別の方法を生み出すこと、つまり制約のなかで「オルタナティブ」な道を探る方向にずっと興味があったため、必然的にいわゆる記念碑的なものではない方法で、かたちを与えることを実践してきた。
また、これまで約10年近く山口や青森という小さな地方都市を拠点として活動してきたわけだが、なぜそのような選択をしたのかが今回のr:eadを経て少しだけ自分のなかでクリアになったので、ここで少し述べておきたいと思う。そもそも今に至るきっかけは建築を学んでいた大学院時代にバルセロナで一年間生活したことにある。そこで最も印象深かったのは、その地に住む人々の価値観の持ち方だった。歴史ある都市だが現在の地政学上はヨーロッパの周縁の土地と言わざるを得ないこの都市では、「周縁」であるからこそ持ち得る伸びやかさと多様性を知った。新自由主義的な思考からは軽快に距離をとり、経済活動や利便性ではなく、その場所らしい生活を築くことに対する個々人の意識の強さが非常に新鮮だった。時間に対する感覚も、どこか主観的で時計の刻む時に縛られない感覚が興味深かった。明らかに異なった価値観があった。この経験がきっかけで、日本において戦後の資本主義経済を基礎とする体系のなかでは周縁と位置づけられる地方都市の存在や可能性を意識するようになった。その結果として、本州の両極の土地にこの10年自身の身体と生活の拠点をおき、芸術を起点として地方という問題と可能性を探求することとなった。それは、大きな物語ではなく小さな水脈を発見し繋げていくような試みであった。そしてか弱いけれど様々であるということを、多様性と複雑性という価値として捉えたいと考えてきた。

この背景には「批判的地域主義(=Critical regionalism)」 という考え方の影響がある。この表現は1980年代に建築理論家であるアレクサンダー・ツォニスとリアンヌ・ルフェーヴルが最初に見出し、彼らとは若干異なった用法で建築史家のケネス・フランプトンが用いて建築論を展開したことで広まっていき、近年ではガヤトリ・スピヴァクとジュディス・バトラーがカルチュラル・スタディーズや政治理論にも援用している。フランプトンは、現代文明を肯定しモダニズム建築が持つ普遍的・進歩的特質を批判的な視点を持った上で受け入れ、同時にその建築の地理的文脈に価値を置くべきとしている。建築における無場所性や場所のアイデンティティの欠如を、視覚だけでなく触覚や聴覚など身体感覚に総合的に訴えかけることで地域的特色を与え、抵抗の建築として独自の存在が成立しうると提唱した。もちろん現在の社会にフランプトンのこの思考を単純に適用することは安直過ぎるが、グローバリゼーションの進行と様々な格差問題が噴出している現在において、そのような大きな流れに不用意に巻き込まれないための「抵抗」の手段として個別にこの思考法を適用することは有効であると考えている。
神話的なひとつの大きな物語を描くことに価値を見出せなくなった現状において、まず自らの足下を見直しそれぞれの土地がもつ小さな可能性を引き出し、情報環境の発展とともにどんな場所や人とも比較的容易にダイレクトに繋がれるということを認識することで、適切な場へとその可能性を接続していくことができるだろう。つまり別の場所、別の可能性への接続法を見出すことで、単純に現状を嘆き否定するのではなく、抵抗の手段としてオルタナティブをもつことが重要だと思うのだ。私はそれを大きな記念碑的な救済のようなものに求めるのではなく、小さくてもいくつもの方向性をもつ自発的で内発的な活動として探求していきたいと考えている。

ここで、昨年キュレーターとして関わった十和田奥入瀬芸術祭 を少し紹介したい。この芸術祭は、芸術祭と呼ぶにはとてもささやかな規模と予算で、人口六万人強の小さな地方都市である十和田市で開催されたものだ。会場は大きくふたつに分かれており、ひとつが十和田市中心街に位置する十和田市現代美術館、そしてもうひとつが中心街から車で30分程の距離にある十和田市周縁の奥入瀬・十和田湖エリアである。十和田市中心街では現代美術館がオープンしたことで来場者数が毎年増加しているが、一方で80年代を全盛に観光地として栄えた奥入瀬や十和田湖周辺は、観光産業が大きく衰退し、就業人口も落ち込み深刻な状況となっていた。十和田市内でも中心と周縁において大きな格差が生まれているのが現状だ。芸術祭では、衰退してしまった市周縁部を盛り上げようという意図もあり、美術館だけではなく、奥入瀬エリア一帯が会場となった。奥入瀬や十和田湖には、とても美しい風景があって、それは観光産業がいかに衰退しようが変わらない財産である。そしてこの自然も実は人間が関わることで維持されている風景であり、自然とはどういう状態かをも考えさせられるものである。ただ、どんな資源を持っていようが、結局それを誰に向けてどのようにアピールするのかがある程度クリアにならないと、その価値は届かない。バブル崩壊後に、企業の慰安旅行や旅行代理店がパッケージを組む団体旅行が廃れていき、現在のようなより小さな単位(個人や家族や近しい友人)での旅行が主流になってきた状況に対しても、結局団体旅行に対応した観光地の在り方しか提示できなかったこのエリアが衰退したことは必然といえるだろう。存在しなくなった対象に向けて発信しても、それは届かない。
そのような背景を考慮に入れながら途方もなく広いこのエリアを巡るなかで見えてきたものは、いくつかのモニュメントだった。十和田湖畔に建つ高村光太郎による《乙女の像》、奥入瀬エリアに多数存在する大町桂月による句碑などの記念碑群、あるいは十和田神社などの建造物や、《雲井の滝》のように名前を与えられた奥入瀬渓流沿いの滝や流れ、岩などの名勝が挙げられる。これらが十和田奥入瀬の表側の美しい歴史を湛える正のモニュメントだとしたら、その裏には廃業した無数の旅館やホテル群などが負のモニュメントとして存在する。通常の観光旅行では正のモニュメントのみが人目に触れ、負のモニュメントは往々にして覆い隠される。しかし、この負のモニュメントにこそ、地方都市が辿ってきた歴史や、なぜ現在の状況に陥ったのかを示す様々な手がかりが潜んでいるはずだ。グラウンドゼロやアウシュビッツ、あるいはチェルノブイリなど災害被災跡地や戦争跡地などを巡る、人類の死や悲しみを対象にしたツアーを「ダークツーリズム」というが、このような歴史的な悲劇や負の歴史を経験することによって理解できることは多数あると思う。近年では東浩紀らによる福島第一原発観光地化計画なども、批判もあると思うが、ダークツーリズムによりフクシマという負の遺産としてのレッテルを貼られようとしている場所を復興していくひとつの可能性と批評性を備えた方法であると思う。また、芸術祭に参加したPortBを主宰する高山明は、Port観光リサーチセンターという団体を実際に一般社団法人として設立し、そのリサーチ活動の一貫として十和田奥入瀬にて観光にまつわる言論イベントを開催し、翌日からはそのドキュメント映像を、イベントを実施した同じ場所に同じ時間で展示作品と上映した。
奥入瀬エリアのように団体旅行の減少とともに衰退していった観光地は日本全国に多数あるだろう。そのような土地にアート作品という新たなモニュメントを多数設置して、それらを巡礼する旅行のかたちは越後妻有や瀬戸内などですでに試みられ、たくさんの観光客を獲得し、芸術による地域や観光の再興の一種の成功モデルとして捉えられている。しかし十和田奥入瀬においては、そこにある歴史や負の経験を新たなモニュメントで覆い隠す上述のような方法ではなく、現状を肯定することからスタートしたいと思った。既にある負のモニュメントを何らかのかたちで再生し、正のモニュメントとともに公開することで、その土地のきれいな表面だけでなく裏側にある現在の困難も含めて見てもらえる方法を模索し、いわゆる巡礼の記念碑としてのアート作品の設置を排除したものが、十和田奥入瀬芸術祭であった。もちろんその理念とは裏腹に、実現できなかったことは多々ある。しかし、その土地や建物などが辿ってきた歴史から目を背けることなく、それらが発するかすかな声に耳を傾けることで、見えてくる地域の未来というものもあるのではないかと思っていた。
サウンドアーティストの梅田哲也、パフォーマンスユニットのコンタクトゴンゾ、そして写真家の志賀理江子という3組のアーティストが半年をかけて協働によりつくりあげた、数年前に営業を休止したホテルの建物一件をまるごと作品化した《水産保養所》(fig.5)は、まさにそのような芸術祭の態度を象徴する、アンモニュメンタル(非記念碑的)なモニュメントであった。この作品は、半廃墟になったホテルをアーティストが徹底的に掃除をし、不必要なものを取り除くことを基本とした。「引き算の方法でつくる」と表現していたが、作品らしきものやオブジェクトのようなものを付加することを避け、水の流れを変えたり、光を導きいれたりというような方法で、機能を失った建築を少しずつ周辺環境に近づけるような作業を施していった。極端に要素が剥ぎ取られたホテル内を巡ると、静かに流れ落ちる水の音が聴こえ、天気の良い日は様々な光が入り、不穏な空気を感じることもあれば、清々しい風を受けることもある。人工と自然の中間のような不思議な状態で、廃墟や遺跡のようにも感じられるし、一方でバブル期のホテルの様相も垣間見える、不思議な場の経験がある。舞台のクライマックスのような象徴的で誰もが盛り上がるような状況は訪れることなく、淡々とささやかな変化のみが連続する。壮大なスペクタクルを徹底的に排除された空間は、ある種のパラレルワールドを経験する感覚にも近い。一切何もないようだが、そこには神経を研ぎ澄ますと見えてくる、聞こえてくる、香ってくるささやかで豊かな経験がある。スペクタクルなモニュメントではなく、非スペクタクルでささやかな経験を生み出すこと。明確で壮大なかたちではないが、目を向けよう、耳を傾けようとする人には、豊かに響き、その経験を記憶に刻みこむオルタナティブでアンモニュメンタルなモニュメントである。目玉となる屋外彫刻のようないわゆる記念碑的モニュメントを設置することなく、奥入瀬という地域に流れる時間や開ける空間をアンモニュメンタルな作品群を通じて経験してもらうことが、地方都市でのこの芸術祭の試みであった。

fig.5《水産保養所》

Courtesy of the artists, Taketoshi Watanabe and Towada Art Center

そのような経験のうえで、私とは異なった角度から「モニュメント」の在り様をその創作活動を通じて探求してきた下道基行と一緒に、対話と思考のためのr:eadという場で、記念碑的な作品づくりではなく、現状を徹底的に共有することで新たな展開の可能性を模索してきた。お互い35歳という年齢に達し、これまでの約10年を振り返りつつ、その先へと向かうためには充分な刺激を与えてくれる隣人たちとの時間はとても貴重だった。下道のことばを借りるなら、「未来において開封されるべき」新たなモニュメントの在り方を探求してきた。なにか大きな結果をこの場で生み出すよりは、その思考過程をとにかく吐き出していくことを意識した。まだ確信が持てないような孵化したての脆いアイディアを、敢えてアートのプロフェッショナルである隣人たちにとにかく躊躇せず開示することで、迷いや違和感、怪しさまでも共有しながら、新たな途を探り続けた。作品や展覧会のように高次に結晶化したものを求められることなく、そうではない「もやもや」やモニュメント的な状態に至っていないものを開示することを議論にあげることを求められるのは非常に刺激的な経験だった。安易に理解できると思われる結果のみが求められやすい現在の社会において、そうではない試行錯誤や不可能であることや失敗までを肯定できるこのような小さな抵抗の場がもっと公につくられていかなければならないはずだ。紛争などは、お互いが向いている方向が少し違っていることや、些細な事柄の不理解が引き金となって引き起こされる。r:eadのような場は、大きな総意や神話的感動を生み出すわけではないので、一見不毛に思われるかもしれないが、このような小さな抵抗の現場にこそ、諸問題に対する異なった解決法を提示できる可能性は開かれているかもしれない。アーティスト・イン・レジデンスとはそもそもそのような創作のプロセスに意識的になるためのアンモニュメンタルな場であるはずだ。そのプロセスに最大の価値を置くこのような場が、最も純化されたオルタナティブなアーティスト・イン・レジデンスの方法として、様々な場所でそれぞれの方法で築かれ発展していくことを切に願う。

こんがらがった糸を少し解きほぐしてみる

r:eadは、基本的に展示会場はなく、そもそも完成作品を人に見せる必要がない。これは作家にとって、「滞在期間内に強引に作品を作り見せる」必要がなく、それぞれが実験を行なうには、かなり興味深い企画であった。(逆に強引に制作するときに生まれるものもあるが)
通常レジデンスでの滞在制作の場合、あるテーマが決められていて、数年や数ヶ月で、その場所のリサーチやフィールドワークを行ない土地や場所の特性を読みながら、その場所で展示することが多い。短期で、作品の完成を求めるなら、いつもの自分の手法に結びつけて、行なうことになるだろう。この企画の場合、共有できるテーマを見つけるためのツアーが行なわれるし、自分たちで旅を企画も出来る。ただ、4週間と時間が短い。対話を行なうのは教室のような場所で、共有する多くの時間はここで過ごすよう設定されている。善くも悪くも、教室内にいる時、ここが日本の東京であることを意識することがあまりない。対話は、教室内でテーブルを円形に囲み、小さな日中韓台サミットのような雰囲気。
はじめは、僕も目の前にいる彼らも、それぞれの国の代表者として、1人ひとりが集まっているような錯覚を覚えた。徐々に、一人一人の中にそれぞれが複雑に絡み合った世界を別の方向から教えられたり感じて育って来た同年代の個人個人がそこにいるだけだ、と感じるようになる。日中韓台は4面ではなく、いつも多面体。
最終日にみんなで食べに行った池袋の中華「延辺」料理は、北朝鮮の国境に近い中国北東部の朝鮮族が多く住んでいる地域。中華料理屋だけど、スパイシーなラム肉に“つきだし”としてキムチやピーナッツがでてくるような、中国か韓国のどちらでもありどちらでもない部分を持っている。味もそうだけど、人も多面的で深みのあるグラデーションの中にある。

この企画の特別なポイントとしては、日韓中台の人が集められているが、それぞれの集団から少し離れた場所で、ひとりひとりの作家が向き合い話し合い考える場、ということかもしれない。
例えるなら、旅先で、たまたま一緒になったものどうしが、国を越えて、生い立ちや仕事や家族のことをだらだらと話し、お互いの生活や置かれた状況の違いを感じながらひととき時間を共有してまた別れる、そんな経験。先日たまたま飛行機内で映画「ロストイントランスレーション」を見てそんなことを思い出した。ある出会いが、それぞれの生活圏ではない、お互いにてっての「どこでもない場所」で起こることのハプニング性。このr:eadはそういう場所なのかもしれない。そうしてそういう場だからこそ、立場を越えて、出会い、1人の人間として、それぞれの違いを受け入れながら、接近できる可能性がある。

結局のところ、今回僕は、作家同士で出来る限り一緒に飯を食べ酒を呑み、いろいろな話をした。もちろんそれは義務感ではない、ただ好きだからだ。このような機会に、いきなりいつも自分の制作に入るのではなく、作品を求められないこの機会だからこそ、出会いから何かが生まれるタイミングを待ちたかったのかもしれない。特に、孫遜(スン・シュン、中国人作家)とは、夜な夜なミーティングと称して、頻繁に酒を酌み交わした。大学生の一人暮らしのようだとお互い笑いながら、とても面白い時間だった。
最終日の僕らのプレゼンが終わった後、孫遜はその感想として、古い中国の詩を僕らに読んでくれた。それは、陳子昂《登幽州台歌》というもので、「天と地を目の前に、人は自分の持つ存在や時間の小ささを感じずにはいられない」そんな悲しい詩。唐の時代の中国で生まれた詩らしく、どこかこのr:eadでの1ヶ月の交流を思わせる素敵な詩だった。最終公開プレゼンの場で起こった突然の朗読に、会場が少し湧いた。翌日、僕は彼の読んでくれた詩に答えようと、動物写真家の星野道夫さんのエッセイ「もうひとつの時間」を、教室でみんなの前で彼に読んでみた。「大自然を前に感動したときに人が残せる物は、自分が変わることかもしれない」そんな文章。朗読など初めての経験だった。

今回一緒にタッグを組んだキュレーターの服部さんは、アーティストインレジデンスで10年程働きさらに自らも小さなスペースを運営していて、作家との共同作業や滞在制作のノウハウと疑問を持っている人で、今回のr:eadへ誘ったのは適任だった。彼とは、二人でいくつかの場所を訪ねながら、自分たちの過去だけではなく、それぞれの未来のことを話し始めることができた。
僕自身、昨年末ひとつ6年間かけて行なって来たシリーズがちょうど終わり、自分制作して来た素材や手法やテーマを疑いながら、新しい挑戦をしたいと考え始めていた。ここで得たものは、たまに誰かとの会話の中や、これから始まるいくつかのプロジェクトの企画会議やそこかしこで身になり始めているが、その得た物を目に見える形で見せ、疑いのない言葉で発するためにはもう少し時間がかかりそうだ。

この企画によって、最も成果が現れる場所は、おそらく参加者それぞれの内側の変化なのではないかと思う。それを外部の人が目に出来る場所/時は、もう少し先になるかもしれない。そしてここでいう参加者というのは、作家そしてキュレーターだけでなく、通訳さん、スタッフ、ディレクターすべてのこの企画(対話)の場にいた人たちだろう。

どんな企画にも、企画者や支援者(国や町や企業)などの制限やコントロールは発生するし、それを知った上で参加しないと、自らもその一部として巻き込まれてしまう。r:eadは“制作の環境“としてのレジデンスであることはまちがいない。ただ、全ての言葉はいちど日本語に訳されるシステムや、この”東アジア“という言葉のように、大東亜内帝国主義的(欧米中心へのリフレクションとしての帝国主義)かというはじめからの僕の中で何度も疑いを持ち続けていたのは事実だ。ただ、このr:eadはどこでもない漂う船のような場所として、存在できる可能性を多いにはらんでいる。舵取りを参加者全員の会話で決めるのも面白い。まだ始まったばかりではあるが。
このような企画が続いていくこと、より発展した形に変化して行くこと、このような企画が例えば隣国同士で開催され、日本人が参加すること、そんなことが積み重なって行くことで、隣人との関係性が、否定や排除からではなく、尊重をベースにした関係が積み重なって行くのかもしれない。この交流のかたちを発展させるためのひとつの過程として僕はここに参加しているのではないか、とさえ感じてくる。

今目の前には、こんがらがってしまった国家間の状況がある。政府やメディアによって多くの国民の感情はオセロのように白や黒へパタパタとひっくり返る。こんがらがった糸を意図的にまたもつれさす奴らもいる。ただ、r:eadでのような機会によって生み出された個人個人の中に生まれたバランス感覚は、今後も刺激し合いながら、どんな嵐が吹く時代でも、少しずつ母国に根を下ろして行くのではないか。

僕として今回は、手垢のついた自らの手法への疑問のはじまり、そして隣国の作家たちとの交流、それは、こんがらがった糸を少し解きほぐしてみるような時間だった。
近い未来みんなとの再会が待ち遠しい。

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r:eadは今後も続くだろう、そしてこのような文化交流の企画も増えて行くだろう。今後、同じような箇所で迷ったりつまずくこと回避し、より議論や手法が前に進むために、r:eadの企画内容を僕なりの視点を交えて書き留めておこうと思う。

【企画内容+感想】
・タイトルのr:eadは、「レジデンス・東アジア・ダイアローグ」の頭文字をとったもの。→3つの単語をくっ付けた造語で、なかなかダイレクトなタイトルだと思う。
・目的は「東アジアにおける芸術や社会に対する問題意識を共有し発達させること」。(オフィシャルサイトより)
・参加者は、日本・韓国・中国・台湾の作家が1人ずつがr:eadスタッフのリサーチによって選ばれ、さらに作家が1人ずつキュレーターを選ぶ。→僕は服部浩之さんを指名。彼は“オルタナティブな制作と発表の環境”について考え実践している人であり、r:eadという新しいレジデンスフレームの実践を考える上でパートナーとして適任と考えたから。
・企画者は、相馬千秋さん。→『フェスティバル/トーキョー(F/T)』ディレクターとして、東京を拠点として芸術の環境を拡張して来たと認識している。
・場所は、「にしすがも創造舎」の教室を使いダイアローグ(対話)を行い、その近所のウィークリーマンションに韓国、中国、台湾の作家と一ヶ月住む。→2つの環境が少し距離がある。
・最終発表の形態は、特に決まってない。「にしすがも創造舎」の教室を使い、1時間の持ち時間にプロジェクターや現物を用いて行なう。→会場に見に来る人々はある程度の制限があり20人程度。ただustreamにてオンライン上映。あまり開かれていない環境かもしれない。

【その他の特徴】
・期間が前半1週間、一度それぞれ帰国し、2ヶ月後に再び東京へ来て、後半3週間。2−3日に1回はミーティングが開かれる(変更も可能だった)。
・東京が滞在都市であり、東京を見て回るためのツアーが企画される。靖国神社、お台場、上野、秋葉原など。そのほか、桂英史さんによる東京の別の側面の話や高山明さんの東京での滞在制作の話など。今回は被災地を巡る東北2泊の旅も企画し行なった。→対話や制作の糸口の見つけ方の例としては、①各自が用意した糸口(事前リサーチなど)、②企画者が用意した糸口(この作家ならこういうものに興味を持つのではないかなど)、③滞在しながら見つける糸口(フィールドワークなどの現場体験)、その3つを複合的に進めて行くのが効果的かもしれない。r:eadは、滞在制作場所が東京と情報量も多いからか、①は各自少し曖昧のままスタートし、③をするには少し期間が短いために、②に頼らざる得ない、構図が少し見えた。
②で得た情報を念頭に置き、「ある共有できるテーマを掲げ、グループ展的にそれに沿った作品をそれぞれが作る」という手法でこの共同プロジェクトを進めて行くことも有意義だっただろうし、その可能性についてみんなで話し合う機会もあった。ただこの短いリサーチ期間から得た共有できそうなテーマを強引にみんなの制作の上に掲げることに少しためらいを持ったし、うまくまとまらなかった。それはそれぞれが全く別の方向を向いている作家であったということでもあるが、それぞれが経験値の高い作家であった分、「簡単になにかの形でまとめてしまう」ことの危険性を意識的に避けた結果ではないかとも考えられる。
もう少し長い期間で行なう事も考えられるが、現在の期間を日本だけでなく、韓国・台湾・中国と移動しながら3−4ヶ月行なって、ひとつのプロジェクトになるのも面白い、が予算などいろいろと問題はありそう…。スンシュンは「期間後にうちのスタジオで展示できるぞ」ということも話していたし、企画からの脱線や飛躍は期待できる。
・レジデンスとして住む場所と集まる場所が距離的に離れていて(3駅)、リビング的場所がない。→逆に今回企画した、東北旅行では、その移動や宿も含めてすべてがリビング的であり対話スペースにもなり興味深かった。しかし、旅の場合、一緒にいることの強制力が強く、そういった状況が不得意な参加者もいる。“旅の行程すべてがレジデンス企画”というアイデアを、服部くんと話してみたが、日程や強制力と自由時間などとの関係をうまく作らないと難しいかもと話す。
・作家が一緒に仕事をするパートナーとしてキュレーターを選ぶこと。→初めての経験。若い作家に比べて、若いキュレーターがなかなか見つけるのが大変だ、と服部くんと話す。熊倉晴子さんにも手伝っていただく。
美術館や従来のアーティストインレジデンスの中で、そこに勤務するキュレーターと仕事をする訳ではなく、箱の無い状況へ作家がキュレーターを引き込む機会、そして何を行なうかと話し合う、のは面白い。
・ 中国、韓国、台湾の作家との共同生活/作業。→大変に貴重な経験。キュレーターは前半1週間、後半最後1週間の滞在のみで、関わり合い方が少し難しいかもしれない。ただ、作家とキュレーターとがいる場合、各国で固まる傾向もあった。
・「東アジア」という意味への言及が不透明→最近、東アジアという言葉を耳にする事が増えた。僕としては、なんだかこそばゆい言葉。「東アジア」や「アジア」ということを一括りにすることは難しい。よって、「文化による隣人たちとの連携と対話」を欧米を介さない手法の模索の場なのかと考える。
・対話では一カ国に1人の通訳を付けて、母国語で話す(英語を通さない)ことができる。「母国語←→日本語」通訳がみんなにつく。全てが一度日本語になる違和感。例えば、「韓国語」から「中国語」への変換だと、「韓国語←(通訳A)→日本語、日本語←(通訳B)→中国語」。伝言ゲームのよう。英語が話せる人にはまどろっこしい。通訳さんは言葉をつなげるだけでなく、2国間の文化やいろいろな事を中間の立場で“通訳“する、とても面白い存在感を感じる。
・対話を最も重要視していて、最終的に作品を完成させる必要性はないこと。r:eadは今回2回目だが、5回(5年間)このプロジェクトを行なった後、全ての作家を集めて、展示か何かまとめを作ることを想定しているらしい。
・対話するテーマも設定されていない。そのため、対話の中で共通のテーマを自由に見つけて討論や制作を行なうことも可能だが、少し短期間であるため、探り探りのまま終わってしまう可能性も高い。1ヶ月ではなく3ヶ月以上あれば、もう少し発展する事もあるだろう。
・企画自体が「どこで」「誰に向けて」行なっているのか不透明。逆に言うと実験的で自由度が高い。

01
滞在時東京に降った記録的大雪を固めた雪碑(冷凍庫に保存中)

02
服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

03
服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]

04
服部さんと制作した冊子[不在のかたちーモニュメント再考ー]