世界観の再構築 荒川線物語

今日、新自由主義の下に国家管理、言語政治、資本主義が複雑に発展してきている。こうした状況にあたり、アジア地域はいかに国家民族、イデオロギー、消費モデルを乗り越えて、世界観を構築した上で、現代のアートに結びつけるのか。果てなき砂漠を乗り越えることこそが地域の潜在能力を引き出すきっかけになるだろう。

最近の例としては、2014年3月8日に「アジア・アナーキー・アライアンス」展が渋谷、本郷のトーキョーワンダーサイトギャラリーで公開された。この時期は台湾廃核デモと東日本大震災福島原発事故三周年と重なる。展覧会では、袁廣鳴が公開した新作が人々を驚かせた。高い角度から鵝鑾鼻の原子力発電所、および蘭嶼の放射性廃棄物処理場を撮った作品である。作品には、竜頭岩の坂を静かに海に向かう山羊たちや砂浜にいる人たちが映っている。こうした景色を見て、山羊や私たちが原子力発電所と放射性廃棄物処理場にこんなに近いのかと思った。その一方、朗島小学校、海と波、緑の丘が人なしの調整室を囲んでいる。まるでお化け屋敷のようで、ぞっとする。

数ある反原発の声の中で、この作品は最も静かな異議だと言える。この純粋な声は、東京の片隅で反原発に対し大きく働きかけている。

陳界仁の「路徑圖」では、台湾高雄ハーバーのストライキの労働者が「世界の労働者たちが我々の仲間だ」と訴える。この度、陳さんの作品も海を越えて来日し、会場で注目された。作品からアジア・アナーキー・アライアンスにおける具体的なイメージが伝わる。概念的には、世界観の芸術性を再構築し、台湾がここ数十年かけてやってきた現代アートにおける世界観を再構築する取り組みに繋がっている。その一方、実際の行動としては、アジア民族の壁を破り、台湾から一歩踏み出している。今回のイベントは吳達坤さんがキュレーターを担当し、二年間近くの歳月をかけて、ようやく現代アジアとのつながりを掴んだ。

さらに、中年世代の姚瑞中、および若い世代の張立人、陳敬元、陳擎耀、杜珮詩、葉振宇といったアーティストも脚光を浴びている。その中で、張立人さんの「戦いの城」は都市システムを描く繊細な動画を使って、世界警察であるアメリカにコントロールされる台湾を批判した。こうした世界捉え方はまさに「アニメ世代」の台湾におけるグレードアップバージョンである。さらに、トーキョーワンダーサイトの本郷会場では、杜珮詩(ドゥ・ペイシー)さんの新作「世界の博覧会」(World Expositions)が発表された。1970年の大阪・1975年の沖繩・1985年の筑波・1990年の大阪・2005年の愛知で使われた日本万国博覧会の宣伝ポスターを元に、インターネットで集めた世界の大事件の文章と写真を印刷し、背景を透明化したうえで、A4の原稿に貼り付けて制作した作品である。

新作に対して、杜珮詩さんの前作「玉山迷蹤」アニメシリーズは過去の博覧会の写真を縮小し、世界の情報を集めるプラットフォームとした。ここでは、カッセルで開催された13回目のドクメンタにおいて、ジェフリー・ファーマーが1935年から1985年までに雑誌『Life』に載せられた「草の葉」(Leaves of Grass)の写真を切り抜いたのと同じ手法を使った。杜さんの作品ではその新しい組み合わせにより、元のアメリカのライフスタイルが覆され、日本の作った東アジアをもとにした世界観が出来上がった。アメリカにある新前衛やポップアートの代わりに、台湾と東アジアにおけるエピソードが取って代わった。もちろん、冷戦の歴史では、アメリカの要素も頻繁に出てきた。

杜珮詩さんの博覧会シリーズの作品が3月12日の「r:ead レジデンス・東アジア・ダイアローグ」で発表された。日本に従来ある素朴な美学をもとに、新しい現代の要素が加えられた。図像の表象に優れて、色の配置も鮮やかな作品である。この作品はアンゼルム・キーファーのドイツロマンス主義も彷彿とさせ、冷たさと虚しさにあふれた第二次世界大戦への反省を描いた絵画との間に大きなアジア式のコンラストを生んでいた。

今回r:eadの企画に参加したおかげで、杜珮詩さんをはじめ、日・韓・中のアーティストとキュレーターと東京で話し合うことができた。これに際し、評論家としていかにアーティストの既成作品に影響されず、自分なりの世界観を再構築することができるだろうかと考え始めた。私から見れば、世界観の再構築は特定の芸術文化に基づいた上で、世界史の観点から新しいインスピレーションを引き出す必要がある。

台湾における従来の芸術文化について、このようにアドバイスした。1980年代の台湾映画はアジアおよび欧米の評論家に注目されてきているのが事実である。こうした中、この時代の台湾映画を世界観の再構築の糧にしようと考えた。

東京に来る前に、インターネットで蕭菊貞監督が作ったドキュメンタリー「白鴿企画-台湾新映画の二十年」(2002)を見た。それをきっかけに台湾の新映画世界に入った。その時代を振り返ったら、その時の時代感、製作工程、政治と文化闘争などが詳しく残されていた。450万TWD補助金で作った「光陰の物語」(1982)をはじめ、1987年に台湾新映画監督宣言発表までの間に、吳念真、小野、侯孝賢、楊德昌、曾狀祥、張毅、陶德辰、柯一正、朱天文などの若者は素晴らしい文化をつくった。彼らは限られた環境で、当時国民党の労働組合システムとレイティングシステムに直面したが、明驥(当時台湾中央映画会社のゼネラルマネージャー、台湾新映画の父と呼ばれる)の努力によって統合し、このような文化的奇跡を起こした。それにしても、アジアや世界の視点からもう一度台湾新映画を検証すれば、また新たな評価を得られるだろう。

台湾新映画が始まってから30年後、ドキュメンタリー監督王耿瑜はもう一度新映画を検証してみた。他の台湾新鋭アーティストと同じように、彼女は編集中のフィルムを見ながら距離を取らないと新たな観点で物事を見ることができない、ということを改めて発見した。新映画に関する論争を20年後にもう一度検証すれば、「白鴿企画-台湾新映画の二十年」というドキュメンタリーと同じように、我々は見当違いな結論にたどり着く。しかし、もしこの時間が30年になれば?やはり、新映画の美学価値は、観客の視点の変化または新映画中に現れたアジア意識と世界意識の特異点によるところが大きい。

日本の是枝裕和監督、フランスのオリヴィエ・アサヤス監督、中国の王小兵監督と賈樟柯監督、イタリアのミュラーキュレーター、日本映画大学学長佐藤忠男、香港の舒琪監督、アーティストの艾未未、またアルゼンチン映画関係者まで、皆この台湾新映画が始まり王耿瑜が編集した最初のバージョンから30年経った今も、新映画が彼らとアジアを影響していることを認めて、新映画の中にある世界意識を肯定的に認めた。この世界中、ある一世代の文化人は台湾の新映画に触れ、現代の台湾人の生活を垣間みて、影響を受けている。

台湾映画助成金システム、ビジネス価値、またはビジネスバランスなどの外部因子の視点から見れば、台湾新映画の内部価値を読み取ることができない。これは、私がアジアと世界の視点から台湾新映画を検証する時に発見したもの。過去。我々はそのような外部因子をめぐる論争の中で、マーケット動向への注目は決して欠如していない。我々は欠如しているのは、世界観であるだろう。その故、如何はアジア史、または世界史の視点から、もう一度1980年代の台湾新映画を検証すること、最近の私の一つ面白い課題であった。

是枝裕和監督は王耿瑜との対談中に、彼の子供時代のことを話した。当時、家族全員がバナナやパイナップルを食べる時に、彼のお父さんは必ず「やはり台湾の方が甘いなあ」と発言していた。その時の是枝裕和監督はお父さんの気持を理解できなかったが、大人になったある偶然なチャンスで侯孝賢監督の作品『A Time To Live, A Time To Die』を見て、彼はようやく理解できた。そのお父さんの発言の中に、彼が生まれたから青年時代までに台湾で住んだ記憶、幸せ、そして台湾という故郷に対する懐かしさを含まっている。だからこそ、お父さんは太平洋戦争中に中国東北へ行って日本に戻る経歴を一切言わなかった。この是枝裕和監督の話によって、アジア性というものは、映画中に現れたパッションフルーツの中にも潜んでいるかもしれない。

インタビューの中で、賈樟柯はそう言っていた。「新映画は確かに終りだ。懐かしく思い出すことはなにも残していない。しかし、ある映画に属す生活スタイルも新映画と共に消えたことは残念だ。」この話は、「新映画はもう死んだ、新映画はもう終りだ」と呟いている我々に対して、もう一度考え直すチャンスを提供する。一体、「映画に属す生活スタイル」とは何であろう。それは、映画生産方式の更新、侯孝賢監督が映画のために屋敷を売り、楊德昌監督が車輪の音のために深夜で陽明山に行き、長回し手法によって全身で演じなければならないという特異な状況などである。また、楊德昌監督が『Boys from Fengkuei』という侯孝賢監督の映画を見て、BGMを再製作を決意したこともその生活スタイルの一つ。当時都会と田舎の現実状況を忠実に再現する、撮影周辺の環境音を忠実に収録する、日本語、台湾語、そして客家語(台湾方言の一つ)を台詞として使うなど。このようなことの中から、「現在を注目しながら現実から脱ぎだし、映像視点で世界を見る」ことができるという映画的な生活スタイルを見える。言い換えれば、この生活スタイルは一種強烈な、個人的な、創造的な世界を作るスタイルである。

是枝裕和監督は、侯孝賢監督と小津安二郎監督の間にあった美学対話を継承している。フランス監督オリヴィエ・アサヤスは楊德昌作品の中から、ロンドン、パリ、またはニューヨークなどの人間世界で共通なものを読み出すことができる。このような深くて創造的な対話と現代人間の共振ことは、正に新たなアジア観と世界観であろう。私は荒川線の夜行列車の中で、このようなことを考えた。その同時に、私もまた、侯孝賢監督が2003年小津安二郎百年冥誕を記念するために作った映画『Café Lumière』の内容を考えていた。映画の中で、一青窈が演じる井上陽子は名も知らない台湾人の子供を受胎した。彼女は電車の中で、一体どのような孤独を感じているのであろう。

万国博覧会

この度のr:ead レジデンス・東アジア・ダイアローグのプログラムにおいて、私は「万国博覧会」をテーマとしてコラージュ作品を創作した。まず、日本が1851年以来主催した万国博覧会の宣伝ポスターを集めた。「人類の進歩と調和」をテーマに揚げた1970年大阪万国博覧会、「海-その望ましい未来」を主題とした1975年沖縄国際海洋博覧会、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマとした筑波国際科学技術博覧会、「人間と自然」をテーマとした1990年大阪国際花と緑の博覧会、「自然の叡智」を主題とした2005年愛知万国博覧会などだ。それらのポスターをA4サイズのイメージにし、その上に各博覧会のあった年の出来事のイメージを貼り付けた。イメージからあふれたさまざまなメッセージを同じ視覚平面に重ねる。下記は、博覧会と一部出来事の対照リストである。

1970年-「人類の進歩と調和」/ビートルズ解散/PFLP旅客機同時ハイジャック事件/ケント州立大学銃撃事件/ベトナム戦争反対運動/フロッピーディスク開発/ソ連の宇宙探査機ベネラ7号が金星に着陸/ 中華人民共和国が初の人工衛星東方紅1号の打ち上げに成功

1975年-「海-その望ましい未来」/レバノン内戦/マイクロソフト社創立/初期のベトナム難民が船で香港に入国/国際婦人年/アポロテスト計画執行開始/ベトナム戦争終戦/ポルポトがカンボジア首相に就任

1985年-「人間・居住・環境と科学技術」-タイタニックの残骸を発見/ネバドデルルイス火山噴火、アルメロ悲劇/南極上空にオゾンホールを発見/ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任/新しい味のコカ・コーラが発売/ディスカバリーチャンネル放送開始/AIDS血液検査が承認される

1990年-「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」-野百合学運/ドイツ統一/ネルソン・マンデラ釈放/ハーブル宇宙望遠鏡打ち上げ/レフ・ヴァウェンサがポーランド大統領に就任/イエメン統一/ゴッホの「医師ガシェの肖像」が史上最高値で落札

2005年-「自然の叡智」-ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを直撃/ロンドン77同時爆破事件/インドの寺での死傷事件/米軍レッド・ウィング作戦失敗/イタリア女性記者スグレーナ氏救援/小泉純一郎が内閣総理大臣に就任/カナダが世界初の同性婚を合法化する国に

日本が主催した国際博覧会のポスターを通して、世界への想像を表現した。それが現実世界の出来事と呼応することもあったが、皮肉と対照することも多かった。今回の作品の中には、想像の裏に隠れている時代意義と雰囲気への興味を表現した。また、今回の創作を通し、東アジアを基盤とする世界観を構築した日本を観察した。

アジア観点の出現は西側中心論と大きな関係がある。アジア概念はキリスト教文明と産業革命を背景とする欧米概念と異なり、多元性・非統一性という特徴を持つ。今回のレジデンスで、芸術領域におけるアジアの問題に対し、二つの考えがある。一つは、なぜ現代芸術がアジアに関心をもつ必要があるかということ。50~60年代に多く論及された地域問題に対し、今の論議は新たな方向を見つけられるかということ。芸術家である私は、「芸術」を純粋な概念の中心としてアジアを考えるべきだと思っている。もう一つは、現在、我々が新しい帝国の形をつくる必要はあるかということ。90年代から始まったビエンナーレの流行により、アジア観念を構築し、ヨーロッパ観点から脱出し、新たな言葉の権利を獲得する意図が明らかになるであろう。このようなアジアのイメージ統合の必要性の有無、あるいは差異が存在し続ける限り、革新が現れる可能性があるかもしれないことは、考えるに値するのであろう。

東アジア、同時代、私たちがしなければならない行動は何だろう。

2013年12月、2014年2月に行なったr:eadは重要な時期に重要な人々と一緒に過ごした場に違いない。4ヶ国から集まった4名の若いアーティストと4名のキュレーター、ディレクターの相馬千秋さん、それから花々しい活躍をみせたスタッフは、長期間のあいだ一緒に、同時代の芸術における社会的争点について話をした。過去の芸術的、社会的システムを受容しながらも正反対に反発しようとする、若い彼らの発言とテキストから強い同志意識を感じた。

今日は第二次世界大戦が公式的に終わった日で、僕がいるオランダのアムステルダム及びヨーロッパでは小さな記念行事が行なわれている。第二次世界大戦以後、世界は平和的に過ごしているが、まだ人類が解決しなければならない問題は散在しているようにみえる。この間、韓国ではセウォル号の沈没事故があり、幼い命が跡形もなく命を落とした。とても悲しいことである。

長い時間の流れの中で、この世に少しだけ留まって去っていくひとりの人間にすぎない私にとって、この事件は、この世を大きく変えたいということよりは、私が生きている間に、何を、どのように行いながら生きていくべきかについて、本質的な問いをもう一度呼び返させた。すなわち、死ぬ前に価値がある仕事をしたいということである。

もし、特定の人が真の価値について悩み、追求するのであれば、それは芸術的な価値であれ、社会的な価値であれ、政治的な価値であれ、その行為と努力について認められることは当然である。私がr:eadで話したかったこと(今も継続しているが)も結局は同じ脈絡から始まっていることをもう一度強調したい。

私は個人的に、自らの価値を「肯定的な変化」と定義しようとしている。この世は、絶えず変化していて、個人と集団のエネルギーも変化から発生するのであると考えている。停滞はすなわち、死を意味する。人間の生活は変化するエネルギーがあるからこそ存在する。これは、熱力学の第一法則とも相通ずる。人類と社会の集団もこのような変化の段階にて、エンドルフィンを発散してきた。何かが変わり、何かがおこり、希望を抱くことができる時、社会を構成する人々も幸せを感じるのではないか。人間の物質文明は、すでに変化の段階に来ている。大きな悩みによってその変化が肯定的な方向に流れることが出来るように、方向性を提示することもまた大事であると考える。

私がr:eadでやりたかったリサーチは、直接的であろうと、間接的であろうと、私と同じ考えを持って学術的、行動的、芸術的な行為をする人々に会って、これからの人生の方向性を定めていくことであった。(これは、作業の方法論を判断する行為とも言えるだろう。)今月からはそれと同じリサーチを韓国でも進めている。リサーチは自分のアーカイヴとして存在するだけではなく、積極的な活用と流通を通じて広く共有していく予定でいる。同時にリサーチをする行為が多層的な文化芸術の交流として機能する期待感も持っている。今は未完成であるリサーチを続けながら、同時にリサーチがどのように肯定的なプラットフォームとして変形できるのかについて考えてみる。

最後に、r:eadのディレクター、スタッフ、それから無限のインスピレーションを与えてくださった参加者に、もう一度感謝の気持ちを伝いたい。

2014年 5月 5日 火曜日
オランダアムステルダムから

r:eadからの所思 人生はいつもほかのところにある

大体自分がトラブルに遭う時は、困難を上手く乗り超えた人間からコツを学びたいと考えている。
そのような考え方は、改革の根拠として他山の石を望み、そこから理想的なユートピアを構築することにほかならない。今日でも変わらず、われわれには一つの非常に美しいユートピアがある。また、人間自身が装って自分の行きすぎた鮮やかな過去に夢中になった時、自分より悪い競争相手を選択的に空想し、単に鮮やかな光によって作られた陰しか見ず、現実を直視せずに自分自身を麻痺させる。これはアヘン戦争の直前、中国の清王朝がイギリスに対して認識上無知だったことと同様である。
この理想化した他者との制度は、地理的また空間的な遠さに限らず、時間的な遠さの場合もある。従って、歴史を遡って何かを求めることには批判的なパワーもある。チャールズ一世の時、イギリス人はこの暴君の統制をいち早く倒そうとしたが、彼が本当に首を切られた後、彼の統制下の時代の所々が逆に人々に懐かしく思われるようになった。フランス大革命で殺されたルイ16世と皇后も同様であり、何年か後、皇后が死刑執行人の足を踏んだ後言った「申し訳ございません、わざと踏んだわけではありません」という言葉が逆に人々の印象に残った。この言葉から暗示された修養は、大革命で起こったすべてのことと比例していた。
人間と他の動物の違うところは、常に不満を感じることである。従って、他の場所、あるいは他の時代が今より素晴らしいかもしれないと、人間は思う。また、そういうことは歴史の中で循環的に繰り返されているようだ。英語の革命という言葉には循環という意味もあることもうなずける。
過去、あるいは遠いところに他山の石を探す原因の一つは、当然ながら、物事を批判するにはある段差が必要で、この段差が大きければ大きいほど、現実を覆すパワーがあるからだ。従って、人々がある白黒の対立を構築し、完璧に近く他者と何もない現実に対抗している状況を作る時もある。人々は常に自分の国を激しく批判しながら、無知で他の国のことを賛美しすぎる傾向にある。例えば、現在東洋の国々は西洋そのものではなく、西洋に関するある理想に頼っている。時々、人々は他人への賛美が単なる手段の一つであるのを忘れ、知らず知らずのうちに真剣になり、手段を目的と勘違いし、冷静に現実と自分自身を正視するのも忘れるようになる。実は、われわれの真の意図は、西洋を賛美することではなく、現実を痛感することだ。ピエールブルデューが主張したように、都市も田舎も常に同じ道理である。「一つ肯定できることがあって、それは農民の立場から、或は農民のために農民のことを考える。農民の美徳と農村を賛美する言葉は、ただ都市の労働者の悪習と都市の罪悪を批判するための遠回しの言い方にすぎない」
これはあらゆる人生がここではないどこかにあるということである。そもそも人間は現実を離れる満足感を容易に得ることができるので、別のどこかが憧れのユートピアになるわけだ。しかしながら、このユートピアが事実でも真実でもなく、建設性も足りていないのを指摘すると、問題点も出てくる。そのような構築に反対する人々に対し批評者たちは、彼らが事実を是正しているのではなく、現実を変えようともせず、既存の秩序を弁解しているだけだと考えている。批評者にとって、元々の意図とは、ある現実を超えている秩序のパワーを借りて現実を反省、批判することだ。こういう状況の中で、随波逐流せず、世の大勢に左右されない独立性のある考え方が非常にあり難くなるわけである。
アメリカに行ったことのない人は、固定イメージを通じて国を想像するしかない。アメリカ人の仕事ぶりに対して、我々はすでに先入観を持っている。だから、アメリカ(アメリカ人やその過去)を考えるとき、イメージで「アメリカ事情」を構成する。同様の心理で私たちは、自分の認識の中に思うような’世界の模様’を作り出す。これは理性の限界であるが、古代と伝統について確かに自己認識に従うものだ。
古代のことを振り返って見ると、星空を眺めているような感じがする。数多くの星は実際全く違う距離と大きさだが、私たちの目の中では、まるで同じ光である。その「広い曲面」はまた「空が丸、土が方」のように当然なことで、人類の本能的な反応のようだ。だから星空の無限な距離感や層別感を感じがたい。
現代中国人の古代についての想像は明朝中期のイメージに基づいて形成した普遍的な認識であり、この間新たな物事がたくさん出てきた。つまり、この段階の発展は、中国人の古代認識を作り直し、伝統文化へも影響している。そして、現時代に近いイメージをツールとして昔の想像を作る。特に伝統断裂の時代では、私たちに必要な「シンボル」がなかなか見つからず、古代を「組み直し」て作ることになる。「文化工作」という仕事は実際これに属している。たいていの現代人は「伝統文化」への理解もその時期の歴史認識に従う。もっと前の時代だったら、人造な「新文化」とも言えるだろう。「古代」という言葉と同じ、普遍的な伝統も変化や深さを欠いた単一なものとされるが、実は複数である。
さらに、「古代」と「伝統」の内部にも相互矛盾と競争がある。この隠された観点は「伝統」が全体的に否定され、また「古代」の普遍的なロマンス認識の原因になる。しかし、注意すべき点、我々が想像したあの「古代」は、昔からずっと変わらない訳ではない。特に現在この「欠片時代」の中で。

地図の隠喩
私たちは長い間、地図という存在に慣れていて、地図はただ世界を抽象的に再現しているだけだということを忘れがちである。私たちは、周囲の世界について熟知しているかもしれない。しかし熟知とは、ただ表象とイメージだけをよく知っているだけだ。また認識とは、あらかじめ仮想した表象も含まれると考える。前者は表面的であるが、生き生きしている。一方、後者は深刻だが、概念的である。
ただリアルな景色を感知する人と比べ、地図を見ることができる人はよりレベルの高い思考能力を持っていると思う。こういう人は抽象的な点あるいは線や面で、前者が想像できない空間の関係を感知することができる。地図とは一連の記号の凝縮だからである。一つの点で一つの町や村を表し、一つの線で一つの道や川を表し、一つの青い色の面は海を表すことになる。地図を作る持続的な努力自体は一種の衝動だろう。この世界をそのまま表し、抽象的な記号を通して世界を認知・把握・コントロールする。ところが、アーティストに対する要求は兼ね備えることである。これはダ・ヴィンチのすごいところでもある。
「世界」は変わらないものではなく、違う時代の違う人にとって、その範囲と意味にはかなり差がある。大勢の人が指摘しているように、人々は自分の知っている、もしくは見たいと思っている世界を地図で表す。これは認知能力の制約であり、想像と理解の制約でもある。中世の人はアメリカ大陸を描くことができなかったし、エルサレムという聖域を世界の中心にした。それは彼らがそのように世界を構想し理解しているからだ。その時代において、地図は神様が集まる所だった。古代の地図を振り返ってみると、比例と尺が少し歪んでいて、物足りないと感じることがあるが、それがその時代の人が見ている空間なのかもしれない。地図の地理に関する想像は常にある観念と思想を潜んでいる。実はこの微妙な心理は現代においても同じではないかと思う。中国が出版している世界地図だと、中国は世界の中央にあるように見える。またヨーロッパを中心にする地図から見れば、中国大陸・台湾・朝鮮半島・日本列島は右側の隅におかれてしまって、形が歪んでいて、世界の端っこでぶるぶると震えながら、お互いに頼っているように見える。
地図を読めるのは古代ではまだ少数の人しか持っていなかった権利なのかもしれない。しかし印刷術が普及するにつれ、それはもう皆の経験となった。この新たな時代では、世界は上に伸びたり下に墜落したりできるような縦に多層な空間ではないと知られている。天国も地獄も、平たく、目の前に展開していく広い面になっている。
地図をつくる技術の発展は二つの流れがある。一つは「極めて大きな多様性からある種の理性的なかつ操作できるような構造」に測量し、そして、測量する側と測量される側の間に主観的な、あるいは、客観的な二極化した概念を形成する。世界は「故郷」ではなくなり「居場所」となる。世界も国家も独立した、実態化したイメージとなる。一方、もう一つの流れは、より分かりにくい。測量技術の発達により、地図があらわしている世界は本当の世界であることを人々に思わせることができた。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの夢は有名だ。地図を本当の世界と等身大の比例で作ること。この地図はリアルなものではなく、バーチャルなものである。ところがこの夢の実現の前に、世界に科学的で正確で完全で普遍的な表現ができたので、世界自体がある巨大な地図と想像されてきた。そして、今、世界は地図があらわしているように存在しているのだと人々に深く信じられている。
このようなことは、私たちのツール、例えばハサミかハンマーに対する認識と同じであると思う。切実な認識は、使うことを通して得た経験から生まれるもので、ツールそのものの形と関係ないはずだ。だから、カフカは「自分の無知さと、自分が永遠に手に入れられないものが何かということを認識させてくれるのは旅しかない。」と言えたのかもれない。
これで、リアルとバーチャルの間の境界線が曖昧になってしまい、その二つの関係が逆にもなってしまった。地図は本当の世界のように作るべきではなく、本当の世界は地図が示しているように存在すべきだということになってしまった。「紙に書いているヒントに頼りながら物を探す」ように、全てのリアルと再現の間に隙と差がないわけがない。リアルな人や景色は写真みたいに美しくないと、私たちはよくこうやって現実の世界に対して失望したりする。なので、地図を頼って世界を知ろうとする人ももちろんそう考えるだろう。地図は記号が濃縮してできた抽象的な平面図で、間違った距離感と空間意識を生み出す可能性が高いだろう。
このような状況で、「地政学」というのは「地図学」と呼ぶべきではないかとも思う。それにいわゆる「愛国主義」というのは、「国」を愛しているというより、「形」を愛しているのではないだろうか。イタリア人が愛しているのは一つのブーツで、中国人が愛しているのは一匹の鶏である。けれど、このはっきりした形に比べて、本当の現実は逆に抽象的なものになってしまった。
地図が映し出すのは事実というより人々の考えだ。しかし、この考えはよく事実だと認識され、人を間違った方向に導く傾向にある。例えば、地図上同じ丸い記号で表されている町は、おなじ状況にあるだろうと勘違いされたりすることがある。これは政治地図を作る時に一番顕著だ。現代の人が描いた歴史地図の上には、いつもはっきりとしている境界線がある。まるでそれは歴史上に本当に存在しているように見える。現代において、国境線と政治区域の表示方法について、我々はよくこんな勘違いをしている。国境線の両側に雪と墨のような違いがあり、それぞれの内部は均質なる実体が存在しており、そして、これらの実体は「国家」というものが形成されたずっと前に、存在しているものだ、と。しかし実際は、たとえばソマリアのような国家は、どこの視点から見ても、国家としてはもうすでに存在していないのにもかかわらず、全てのアフリカ大陸の政治地図の上に登場している。まるで、あの土地には何も起こらなかったように。一方、オランダは現代の人が復元した古代ローマの地図ではローマの境界線で二つに割れてしまっている。しかし今の地図から見ると、ローマという国自体は地図に存在せず、そこにあるのは、オランダだけだ。
人の経験した世界と世界の実体の間に本質の違いがある。それなのに本当の世界は我々が体験している世界と同じものであるはずだと思われている。いくら挫折してもその考えを諦めないのだ。
人は世界に対してこのような振る舞いなのだから、お互いに付き合う時にはなおさら、同じような振る舞いをしている。これは先天的な「文明の傲慢」だと思う。たまには運良く地理の距離を間違って計算し、コロンブスは新大陸を発見した。たまには笑い話になることもある。19世紀初期、誰かが北アメリカ大陸の地図の西南部に「アメリカ大砂漠」を描いてしまったせいで、当時の開拓者は自分たちがこれから肥沃な大平原を越えようとしていることを知らずに、砂漠に備えてラクダを用意してしまった。
近代になると、地図はただの再現ツールではなく、改造するためのツールになった。フランスは1789年以降、歴史地理のことを一切考えず国を一つ一つのブロックで分けて管理した。列強も同じくアフリカ大陸、アメリカ大陸を制覇する時に、地図の上にそのまま線を引いて境界線を作った。さらに、計画設計図を書くときにも、よく現地の事情を参考にしないで地図上に線を引くことがある。これは実は権力の要求でもある。現実は地図のように存在しており、我々は地図の上でその土地のことを変えたり、完成させたりすることができる。そのため、L.Aは都市計画が失敗した典型的な例になった。ルイス・マウントバッテンの方針は直接インド・パキスタン分離独立とそのあとの戦争に結びつき、間接的に、バングラデシュという新しい国家も作りだした。
こうして、「東アジア」という概念が生み出された。これは地図だけではなく、知らず知らずのうちに人々の「願望」として受け取られた。そして、「権力」を握っている者にとってはなおさら。最後に、補充したいのは、「東アジア」のもう一つの名前だ。それは「極東」という…。

2014年3月10日 東京

r:ead、ナショナリズム、国家、東アジア、スンシュンそしてまたr:ead

アジア情勢が緊迫する中で、まさに緊張の渦中にある国々の人が集まるこのレジデンスは刺激的であったし、またいろいろな事を考える良い機会となった。
領土問題、差別問題、外国人排斥運動、少数民族の弾圧、内戦、これらは世界中で起きているが、中でも領土問題については中国、韓国、日本はここ数年大きな問題を抱えて来た。たとえその下に大変な資源や油田があったとしても、その恩恵にはまず一般市民は預かる事は無い。それなのにたかが数百メートル四方の岩だらけの島をめぐって争うことは馬鹿げているように思える。r:eadのレジデンスの我々はアートコミュニティという、ナショナリズムよりもさらに親密な小さいコミュニティに属しているので、そういう険悪な雰囲気は全くなかった。楽しい時間を共有し、また個人的なところから大きな話まで論じ合えたと思う。
私は香港に住んでいるので、アジアの国の目から日本をみるとき、誇らしいこともあるが恥ずかしいこともたくさんある。我が国の首相の選挙票獲得のための靖国参拝は、内政と米国のみを気にしていればよかった戦後からの旧弊をひきずる日本政府の悪い一面を露呈しているのに、いっこうに止む気配がない。
私自身すでに自国に愛憎入り交じる感情を持つ事自体、愛国心があるということになるわけだ。日本は単一民族という神話があることや*1、国家や企業を家族の延長と見る“お家”的な考え方が数百年も続いているせいで特に強いのだろうか?だが領土問題で焼身自殺までしてしまう人が他の国にもいるし、オリンピックやワールドカップなど自国を応援する気持ちなどはどこの人にもありそうだ。そうすると程度の差はあるかもしれないが、愛国心やナショナリズムは世界の多くの人々が持っているものだろう。
最初の発表の内容に戻ってしまうが、国家は力のある人々が自分たちの利益を守るためにつくりだしたものである、という考え方がある。近代国家の始まりは平和的なものではなく、“戦争が国家を造り出し、国家がさらなる戦争を作り出した。War made the state, and the state made war.”*2 ものだ。

そしてその国家の構成員である国民は国を誇りに思い、愛するべきなのである。村落のような、顔の見える共同体の単位であれば、外界から自分たちを守るためにある程度の規律も必要なので、首長がある程度の権力をもつことが古くからあった。しかし、国の単位となると、もう会ったこともない人々、同じ国であっても民族や文化や宗教が違う人々への共感を創りだすのは難しい。国の単位のコミュニティというものは実は成立しにくいが、国家をどういう形態であれ保持するためには、人々の愛国心が必要である。それは、全体主義国家(Totalitalianism), 共産主義国家(Communism), 社会主義国家(Socialism), 民主主義国家(Democracy), 独裁主義国家(Dictatorship), 権威主義国家(Authoritalianism), いずれも同じである。しかしその形態に寄っては愛国心/ナショナリズムの統治のための必要度が異なる。独裁制、権威主義ではもっとも重要なもの。だから独裁者は情報統制やセンサーシップを行う。(中国、北朝鮮、シンガポールなど)*3
国家は法的、経済的、地勢的、政治的一つの単位だ。もし国民の同意がなければ、クーデターや革命、暗殺が起きる。そこで想像上のコミュニティとしての国家という名の共同体が必要となる。
そのギャップを埋めてゆくのがマスメディアだ。まず言語(文化)的な統一によって、新聞(当時)などで遠く離れた同国民のエピソードなどが語られることにより国という単位での一体感を生む。中国では、広東語を話していた地域の人々も今は北京語を話す。少数派の言語や宗教は抹殺されるが、言語や宗教が文化に果たす重要な役割を考えるとき、それらの統一がいかに乱暴なものであるか気づかされる。その段階をへて、新聞やテレビなどで、同じ国の遠い場所の人々が紹介され、コミュニティとしての幻想の国家が造り出されてゆく。そしてそれは個人のアイデンティティにも入り込んで行く。近代国家ができてから数世紀と経たないうちに、国家はもう私たちの個人の心の中に刷り込まれている。
アンダーソンによれば、国家の概念ははなはだ疑わしいもの*4で、その正統さはいまだ証明できていない。しかしながら、“ネイションネスとは、今日の我々の政治的な側面で最も普遍的に正統とされている価値である。
(Nation-ness is the most universally legitimate value in the political life of our time.”*5)
‘平等ですばらしい共同体、国家という美名のもとで、これまで数えきれない汚職、不平等、搾取が行われて来た。数世紀にわたって、国家のために数百万もの人々の命が絶たれ、もしくは自ら死を選ぶ人々が増え続けた。
そしてそれはこのような想像上のコミュニティのために行われてきたのだ。
Regardless of the actual inequality and exploitation that many prevail in each, the nation is always conceived as a deep, horizontal comradeship. Over the past centuries, for so many millions of people killed and willingly to die for such limited imaginings. (Anderson 1983)‘ *6
とはいえ、私たちの国、そして歴史はまぎれもなく存在していて、力を発揮している。さまざまなわだかまりや問題、そういうものをどうやって分裂ではなく調和、争いではなく話し合いで考えて行くのか。しかも話し合う人々は、もう当時の人々とは違うのだ。なんとか良い方向に向かって欲しいものだ。アジアの国々は、いろいろなものを共有できる兄弟のようなものなのだから。

と、ここまでの話はレジデンス中に発表したことであるが、さて、アートのことを全く書いていない。今回キュレーターとしての役目は果たせたのか?
展覧会はなかったけれど、私はスンシュンとペアでここに呼ばれた。スンシュンには前回書いた自由の女神の話など、いくつかの提案ごときものは行った。もちろんその通りの作品は作るわけもなかったけれど、神田で購入した古い戦時中の地図の上から墨で絵をかく、地名を残して星座に見立てる、といった美しく、政治的で素晴らしい作品を制作してくれた。
これらの作品は、r:eadの議論や発表の時間、そして夜の居酒屋での時間に、私もではあるが他のr:eadメンバーとスンシュンがたくさん話し合ったこと、その内容が彼の芸術家としての頭脳の中で醸成され、数ヶ月の時間をへて制作に至ったものではないかと考えている。超がつくほど忙しいスンシュンが、東京でじっくり人と話したり、制作したり集中できた結果でもあるだろう。そういう意味では、“制作はしない”レジデンスとはいえアーティストには十分なインプットの期間になったのではないだろうか?
わたしにしても同じで、育児や大学、仕事に追われる日常から離れて東アジア、なんていうとてつもなく大きなテーマを、実際のその国の人たちと話し合い、文献を読んで考える良い機会となった。こういうチャンスを作り出してくださったスンシュンと皆様、香港で待っていてくれた子ども達と家族に心から感謝したい。

  1. 小熊英二 単一民族神話の起源—日本人の自画像の系譜、新曜社、1995
  2. Charles Tilly, Bringing the State Back In, edited by Peter Evans, Dietrich Rueschemeyer, and Theda Skocpol, Cambridge: Cambridge University Press, 1985
  3. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983
  4. Hugh Seton-Watson ‘その現象は存在する。しかし国家についてのいかなる科学的定義も確認することはできないという結論に至った。Thus I am driven to the conclusion that no “Scientific definition” of the nation can be devised; yet the phenomenon exists’ Nation and States: An Enquiry Into the Origins of Nations and the Politics of Nationalism, Methuen, 1977
    Tom Narin ‘国家についての理論は、マルクスの偉大な歴史的過ちだ。The theory of nationalism represents Marxism’s great historical failure’ The Modern Janus: Nationalism in the Modern World, Random House, 1981
  5. Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983.
  6. ibid.

r:ead ボランティア大募集!

現在r:eadでは2月17日(月)より滞在を開始するアーティストのサポートやディスカッションの通訳など、さまざまなかたちでプログラムをサポートしてくださるボランティアを募集しています。

・東アジアのさまざまな事柄に興味がある
・日本・中国・韓国・台湾のアーティストやキュレーターと対話し、思考を深めたい
・今活躍する若手アーティストやキュレーターが何を考えているのか知りたい、制作過程を間近で見たい

など、r:eadの活動に共感していただける方なら年齢・国籍・経験は不問です。
中国語、韓国語が堪能な方は大歓迎!!
みなさまのご応募お待ちしております。

期間:2014年2月17日(月)-3月14日(金)
活動内容:アーティストの生活面のサポート、制作サポート、通訳、翻訳、その他期間中に行うイベントやアクティビティーのサポート
場所:にしすがも創造舎、ほか
※ 交通費支給 / 出勤日や時間は応相談

こちらからお気軽にご応募ください。
ボランティアに関する質問もこちらからお願いします。
[ボランティア応募フォーム]

r:ead × comos-tv × 森美術館 特別企画トークイベント開催決定!

「r:eadとは?—東アジアにおけるコミュニケーション・プラットフォームを目指して」

今回で2年目を迎えたr:ead(レジデンス・東アジア・ダイアローグ)。「東アジア地域(中国、韓国、台湾、日本)のアーティストや、キュレーター、ドラマトゥルク、批評家のためのコミュニケーション・プラットフォーム」というコンセプトを掲げ、対話とプロセスを重視したレジデンス・プログラムとして実施されています。
今回のトークイベントでは、「そもそもr:eadとは?」という問いに答えつつ、このプログラムの全体像やビジョンを明らかにします。昨年の参加アーティストである小泉明郎氏、現在参加中の下道基行氏に、それぞれr:eadで得た対話や体験を語って頂きつつ、アジアのアートシーンで多くの実績をもつ森美術館の片岡真実氏をゲストにお迎えし、東アジアにおける同時代芸術と社会の関係について議論を深めます。司会は本プログラムのディレクター、相馬千秋が務めます。

《comos-tvとの連携により、森美術館の一角より完全生中継が実現!ぜひご視聴下さい!》

日時:2014年2月27日(木)19:00~21:00
視聴URL:http://www.ustream.tv/channel/comos-tv
※今回はUstreamの放送のみです。

■出演
片岡真実(森美術館チーフキュレーター)
小泉明郎
下道基行 
相馬千秋(r:eadディレクター)

主催: NPO法人アートネットワーク・ジャパン
共催:comos-tv
特別協力:森美術館
協賛:アサヒビール株式会社
助成:台北駐日経済文化代表処 台北文化センター
平成25年度 文化芸術の海外発信拠点形成事業(アーティスト・イン・レジデンス事業)

ノスタルジアと考現:1930年代におけるアジアの断編について

時が過ぎた品から、初めての鉄骨建築から、初期の工場建築から、昔の写真から、なくなった品物から、大きなピアノや五年前の洋服から、時代遅れのホテルから、彼は革命のエネルギーを見ました。
ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン

ノスタルジアは過去を懐かしむようなものであれば、モデルノロジーは過去に対する理解を現在への転用になる。ということになると、現代の作品の中はノスタルジアとモデルノロジーの融合を好む傾向がある。奇妙なタイムマシンのように、このレポートの時間軸を1930年に設定する。どのように芸術家は1930年代を中心にした、ノスタルジアとモデルノロジーを行うかを考察し、それと同時に、アジアの現在の状況からスタートし、結論もアジアにとどめる。
一般的に、ノスタルジアという考えは古い物に着目することにすぎなく、物の質感をタイムマシンになったように時間から生まれた距離感とエネルギーを捉え直す。しかし、もし我々はアンティーク商人的な視野から離れてもう一度考査してみると、ノスタルジアの気持ちが最も起きやすいのは人の変化。すなわち、人間の態度や生活スタイルは取り返しのつかないことになる。要するに、最も時間の交差を感じるのは生命形態の変化だろう。ヴァージニア・ウルフの小説のあの言葉のように「1910年以降、人に劇変が起きた」 現代社会は昔の人や生活スタイルに少しずつ浸透し取り返しのつかない変化がおきた。
アジアの生命形態の変成を綴る小説といえば「名人」である。
この作品は作者である川端康成自身が一番気に入っており、非常に手が込んだ作品と言われている。1938年6月から12月に行われた「本因坊秀哉引退試合」がモデルになっており、新聞の報道や哲学的な分析、客観的な評論を総合し、抽象的なタイムマシンに仕上げた川端はモンタージュのようにこの秀哉名人と大竹七段の囲碁試合を表現した。秀哉名人は集中力がありながらゆったりした雰囲気を漂わせる。病気によって3ケ月の休暇を取ったが、ゆったとりした雰囲気が依然としている。秀哉にとって囲碁は芸術作品であり、気取らない態度で囲碁の試合に臨める。試合以外の時間は花見、ビリヤード、マージャンや友人と会うことなどで気分転換をし、ストレスを解消する。その反対、大竹七段は殺意のような雰囲気の持ち主であり、戦場で戦っている戦士のように鋭い感覚や素早い動きから緊張感を感じる。休憩の時間でも囲碁を考え続けてひと時も気持ちを緩めない。結果、30歳の大竹七段は5目で白子を持った名人秀哉に勝ち、1940年1月の試合終了後間もなく、秀哉は病気でなくなった。
川端にとって65歳で他界した秀哉は一つの時代の終了を意味しているだけではなく、アジアにおける美意識への最後のカウンターパンチとなった。川端にとってのノスタルジアは、消えてゆく品性に対する考察ではなく、人格や生命への指標となる。囲碁の試合の途中、突然抜けたり手元の扇子を弄ったり、頭を上げて庭園の風景を眺めたり、そんな秀哉の精神に対して残念な気持ちを持ち、芸術の道を歩んできた秀哉に尊敬の気持ちを持った。大竹に関しては、アジアの現代化におけるウェスタンの訓練に過ぎない。殺意を感じる化け物とも言え、手段を選ばず規定を守るマシンのような物だとも言える。よって川端の小説の芸術構造は彼自身の美学的感性によるものだ。彼の小説は現代アジアのタイムマシンになり、ノスタルジアではなく古き良き美学が現代に受け継がれている。すなわち、ノスタルジアはモデルノロジーになる。
2007年の年末に台北現代美術館にて行った展覧会「名人-川端康成に倣う」において、謝素梅は川端の美学哲学を引用し、現代芸術と「芸道」精神の関連性を示した。碁盤の線は消え、碁石は無限の空間の中で対決した。ヨーロッパのルクセンブルクに在住する華人芸術家にとって、彼女のモデルノロジーの中にアジアの芸術精神の価値が欠けていると評された。これはもう一度訴えるべき課題であり、ノスタルジアというものからかけ離れ、モデルノロジーを通じで芸術の実践や創造をしてゆく。
僕はキュレーターとして東京でレジデンス・東アジア・ダイアローグ(r:ead)を参加した。東京芸術大学の桂英史教授はモデルノロジーの研究における現代的なヒントを三つ提案した:公園、彫刻、闇市。
僕は靖国神社の大村益次郎の彫刻を見に行った。大村は日本の陸軍を確立した人物である。遊就館でゼロ戦の戦闘機をみて、押井守の映画「立喰師列伝」で見た、戦後食料不足による新橋、渋谷、新宿あたりにある闇市の実態や、当時華僑人や朝鮮人と日本人の間におきた土地管理の奪い合いなどを理解できるようになり、同時に新橋の現状も考察した。
その中で一番興味を引いたのは上野公園だ。台湾総統府の建築士「森山松之助」は1907年に上野公園で行われた「内国勧業博覧会」の「台湾パビリオン」を担当し、絶大なる評価を得た。特に「台湾喫茶店」の設立は革新的であった。ちょうどその当時、台湾総統府は新庁舎の設計コンペが行われていた、森山は積極的にコンペを参加し、コンペを勝ち抜いた森山は、台湾で新庁舎の工事主任として赴任した。現在は残念ながら当時の「台湾パビリオン」の姿は残されていなかった。とはいえ1929年朝鮮博覧会の台湾パビリオンや、1935年に台北で行われた「始政40周年記念台湾博覧会」や1936年岐阜で行われた「躍進大日本博覧会」及び「福岡市博多市博覧会」など、残されなかった「台湾パビリオン」は台湾物産や殖民地文化の象徴として輝いていたに違いない。
過去の風景はもう残っていないと戸惑う気持ちもあったが、高山明氏がプロデュースした「東京ヘテトピア」は私に少し希望を与えてくれた。ドイツで演劇を勉強した高山明は、現在の東京におけるアジア各国の政治難民や移民などと関係する13個の地域について興味をもち、このプロジェクトを始めた。このプロジェクトのコンセプトは「東京でアジアを探す」。いわゆる歩く「旅の演劇」だ。参加者はガイドブックと携帯ラジオを手に様々な空間を訪れる。目的の場所でラジオから流れる、かつてその場所に生きた人や縁のある都市や国の物語。そして観客は未知のアジア、そしてヘテロピアとして東京に出会っていく。
まずは、東京芸術劇場の地下にある築地小劇場。革新的なアジア演劇の公演が多数行われていた劇場だ。例えば、旧ロシアの演出家トレチャコフ (Tretiakov,1892- 1939)の「叫ぼう、中国」は1929年からこの劇場で公演が行われた。また、朝鮮独立運動の代表劇場作品「金玉均」は1928年からこの劇場で公演が行われた。その他、周恩来が1917年に日本に留学した際に、神田神保町の「漢陽楼」に、故郷の味である肉団子を食べる目的でよく訪れた。54歳の明治大学教授、菅啓次郎は1976年の「第一回天安門事件」を中心とした作品を制作し、ラジオ番組で流した。
13個の場所の作品の中、一番興味を持ったのは池袋要町付近の王家之墓。台湾移民の温又柔が作った作品の中心人物は台湾の言語学者独立運動の推進者の王育徳(1924-1985)。1957年に出版された王育徳の著書である世界で始めての「台湾語常用単語」を素材とした、王育徳の物語を綴る。王育徳は日本に留学し、台湾語には発音表記がないことに問題意識を持ち、第二次世界大戦の際中に在学していた東京大学中国哲学博士課程の勉強を中断し、台湾に戻る。その後、台南第一高校で教師となる。台湾語で現代演劇を創作した。しかしその後に起こる228事件の渦中、香港経由で日本に亡命した。その後は博士号の勉強を引き続き行い、1969年に東京大学の歴史における初めての台湾人文学博士となった。1960年に黃昭堂、廖建龍などの六人と「台湾青年社」を設立。その同時に、「台湾青年」の日本語版が出版された。王育徳は生涯台湾語や台湾独立運動に没頭し1985年に東京で逝去した。
僕は芸術家である温又柔の作品の具体的な内容はわからないが、台湾人として、池袋という奇妙な場所に「so close ,so far」という感情を持つ。僕のホテルは西池袋にある。築地小劇場の跡地に1キロほどの距離に過ぎない、王家之墓にも近距離である。しかし、現在生きている環境と、僕個人の生まれ育った環境とこのアジア史において、重要なポジションを持つ場所はとても遠くて見えない場所とも言える。高山明というアーティストは、ノスタルジアをモデルノロジーに変化させた。パフレットとラジオを片手に、ラジオ越しに物語を聞きながら、知られていない都市の物語に入り込む。心を沈ませ、アジアの革命歴史の感情を堪能できるでしょう。
「東京ヘテトピア」というアートプロジェクトは1930年代の世界劇場:ヨーロッパを思い出させる。2012年に行われたカッセル・ドクメンタにてカナダ出身の芸術家Janet Cardiff&Georges Bures Millerは古い駅Kassel Alter Bahnhofにて作られた作品Alter BahnhofVedio Walkは高山明の「東京ヘテトピア」を彷彿とさせる。
 Cardiff作品の中に現れるノスタルジア(nostalgia)も都会考現学的な意識がある。彼女はスマートフォンに保存している映像を媒介として、歴史、小説、音楽、そして踊りパフォーマンスなどの異質的な手法を通じて、現地に設置しているドキュメント・インスタレーションの導線によって、鑑賞者をKassel Alter Bahnhof駅とそのホームの間に彷徨わせた。このような現実と仮想という二重性の中でヘテロオピア的な感覚が、どんどん形になっている。その中、30年代にあった強制収容所へユダヤ人を送るという個と集団の歴史集合の響きは、冷たい時空を超えて、この駅の7番ホームではっきり聞こえるように奥底から熱狂的な気持ちを呼び起こさせる。
 このCardiffの作品に対して、高山明も結構詳しいようだ。彼は会場でスマートフォン映像を鑑賞している時、一人の身体障害者がよろよろと歩きながら彼とすれ違っていくことを体験したそうだ。その瞬間、ノスタルジアの情緒は現実状況の介入によって切断され、二つの世界が共鳴を始め、電流が流れるように彼の全身をビリビリさせたと言った。しかし、こんなに強烈な感覚があっても、この作品は高山氏に対して、展覧企画としての出発点は全然違う方向だと言った。何故なら、高山作品の発想は昔劇場にある観客との連動性、または「theatre」という古い言葉の意味から始まっている。つまり彼が目指しているのは現代劇場のような単純の「演出」ではなく、観客が「演出」の一部分になることを望んでいる。その結果、高山が注視しているのは、劇場の焦点を観客に戻し、そして演出の後に観客たちの対話が活性化することこそ、彼の「観客論」の考察である。それゆえ、アーティストがノスタルジアと考現学を作品の中で交差させる意義は、単に遠くから見られるプロジェクトとして身体の舞台を作ることではなく、その現場でドラマチックな演劇的の効果を作りながら、自ら参加するという「政治性」を通じて、観客をもう一度社会と繋げることを意図とした。
 また、Kader Attiaという作家の「The repair from Occident to Extra-Occidental Cultures」というマイクロ博物館の作品がある。その作品は戦争、医学、そして殖民地歴史などの媒介によって、ノスタルジアを現代創造の知識、空間、そしてプロジェクト配置のレベルまでに転換できた。Geoffrey Farmerが35年から85年までの50年間の雑誌『ライフ』を編集してインスタンレーションした作品「Leaves of Grass」は、やはり伝統的な道を沿い、伝統的な博物館にあるアイロニー的なビジュアル展示の手法となっていた。一方で高山氏の視点から出発すれば、現代の「アジア」における経験によって、考現学が表現てきる「アジア性」、歴史と現在のクロスによって生み出した多様性と豊かなレイヤーは、恐らく現在ヨーロッパにおける直線的な歴史発展を凌駕するだろう。
 言うまでもなく、ノスタルジアと考現学を触れば、歴史的な傷と国際問題に直面しなければならない。そのゆえアジアにおける多言語と多民族によって生み出した歴史の地層は、何より我らが注目せざるを得ないであろう。
東京に滞在していた際に、六本木森美術館の10周年展を見学した。キュレーターの片岡真実が企画した「out fo doubt」。このテーマは謝徳慶の著書『out of time』の視点を真似して考えると、「懐疑無用」と見えるが実際に「懐疑から生まれる」とも言い換えれる。写真家の中平卓馬の作品もあり、中村宏の沖縄戦争に関する絵画や台湾やイランの戦争基地や、台湾とアジア各地の鳥居を訪ねたポスト戦争に対し、モデルオロジーを実践した下道基行の作品もあった。r:eadの日本チームのプレゼンテーションで下道基行の作品紹介を聞いた。彼は基地と鳥居の現状を写真として記録し、祖父をテーマとした「日曜日の描き」のような創作活動も行っていた。これらはアートの手を借りて現代遺跡のモデルオロジーを実践した時空と交差するアッサンブラ-ジュと言える。
 おもしろい事に、若手芸術家である下道基行の作品はこの時森美術館で展示されているのだけではなく台中の国立美術館で「アジア二年展」でも展示されていた。噂によると宜蘭員山のゼロ式飛行機基地は台湾芸術家の高俊宏に薦められてたそうです。ちなみに、一連のノスタルジアとモデルオロジーの討論を終えて、僕は高俊宏の作品のパウワーとルーツは前述の作品と比べて、劣ることなく生きた雰囲気は、十分に注目度を浴びることができると考えた。
 高俊宏は2010年に発表したタンム生映像シリーズの中に台湾車のメンテンナンス工場の廃墟の炭壁絵は、映画監督である蔡明亮の映画「郊遊」のロケ地となり、台湾の芸術業界では有名な話だった。彼の作品は目的性がなく、2013年誠品書店のギャラリーにて「私達は働き過ぎではないか」という個展で発表した、台湾10箇所の現代廃墟の炭壁絵を展示しとても高い評価を得た。高俊宏の「廃墟映像炭絵計画」は1930年の小節が存在している。それはかつて員山戦機基地のゼロ式飛行機の神風特攻隊を経験した台湾籍のパイロット張正光だ。そのほか、廃墟の歴史を前に戻すと、「海山炭坑廃墟」「台湾車両修理所廃墟」など壁絵の団体や自由主義のコラムや受難親族のインタビューなど、様々な活動に発展した。様々な活動を通じてノスタルジアは哀愁だけに留まらず、ゆっくりと台湾地景の構造への考察や再構築になるのではないか。それと同時に、国立美術館で展示した際に、高俊宏本人が炭坑労働者の服を着ることで「体で伝える」という行為を実践した。芸術家は現実と歴史の間にある傷を補い、身体レベルの会話が生まれる。おそらく、ノスタルジアの本質は物が埋めるのではなく、モデルオロジーが必要となる。
 「廃墟壁絵計画」は現在は引き続き作られている。帝国主義の歴史写真、殖民戦争の傷、現代工業の遺跡、ギャラリーの空間、美術館の空間、アジアの繋がり、様々な自己分析、大型の帝国主義と異常なアジア政治との交差における、奇妙なヘトロトピアとなり、芸術的な行動となっていく。1930年代の激動のアジア史の中で人々は「観客参加型」の方法を通じて取り戻した。ノスタルジアとモデルオロジーの政治学は資本主義や新自由主義の公共空間の私有化を皮肉的に批判する。その結果、芸術家がプランを立て、国民が参加するというのことに対してポテンシャルを感じる。私たちはどうすれば現代芸術主義のステレオタイプから飛び出し、アジア現代芸術の「ノスタルジアとモデルオロジー」を成立させることができるのかを考えた時、これはまだ長い道を歩くことになると考えている。人々が廃墟劇所に訪れ、自ら参加、体験し議論すること。無政府、脱植民、国境を越え、資本主義に抵抗する廃墟を再生する道となる。

脱芸術について

▲Kim Haeju:今回のr:eadでファンさんに久しぶりに会い、お互いが制作している環境と関心について、深く考えることが出来ました。それぞれ、現代美術と批評的なデザインが直面した限界を探り、そこで諦めるのではなく新しい方法をどのように模索できるか考えました。しかしこの限界というものは、芸術の場においてのみ発生する問題ではないようです。
前半のr:eadが終わって帰ってきた日、ソウルでは民営化に反対してストライキを行った鉄道労働組合の幹部を逮捕するために、警察が民主労総事務所を襲撃する事件があったし、12月28日にはソウルの中心で大規模なデモがありました。新政権になり、このような最大規模のデモが行われて、一度でもしっかりと士気が高まる事を期待していたのですが、組織的かつ戦略的な警察の動きに比べて市民デモ隊は結束した力を見せられなかったので残念でした。結局、散々に終わったデモの数日後には鉄道労働組合のストライキは中止され、民営化反対の声もいっそう減少した感じでした。
このような残念な経験が、継続的な運動と抗議を行うための組織力を弱め、徐々に市民の政治的な力への信頼を崩すのではないかと考えています。芸術を実践することで感じる限界と、現実問題を抗議することで感じる限界には、似たような感情が伴うようです。
ここで「脱芸術」は、芸術の中の限界を克服するだけでなく、芸術の外の限界を克服するという二重のミッションを持っているのではないかと思います。r:eadのあと、ソウルの風景はファンさんにどのように映ったのか、そして「脱芸術」のアイディアがその期間どのように展開されたのか、気になります。

▲Kim Hwang:この文章を始めるためにあえて言うならば、私にとってr:eadは新しい何かを見つける場所ではなく、今悩んでいること、頭の周りの空気中に漂うものを確実に言語化/文字化するために戦略的に利用しようという必ずしも純粋でない目的を持って挑んだ場所です。
私が批評的なデザインを使い、制作する上でもっとも悩んでいたこと、質問を受けたら答えられない部分(この質問が一番多く出てきたにも関わらず)がまさにデザインの進歩だ、と叫ぶが、最終的には芸術の方法論を借用する。ことでした。この質問への答えとして、私は通常1:ドナルド·ノーマンのデザインの機能性について言及してきました。(デザインは問題を解決して、芸術は問題を発見する行為だ。)そして2:所有のコミュニケーション:芸術作品は、大衆が所有することはできず、視覚的に見ることによって疎通が成立する。(イメージ)しかし、デザインは公共の所有が可能なので、所有権に起因する所有者自らによっての破壊などが可能である。(オブジェ)もちろん、ある程度説得できる論理ではあるが、自らとても不足を感じたりもしました。
そのうち、結局私が自ら選んだ行為が脱芸術の行為であることに気づいたのです。実は、私のPIZZA作業もそのような傾向がありますが、その時は徹底的に霊感によるものであって、自ら論理化することはできませんでした。その上に、r:eadに参加する以前、スンヒョさん(フェスティバル・ボン芸術監督)と対談したことをみると…

(e-mailから対談抜粋)——————————————

ファン:私はスンヒョさんにこんな話をしました。 「この展覧会を通じて芸術を解体させたい」実はこの展覧会を通じた自分の欲望はそれでしたね。私やスンヒョさんは芸術界に身をおいていますが、芸術よりも社会そのものに興味があります。私とスンヒョさんは、お互いにそのビジョンを共有していますが、この展覧会は一種の実験でした。芸術の社会化。芸術の大衆化とは違います。社会的な芸術ではなく、つまり「政治/社会に興味を持ってそのような制作をする作家的な性向が強いデザイナー」ではなく「芸術に興味を持ちながら、ある種の活動をする社会/政治思想家や扇動家」のことです。

スンヒョ:そうです。実際に私が多元芸術の話を芸術界で出すと、過去のアジェンダをなぜ今になって持ち出すのかと言う方も多いです。ですが自分が関心を持っているのは、ファンさんが正確に指摘したように、社会的な芸術ではなく芸術の外側、あるいはその境界にいる人々の社会的な活動です。そのうちの誰かは、より直接的かつ煽動的な方法で仕事をしていて、だれもが芸術の形式を借用しつつ、より美学的な観点からアプローチしているはずなのに、私は後者を新しい多元芸術と定義したいのです。
あえてなぜ定義する必要があるかと言えば、私は資金や政策の中での多元芸術は近いうちに消えてしまっても、それに関係なく多元的の作品はすでに生成され、今後も作られるものだと思うからです。定義をしないと議論自体を始めることができませんから。
批評的なデザインの展示を私がフェスティバル・ボムでしようとする理由のひとつは、多元芸術から、借用可能な一つの重要なメディアとしてのデザインを認識しようとする試みです。またデザイナーの方法論と形式が、ポストドラマ演劇やノンダンスがそうであったように、多元芸術に新しい衝撃を与えることができると思います。
言葉の選択を少し慎重にしたいですが、私もあえて言えば「芸術に興味を持って、そのような一種の活動をする社会/政治・思想家・扇動家」の中で、職業がデザイナーである人々を紹介することだとも言えてますね。

——————————————

▲Kim Hwang:この対話の前にも、私はうっすらと脱芸術について認知していたと言えます。実際に脱芸術を標榜しておらず、そのつもりも全くありませんが、私の作品の方向性はそうなのでは、と今は考えています。
この前、ナ・ヨヌさんと会いフェスティバルについて話したことがありました。かつてフェスティバルとは、芸術の進歩化を進めてきたが、さすがに今はどうなのか。溢れ出るフェスティバルが果たして言説の形成になっているのか。これからは新しい代替的なフェスティバルが出現しなければならない時なのではないのか。もちろん深く共感する点もあるが、帰ってきてじっくり考えてみると、このような芸術的な進歩のための進歩的思考は、残念ながら私が思うに、現在私たちの社会が直面している問題点に比べればなんというか、とてもささやかな問題に感じれます。
大統領の退陣を叫びながら焼身自殺する人を見ながら私の芸術的な行動がつまらなく見えてきたというか。(これは病気だといえば病気ですし、傲慢だといえば傲慢ですが。)結局私は、社会的な活動や行為に繋がる芸術をしなければならないと考えます。実際この部分は、自然に脱芸術とは違う他の軸となるようです。
もちろん、まだどのような方法でどのような話をするかはわからいけれど、r:eadのリサーチも、あるストラクチャーを持つ「脱芸術」的なリサーチになるべきだと思いますね。

■Kim Haeju:「脱芸術」の考えとファンさんが現在展覧会を企画しているということが、とても興味深く感じられました。キュレーターは作家と観客を媒介する役割を果たしながら、制度との妥協点を探していく側面があるんですよ。私もインディペンデントキュレーターだけども、ただ組織に属していないだけで、「美術」という一つの大きな制度から抜け出せているとは思いません。抵抗と独立性を主張するいくつかの企画も、制度の認識をせずに始めることができないと感じています。その点でファンさんの「脱芸術」とキュレーティングがどのように出会うのか興味を持って見ています。「この展覧会を通して芸術を解体したい」という言及は、キュレーションを通じた脱芸術の実践的なスタートに見えますね。
このような議論と同じく、最近読んだ本が同じような争点で語られていたので共有したいです。『キュレーティングとは何であるか』(ポール・オニール編、現実文化社、2013)というアンソロジーに掲載されたマーク・ハッチンソンとデイブ・ビッチの会話です。(http://www.markhutchinson.org/writing/writing%20inconsequential%20bayonets.html)
キュレーティングの独立性とコラボレーションの可能性についての会話の中で彼らは「反芸術」と「反キュレーション」の話をしています。デイブ・ビッチの説明の一部を引用すると次のとおりです。

「反芸術の破壊的な潜在性は芸術を犠牲させ、芸術以外のなにか―排除されたもの、日常的なことなどのような―を成し遂げようとしているのではない。芸術は反芸術の破壊的な潜在性により芸術に内在されているが、芸術から支持されてもらうことを拒否することに対抗する。まさにこのような意味から正確に反芸術は芸術の弁証的な転換、すなわち不在の不在である。反芸術は芸術に変化される価値がある何かがあることを意味する。」

「キュレーターが「別の何かを」を出来ないように防ぐこととは何だろうか?ここでは専門性、競争力、技術などのモデルとしての反芸術が好まれる。したがって「別の何かをする」ことは共謀に抵抗する様々な活動の立場を示す。あなたが言ったようにインディペンデントが、いつも何らかのインディペンデントを意味するならば、共謀はいつも何か ―マーケット、美術制度、歴史、芸術の社会的価値の概念、美術愛好家の人類学―と共謀することを意味する。したがって「別の何かをする」ことは、市場、美術制度、美術史などの特定の制約に抵抗することを意味する。我々は反芸術から学ぶことができるように共謀に対する抵抗は、個々の実践を社会から孤立させることから始まったとされるのではなく、芸術の正式的な談論が、抑圧したり排除した社会的文脈へと芸術を妨害して汚染させることにあるのだ。」

もちろんファンさんが言う「脱芸術」は「芸術に内在しているもののうち、芸術が支持を拒否すること」を表わす「反芸術」の意味よりかは、より積極的なものに感じられます。そして最終的には芸術の外側から、方法と実践を模索するものと理解できます。
今回の展覧会のような場合は、扱う対象がデザインであり、表出された方法が展覧会という点ではまだ、芸術の内部で進めているとみられ(多分これは脱芸術へと向かう段階の試みでもあるかもしれないが)上記で説明した反芸術的な実践に近いのではと考えます。この対話で、デイヴ・ビッチは反キュレーションを実践した事例として、アーティストがキュレーティングしたいくつかの展示を例に挙げています。美術館ディスプレイの専門的規定に従う展示というよりは、葛藤や不確実性に満ちているプロジェクトを企画していることです。キュレーターは作品と観客との間の媒介者の役割や、通訳としての役割ではなく、芸術の社会的関係性を暴露する協力者と例えることができるでしょう。そういった意味では、今ファンさんが企画している「批評的なデザイン」の展覧会が反芸術(あるいは脱芸術)を扱うだけでなく、反キュレーションあるいは脱キュレーションの実験場となりうるでしょうか?もしそうなら具体的にはどのように実行されるのでしょうか?

▲Kim Hwang:実際、私の脱芸術や脱キュレーティングは、これまで芸術が持つストラクチャーや制度に反対しようとすることが目的ではありません。ヘジュさんの言葉通り攻撃的な態度ではありません。その制度が間違っていたからといってひっくり返そうとすることも正解ではないと思います。過度な中立論かもしれなませんが、実際に私という人間そのものが、必ずこれは正しい・間違っていると断定をしないタイプの人なんです。やや無為自然な態度をとっていますね。

今、私が興味がわくこと・したいことは、自らが幸せになり、そして他人の生活の負の重さを少し和らげてくれること(楽しさを与えること)だと思います。他人の範囲が広くなればなるほどもっと良いんです。どのような方法があるかと考えてみたときに「社会システムがポジティブに変化するときに」人々は喜びを得るようです。絶対に変えることが出来ない不条理な社会がポジティブに変化するような希望があるときに、多くの人々が幸せを感じるのではないでしょうか。だから統一を考えることでもあり、この時代をより明確に眺めなければならない時代性を持つべきだと考えています。あわせて次の社会を想像し、悩み、提案します。

私はアーティストなのでこのような行為を芸術という形態に表現しようとすることですが、そうしながらも今まで見てきた従来の芸術の形態に表現しようとはしていません。すなわち、悩みを作業として表現しますが、実は作業が芸術の範囲の中に入ることも入れないことも可能なことをしようとしています。ヘジュさんが紹介してくださった文章、マーク・ハッチンソンの言葉を借りれば…(文書が英語だったので全部読むのに大変でしたが(笑))

「私はこれを加えたい:異なったことをするという意味はキュレーターとしてキュレーター以外の他の何かになることを意味する。(I want to add this: doing something else means being something other than a curator as a curator.)

「だからもしキュレーターが他のことをやるのであれば―同時に他のことになれば―私はこの「存在」が現存するシステムを違う方法で使うことに同意する。しかし私はそれ以上にこの「存在」が従来とは異なったシステムすらも異なった方法で使っていると提案したい。(Hence, when and if the curator does something else – and becomes something else – I agree that this ‘being’ occupies existing structures differently but I want to go further and suggest that this ‘being’ also occupies different structures differently.)”

ここで重要な点は「なぜ従来とは異なることをしたいのか」ですが。これは私が思うのに業(Karma)です。結局「変化」と「創造」に価値を置くためでしょう。基礎的な作品のインスピレーションとなる社会システムも肯定的な変化に繋がり、その方法論として借用する芸術も肯定的な変化につながった。こうなっては、他の分野でいくつかの方式を借用し始めます。結論的に言えばそのシステムが嫌なので「反芸術」をするより、自然に「脱芸術」を行うのだと思います。そうして「業」によって芸術の範疇に残るようになるのです。多分ヘジュさんは、私の態度はより積極的ではないのかと話してくれましたが、私はむしろ消極的で観照的な態度ではないかと思いました。

政治を見ても、実は、私は進歩も少し異なった方法が必要だと思います。保守に反対する進歩ではなく、保守を抱えて一緒に歩むことができる進歩が必要な時だと思います。そうでないと勝つことができないと思います。私の作品の「消費配給取引制(http://www.hwangkim.com/crts.html)」を見ると、私の悩みがよく出ていますが、結局、資本主義が成功するには、新自由主義でもなく、強制的な福祉の増加もなく、自発的な寄付の増加が行われるということだと思います。これは人間の基本的な欲求である所有欲に反するものであり、とんでもないことですよね。私の作品のイラストレーションを見ると、金持ちがホームレスにお金を与えようと列を成しています。こんな感じで保守を安定させるのです。我々が執権してもお前らのメシは安全だから心配するな。お前らを守ってあげながら進歩するよ…と。

ここでもう一側面を加えると、私は人生をそのように生きてきた人々から感動を受けるようです。作業よりはむしろ作家の人生を見たがるんです。そのような意味で単純に生きてきたのに、その人生が芸術である人々を探してみたかったようです。私もそのように生きて生きたいですから。私はその人々より業が芸術なので、もっと積極的に芸術で表現すると思いますが。たとえば私がアーティストではなかったら単に北朝鮮へピッザーDVDを送っただけで止まったと思いますが、私はそれを展示や公演で作り上げたことのように。

結論を出すと:

キム・ファンの作品=時代性/進歩した社会システム(ファンの悩み) +融合型芸術/システムが進歩した芸術(ファンの業) >自然に脱芸術(ファンの作品/人生) >芸術の形式でプレゼンテーション(ファンの作品)

キム・ファンの批評的デザインの展覧会キュレーティング=時代性/進歩した社会システム(ファンの悩み) +システムが進歩した芸術(ファンの業):例えば今、一緒に制作しているオンカ/ノーム光州518に対する視覚芸術も、公演も、観客参加型でも、デザインでもない何か >展覧会の形でプレゼンテーション(ファンのキュレーティング) :ところが、実際これもあえて展覧会といえば展覧会だが、これを公演とすべきか何とすべきかは…

r:eadは以前に話した通り、自然に脱芸術した人々をリサーチし、これを一つの方法論として確立して、他のアーティストに一度、適用してみればどうだろうかというアイディアがあります。まだ悩み中です。アーティストが私のリサーチを台本に、演技をするようにするのです。

消えると残る/物と物語

「過去はどのように編集され継承されるか。そこに関わるモノの存在と、形状と意味の変容。さらに閉じ込められた過去を開封する方法と体験」
そのようなことが、僕のこの10年のテーマだったと最近考えている。制作する手法は写真とインタビューなど。目の前に既にある関係性に興味を持っているので、なるべく自ら作るのではなく観察と収集と編集に徹する手法をとってきた。歴史という大きな物語と、その周辺で捨てられて行く小さな物語を同時に扱っていることも多い。ただ、今回のreadでは、これまでのドキュメンタリー的な手法に「自ら何かを加える」ことを想定して、リサーチを始めたいと考えている。

中国韓国台湾の作家とキュレーターたち、その他にも留学生や通訳などとの交流の1週間は、非常に有意義な時間だった。今回コンビを組んだキュレーターの服部浩之さんは、タイのバンコクに滞在していてこの一週間、直接会う事はなかったが、アシスタントとして協力いただいた熊倉晴子さんと三人で毎日往復書簡的にメールで会話を行ないながら、考えやアイデアを混ぜ合った。

僕自身、一つの作品制作に数年の時間がかかる事も多く、今回の1週間を終えた現時点では、制作の出発地点も定まっておらず、いろいろな刺激や要素を受け取ったに過ぎない。そのことも踏まえ、たくさんの“きっかけ“から、一つ例を挙げてみようと思う。

今回参加作家の孫遜の「芸術作品は未来のためにある」という言葉が心に残った。(この言葉は通訳さんが選んだ言葉なので本人の意図とは違うかもしれないが)
彼の言う”芸術作品”を(ある思考や行為を結晶化させた物体として)”モニュメント”という言葉に置き換え「モニュメントは未来のためにある」として思考を開始する。
モニュメントの多くが、誰かのエゴで過去を自分勝手に編集し残すために強固に作られたもの(その多くが残念なもの)であることを理解した上で、未来に開封され誤読可能なソフトなモニュメントのようなものの可能性を作品?として考えてみたい。
その事を話すと孫遜は、「あるモニュメントは、意味を変えても、例えば待ち合わせ場所として残ったりするんじゃないか?」と話す。それに対して「渋谷のハチ公像は、日本で一番有名な待ち合わせ場所かも。有名だから待ち合わせ場所になるんだね。ただ、携帯があるから待ち合わせ場所はあまり必要じゃない」と熊倉さんが反応する。
ハチ公は、かつて渋谷駅前で飼い主を毎日待ち続けた。飼い主の死後も駅前で待ち続け、そのことが美談として有名になって銅像になった。
ハチ公像は今でも「じゃ、ハチ公前で待ち合わせね」という機能を持ち続けている。ある個人的な待ち合わせ場所がモニュメント化し、公的な”待ち合わせ場所”として存在し続ける興味深い例かもしれない。さらに調べてみると、1934年建造されたハチ公の像は、第二次大戦中の供出(金属不足で兵器などにする為にあらゆるものが没収され形を変えた)により破壊されたが、戦後再建し今の姿にあることが分かる。オリジナルのハチ公は兵器か何かに形を変えてしまったこと、ただコピーされ復元されたモノが時代を超えても機能が継続していること。

12月の滞在1週間を終えた次の日、服部さんがタイから日本に帰国した際、一緒に靖国神社で“待ち合わせ”をした。少しこじつけかもしれないが、靖国も”待ち合わせ”の施設としての機能をかつて持っていたのではないか…、そこでそんな話しをした。未来に会う為、死者の待ち合わせ場所という装置という側面。

……と、まだ、点と点の状態が繋がってはいない現状の一部を書いてみた。
服部さんと熊倉さんとの往復書簡は、お互いの意見交換と思考の飛躍として有効で、思考のプロセスのアーカイブとしても継続的に続ける予定。2月〜3月滞在中には、東北で生まれ始めているモニュメントや他にも関東も含めリサーチを行ないたいと考えている。もし機会があれば、中国韓国台湾の参加者のリサーチについて行ったり、一緒に旅をしてみたいなぁと勝手に考えている。なぜなら、この企画で言うレジデンスというのは、ある設定された特定の場所ではなく、一緒にいたり話したりする時間なのではないかと、今は思っているから。