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リムランディア:東アジアの辺境を架橋する神話的ネットワーク

掲載日: 2017/08/16

現代人の共通の祖先であるホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)は、今からおよそ20万年前にアフリカ大陸で発生し、7万年ほど前にユーラシア各地へと拡散していった。「出アフリカ」を果たした人類は、いくつもの小集団を形成し、驚く程のスピードでユーラシア大陸各地へ拡散している。北アフリカから西アジアを超え、ヒマラヤの南麓を迂回して東南アジアへと向かった集団は、さらにスンダランドを通って海路でオセアニアへと向かっていった。同じくヒマラヤ山脈の北側を超えた集団はそこからシベリアに到達し、後にまだ陸地であったベーリング海峡を徒歩で超えて、アメリカ大陸に到達した。こうした地球規模の旅の途上、現生人類は今からおよそ4万年前に、豊かな海と肥沃な大地を持つ東アジアに足を踏み入れた。彼らこそ、現代東アジア人の最も古い祖先である。

ヒマラヤの南北へと別れて進んだいくつかの現生人類の集団は、アフリカから遠く離れたこの地で再び出会い、やがて大陸や半島や島々に定住して、いくつもの共同体を作った。新石器時代を迎えると、漁撈、農業、牧畜、土器作り、漆の利用などの技術が、これらの社会の発展を支えた。やがて都市が生まれ、文字が発明され、哲学や宗教が繁栄した。東アジアの諸社会は、それぞれの民族の神話や歴史を伝承し、大小の国家を築いた。これらの社会は、時には戦争によって覇権を争い、時には耐えがたい苦しみを隣人に強いたこともあった。ヨーロッパ世界との接触以後、矛盾に満ちた植民地支配を強いられたこともある。日本もかつて、大東亜共栄圏という国家神話を、東アジア各地に押し付けた時代があった。

イギリスから中国への返還から二十年を経た21世紀の香港を歩き、その周辺の島々を船で廻りながら、私はずっとこうした東アジアの歴史について、考えを巡らせてきた。限られた土地に林立する高層ビル群と、水平線を超えて広がる広大な海の世界。古ぼけたコンクリートの集合住宅と、最新のコンピューター技術で制御された交通網。そうした、両極端の現実が仲良く共存する香港の都市環境に、東京郊外に生まれ育った私は親しみを感じていた。東京も香港も、小さな古い漁港から、世界規模の大都市へと発展していった。そのせいか、ショッピングモールに直結した高層ホテルの窓から見える風景は、実家の近くに広がるニュータウンの都市計画をもっと過激に進めたらこうなるのでは?と思わせる何かがあった。限界まで拡張される都市の居住エリアは、今の東京が失ってしまった無邪気な経済発展の夢を感じさせた。そこは私たち東アジア人に共通する、夢の破片が散らばっていたのだ。

同時に(当たり前のことだが)、香港には東京とは決定的に違う現実があった。日本では、どんな都会や田舎へ行っても、人間の居住地の周囲に様々なスケールの「自然」が立ち現れる。そして、住居の多くは今でも、いつか大きな自然災害が来て破壊され、粉々にされるのを待っているかのように、儚い木造建築で作られている。そればかりか、東京ではコンクリート製の高層ビル群や巨大な電波塔でさえ、まるで、いつかゴジラのような神話的な怪物がやって来て倒してくれるのを待っているかのように見えるのだ。日本列島は常に強大な自然の脅威に晒されており、それゆえに、自然の果てしない愛に浸されてもいる。しかし、ゴジラは決して地盤の固い香港を破壊しようとは思わないだろう。垂直方向に居住空間が連なる多層都市・香港は、日本列島よりもずっと地震の可能性は少ない。しかし、そこには、SARSや鳥インフルエンザといったパンデミックのリスクが常に宿っていて、この脅威を乗り越えながら、香港人はかろうじて自らのアイデンティティーを保っているように見える。その絶妙のバランス感覚は、揺れ動く小舟の上で暮らしていたかつての船上民のそれと、どこか似ている。

香港の社会は、グローバリズムとローカリズム、資本主義と社会主義、国境を越える資本と大国の膨大な人口という二つの大きな力に引き裂かれ、危ういバランスを保っている。この都市は、私には常に歴史の脅威に晒されており、同時に歴史の愛に浸されているようにも感じられた。その歴史は、一つの地域に閉じられているのではなく、海の向こうの様々な地域の現実に通じている。香港は、ユーラシア大陸の中華世界からグローバル世界へと突き出た、むき出しの「東アジアの岬」なのだ。この岬は、かつて海賊や漁民たちが暮らし、近年はマッチ工場や磁器の絵付けの産業化で栄えていた、いくつかの島の記憶にとり囲まれていた。

世界中の文化と金と情報とDNAが交錯し、交換されるこの香港に、韓国、台湾、日本から、それぞれ作家とキュレーターが集まるということ。この稀有な体験の最中、香港から見える東アジアの海を見渡しながら、私は「リムランド」という地政学の概念を思い出していた。地政学では、大陸の内奥に位置する「ハートランド」に対して、沿海部の辺境に続く土地や島々を「リムランド」と呼ぶ。日本の人類学者、中沢新一によれば、「中央集権的な国家の舞台となるハートランドとは対照的に、周縁をつなぐネットワーク型のリムランド文明には、柔軟性に富んだ混成文化が発達を遂げる」という(『日本の大転換』)。十日間のプログラムの最終日に、私はこの概念を元に「リムランディア」という一つの神話を提案した。それは、互いに影響関係にある東アジアの沿岸社会が、他者の歴史を否定することなく、それぞれの文化的差異や独自性を尊重し合いながら共存していくためのヴィジョンである。

もし私たちが本当の意味で他者の歴史を理解するためには、他者の神話をも理解しなければいけない。この場合、神話とは、単に歴史を否定する虚構ではなくて、むしろその歴史に語られなかった未知の現実を理解するための、想像力を駆使した飛躍を意味する。他者の神話を通して、私たちは互いの社会が持つ最も深い理想や夢を知り、その起源に横たわる歴史への理解を深めることもできるだろう。少なくとも、神話は理解を遠ざける危険な誤謬というよりは、もっと配慮して取り扱うべき、深い次元での理解の鍵だと考え直さなくてはならない。そのような意味を、私は「リムランディア」という概念に込めた。

プログラムが行われた十日間、私たちはひたすら、それぞれの地域の神話や伝説について、植民地化の影響について、芸術の歴史について、そして民族や文化、政治意識や言語のアイデンティティーについて、昼夜なくひたすら語り合った。プログラムを通じて、私は日本の哲学者である小倉紀蔵氏が提案した「共異体」という概念を知った。この思想を私に教えてくれたのは、通訳者のイ・チャンウクである。互いに異なる歴史を持っている日本・韓国・中国が、完全に同化するという幻想(「共同体」)を共有することは難しい、と小倉氏は明快に述べている。これらの国々が理解し合うためには互いの差異を認め合いながら共にあるということ、すなわち「共異体」という新しい理解の枠組みが必要なのだという(『東アジアとは何か』)。私はこの「共異体」という思考実験に、台湾や香港といった他のローカルな社会も招いてみたい。可能であるならば、アイヌや沖縄や、他の無数の環太平洋の諸社会をも。

東アジアの辺縁を結ぶ、諸社会の芸術的ネットワーク。歴史が神話になり、神話が歴史に変容するこの地点は、決して単なる虚構ではない。それは、乗り越えなければならない「捩れ」であり、このプログラムの中で何度も生成し、たしかに私が経験した現実である。それは、芸術が誕生し、現実が新たな意味を帯びる次元の始まりであるに違いない。2017年の香港は、少なくとも私にとって、そのような新しい意味を帯びることになった。この白昼夢のような現実を、私は「リムランディア」と名付けたのだ。

『野生めぐり: 列島神話の源流に触れる12の旅』より

『野生めぐり: 列島神話の源流に触れる12の旅』より