世界観の再構築 荒川線物語

今日、新自由主義の下に国家管理、言語政治、資本主義が複雑に発展してきている。こうした状況にあたり、アジア地域はいかに国家民族、イデオロギー、消費モデルを乗り越えて、世界観を構築した上で、現代のアートに結びつけるのか。果てなき砂漠を乗り越えることこそが地域の潜在能力を引き出すきっかけになるだろう。

最近の例としては、2014年3月8日に「アジア・アナーキー・アライアンス」展が渋谷、本郷のトーキョーワンダーサイトギャラリーで公開された。この時期は台湾廃核デモと東日本大震災福島原発事故三周年と重なる。展覧会では、袁廣鳴が公開した新作が人々を驚かせた。高い角度から鵝鑾鼻の原子力発電所、および蘭嶼の放射性廃棄物処理場を撮った作品である。作品には、竜頭岩の坂を静かに海に向かう山羊たちや砂浜にいる人たちが映っている。こうした景色を見て、山羊や私たちが原子力発電所と放射性廃棄物処理場にこんなに近いのかと思った。その一方、朗島小学校、海と波、緑の丘が人なしの調整室を囲んでいる。まるでお化け屋敷のようで、ぞっとする。

数ある反原発の声の中で、この作品は最も静かな異議だと言える。この純粋な声は、東京の片隅で反原発に対し大きく働きかけている。

陳界仁の「路徑圖」では、台湾高雄ハーバーのストライキの労働者が「世界の労働者たちが我々の仲間だ」と訴える。この度、陳さんの作品も海を越えて来日し、会場で注目された。作品からアジア・アナーキー・アライアンスにおける具体的なイメージが伝わる。概念的には、世界観の芸術性を再構築し、台湾がここ数十年かけてやってきた現代アートにおける世界観を再構築する取り組みに繋がっている。その一方、実際の行動としては、アジア民族の壁を破り、台湾から一歩踏み出している。今回のイベントは吳達坤さんがキュレーターを担当し、二年間近くの歳月をかけて、ようやく現代アジアとのつながりを掴んだ。

さらに、中年世代の姚瑞中、および若い世代の張立人、陳敬元、陳擎耀、杜珮詩、葉振宇といったアーティストも脚光を浴びている。その中で、張立人さんの「戦いの城」は都市システムを描く繊細な動画を使って、世界警察であるアメリカにコントロールされる台湾を批判した。こうした世界捉え方はまさに「アニメ世代」の台湾におけるグレードアップバージョンである。さらに、トーキョーワンダーサイトの本郷会場では、杜珮詩(ドゥ・ペイシー)さんの新作「世界の博覧会」(World Expositions)が発表された。1970年の大阪・1975年の沖繩・1985年の筑波・1990年の大阪・2005年の愛知で使われた日本万国博覧会の宣伝ポスターを元に、インターネットで集めた世界の大事件の文章と写真を印刷し、背景を透明化したうえで、A4の原稿に貼り付けて制作した作品である。

新作に対して、杜珮詩さんの前作「玉山迷蹤」アニメシリーズは過去の博覧会の写真を縮小し、世界の情報を集めるプラットフォームとした。ここでは、カッセルで開催された13回目のドクメンタにおいて、ジェフリー・ファーマーが1935年から1985年までに雑誌『Life』に載せられた「草の葉」(Leaves of Grass)の写真を切り抜いたのと同じ手法を使った。杜さんの作品ではその新しい組み合わせにより、元のアメリカのライフスタイルが覆され、日本の作った東アジアをもとにした世界観が出来上がった。アメリカにある新前衛やポップアートの代わりに、台湾と東アジアにおけるエピソードが取って代わった。もちろん、冷戦の歴史では、アメリカの要素も頻繁に出てきた。

杜珮詩さんの博覧会シリーズの作品が3月12日の「r:ead レジデンス・東アジア・ダイアローグ」で発表された。日本に従来ある素朴な美学をもとに、新しい現代の要素が加えられた。図像の表象に優れて、色の配置も鮮やかな作品である。この作品はアンゼルム・キーファーのドイツロマンス主義も彷彿とさせ、冷たさと虚しさにあふれた第二次世界大戦への反省を描いた絵画との間に大きなアジア式のコンラストを生んでいた。

今回r:eadの企画に参加したおかげで、杜珮詩さんをはじめ、日・韓・中のアーティストとキュレーターと東京で話し合うことができた。これに際し、評論家としていかにアーティストの既成作品に影響されず、自分なりの世界観を再構築することができるだろうかと考え始めた。私から見れば、世界観の再構築は特定の芸術文化に基づいた上で、世界史の観点から新しいインスピレーションを引き出す必要がある。

台湾における従来の芸術文化について、このようにアドバイスした。1980年代の台湾映画はアジアおよび欧米の評論家に注目されてきているのが事実である。こうした中、この時代の台湾映画を世界観の再構築の糧にしようと考えた。

東京に来る前に、インターネットで蕭菊貞監督が作ったドキュメンタリー「白鴿企画-台湾新映画の二十年」(2002)を見た。それをきっかけに台湾の新映画世界に入った。その時代を振り返ったら、その時の時代感、製作工程、政治と文化闘争などが詳しく残されていた。450万TWD補助金で作った「光陰の物語」(1982)をはじめ、1987年に台湾新映画監督宣言発表までの間に、吳念真、小野、侯孝賢、楊德昌、曾狀祥、張毅、陶德辰、柯一正、朱天文などの若者は素晴らしい文化をつくった。彼らは限られた環境で、当時国民党の労働組合システムとレイティングシステムに直面したが、明驥(当時台湾中央映画会社のゼネラルマネージャー、台湾新映画の父と呼ばれる)の努力によって統合し、このような文化的奇跡を起こした。それにしても、アジアや世界の視点からもう一度台湾新映画を検証すれば、また新たな評価を得られるだろう。

台湾新映画が始まってから30年後、ドキュメンタリー監督王耿瑜はもう一度新映画を検証してみた。他の台湾新鋭アーティストと同じように、彼女は編集中のフィルムを見ながら距離を取らないと新たな観点で物事を見ることができない、ということを改めて発見した。新映画に関する論争を20年後にもう一度検証すれば、「白鴿企画-台湾新映画の二十年」というドキュメンタリーと同じように、我々は見当違いな結論にたどり着く。しかし、もしこの時間が30年になれば?やはり、新映画の美学価値は、観客の視点の変化または新映画中に現れたアジア意識と世界意識の特異点によるところが大きい。

日本の是枝裕和監督、フランスのオリヴィエ・アサヤス監督、中国の王小兵監督と賈樟柯監督、イタリアのミュラーキュレーター、日本映画大学学長佐藤忠男、香港の舒琪監督、アーティストの艾未未、またアルゼンチン映画関係者まで、皆この台湾新映画が始まり王耿瑜が編集した最初のバージョンから30年経った今も、新映画が彼らとアジアを影響していることを認めて、新映画の中にある世界意識を肯定的に認めた。この世界中、ある一世代の文化人は台湾の新映画に触れ、現代の台湾人の生活を垣間みて、影響を受けている。

台湾映画助成金システム、ビジネス価値、またはビジネスバランスなどの外部因子の視点から見れば、台湾新映画の内部価値を読み取ることができない。これは、私がアジアと世界の視点から台湾新映画を検証する時に発見したもの。過去。我々はそのような外部因子をめぐる論争の中で、マーケット動向への注目は決して欠如していない。我々は欠如しているのは、世界観であるだろう。その故、如何はアジア史、または世界史の視点から、もう一度1980年代の台湾新映画を検証すること、最近の私の一つ面白い課題であった。

是枝裕和監督は王耿瑜との対談中に、彼の子供時代のことを話した。当時、家族全員がバナナやパイナップルを食べる時に、彼のお父さんは必ず「やはり台湾の方が甘いなあ」と発言していた。その時の是枝裕和監督はお父さんの気持を理解できなかったが、大人になったある偶然なチャンスで侯孝賢監督の作品『A Time To Live, A Time To Die』を見て、彼はようやく理解できた。そのお父さんの発言の中に、彼が生まれたから青年時代までに台湾で住んだ記憶、幸せ、そして台湾という故郷に対する懐かしさを含まっている。だからこそ、お父さんは太平洋戦争中に中国東北へ行って日本に戻る経歴を一切言わなかった。この是枝裕和監督の話によって、アジア性というものは、映画中に現れたパッションフルーツの中にも潜んでいるかもしれない。

インタビューの中で、賈樟柯はそう言っていた。「新映画は確かに終りだ。懐かしく思い出すことはなにも残していない。しかし、ある映画に属す生活スタイルも新映画と共に消えたことは残念だ。」この話は、「新映画はもう死んだ、新映画はもう終りだ」と呟いている我々に対して、もう一度考え直すチャンスを提供する。一体、「映画に属す生活スタイル」とは何であろう。それは、映画生産方式の更新、侯孝賢監督が映画のために屋敷を売り、楊德昌監督が車輪の音のために深夜で陽明山に行き、長回し手法によって全身で演じなければならないという特異な状況などである。また、楊德昌監督が『Boys from Fengkuei』という侯孝賢監督の映画を見て、BGMを再製作を決意したこともその生活スタイルの一つ。当時都会と田舎の現実状況を忠実に再現する、撮影周辺の環境音を忠実に収録する、日本語、台湾語、そして客家語(台湾方言の一つ)を台詞として使うなど。このようなことの中から、「現在を注目しながら現実から脱ぎだし、映像視点で世界を見る」ことができるという映画的な生活スタイルを見える。言い換えれば、この生活スタイルは一種強烈な、個人的な、創造的な世界を作るスタイルである。

是枝裕和監督は、侯孝賢監督と小津安二郎監督の間にあった美学対話を継承している。フランス監督オリヴィエ・アサヤスは楊德昌作品の中から、ロンドン、パリ、またはニューヨークなどの人間世界で共通なものを読み出すことができる。このような深くて創造的な対話と現代人間の共振ことは、正に新たなアジア観と世界観であろう。私は荒川線の夜行列車の中で、このようなことを考えた。その同時に、私もまた、侯孝賢監督が2003年小津安二郎百年冥誕を記念するために作った映画『Café Lumière』の内容を考えていた。映画の中で、一青窈が演じる井上陽子は名も知らない台湾人の子供を受胎した。彼女は電車の中で、一体どのような孤独を感じているのであろう。

ノスタルジアと考現:1930年代におけるアジアの断編について

時が過ぎた品から、初めての鉄骨建築から、初期の工場建築から、昔の写真から、なくなった品物から、大きなピアノや五年前の洋服から、時代遅れのホテルから、彼は革命のエネルギーを見ました。
ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン

ノスタルジアは過去を懐かしむようなものであれば、モデルノロジーは過去に対する理解を現在への転用になる。ということになると、現代の作品の中はノスタルジアとモデルノロジーの融合を好む傾向がある。奇妙なタイムマシンのように、このレポートの時間軸を1930年に設定する。どのように芸術家は1930年代を中心にした、ノスタルジアとモデルノロジーを行うかを考察し、それと同時に、アジアの現在の状況からスタートし、結論もアジアにとどめる。
一般的に、ノスタルジアという考えは古い物に着目することにすぎなく、物の質感をタイムマシンになったように時間から生まれた距離感とエネルギーを捉え直す。しかし、もし我々はアンティーク商人的な視野から離れてもう一度考査してみると、ノスタルジアの気持ちが最も起きやすいのは人の変化。すなわち、人間の態度や生活スタイルは取り返しのつかないことになる。要するに、最も時間の交差を感じるのは生命形態の変化だろう。ヴァージニア・ウルフの小説のあの言葉のように「1910年以降、人に劇変が起きた」 現代社会は昔の人や生活スタイルに少しずつ浸透し取り返しのつかない変化がおきた。
アジアの生命形態の変成を綴る小説といえば「名人」である。
この作品は作者である川端康成自身が一番気に入っており、非常に手が込んだ作品と言われている。1938年6月から12月に行われた「本因坊秀哉引退試合」がモデルになっており、新聞の報道や哲学的な分析、客観的な評論を総合し、抽象的なタイムマシンに仕上げた川端はモンタージュのようにこの秀哉名人と大竹七段の囲碁試合を表現した。秀哉名人は集中力がありながらゆったりした雰囲気を漂わせる。病気によって3ケ月の休暇を取ったが、ゆったとりした雰囲気が依然としている。秀哉にとって囲碁は芸術作品であり、気取らない態度で囲碁の試合に臨める。試合以外の時間は花見、ビリヤード、マージャンや友人と会うことなどで気分転換をし、ストレスを解消する。その反対、大竹七段は殺意のような雰囲気の持ち主であり、戦場で戦っている戦士のように鋭い感覚や素早い動きから緊張感を感じる。休憩の時間でも囲碁を考え続けてひと時も気持ちを緩めない。結果、30歳の大竹七段は5目で白子を持った名人秀哉に勝ち、1940年1月の試合終了後間もなく、秀哉は病気でなくなった。
川端にとって65歳で他界した秀哉は一つの時代の終了を意味しているだけではなく、アジアにおける美意識への最後のカウンターパンチとなった。川端にとってのノスタルジアは、消えてゆく品性に対する考察ではなく、人格や生命への指標となる。囲碁の試合の途中、突然抜けたり手元の扇子を弄ったり、頭を上げて庭園の風景を眺めたり、そんな秀哉の精神に対して残念な気持ちを持ち、芸術の道を歩んできた秀哉に尊敬の気持ちを持った。大竹に関しては、アジアの現代化におけるウェスタンの訓練に過ぎない。殺意を感じる化け物とも言え、手段を選ばず規定を守るマシンのような物だとも言える。よって川端の小説の芸術構造は彼自身の美学的感性によるものだ。彼の小説は現代アジアのタイムマシンになり、ノスタルジアではなく古き良き美学が現代に受け継がれている。すなわち、ノスタルジアはモデルノロジーになる。
2007年の年末に台北現代美術館にて行った展覧会「名人-川端康成に倣う」において、謝素梅は川端の美学哲学を引用し、現代芸術と「芸道」精神の関連性を示した。碁盤の線は消え、碁石は無限の空間の中で対決した。ヨーロッパのルクセンブルクに在住する華人芸術家にとって、彼女のモデルノロジーの中にアジアの芸術精神の価値が欠けていると評された。これはもう一度訴えるべき課題であり、ノスタルジアというものからかけ離れ、モデルノロジーを通じで芸術の実践や創造をしてゆく。
僕はキュレーターとして東京でレジデンス・東アジア・ダイアローグ(r:ead)を参加した。東京芸術大学の桂英史教授はモデルノロジーの研究における現代的なヒントを三つ提案した:公園、彫刻、闇市。
僕は靖国神社の大村益次郎の彫刻を見に行った。大村は日本の陸軍を確立した人物である。遊就館でゼロ戦の戦闘機をみて、押井守の映画「立喰師列伝」で見た、戦後食料不足による新橋、渋谷、新宿あたりにある闇市の実態や、当時華僑人や朝鮮人と日本人の間におきた土地管理の奪い合いなどを理解できるようになり、同時に新橋の現状も考察した。
その中で一番興味を引いたのは上野公園だ。台湾総統府の建築士「森山松之助」は1907年に上野公園で行われた「内国勧業博覧会」の「台湾パビリオン」を担当し、絶大なる評価を得た。特に「台湾喫茶店」の設立は革新的であった。ちょうどその当時、台湾総統府は新庁舎の設計コンペが行われていた、森山は積極的にコンペを参加し、コンペを勝ち抜いた森山は、台湾で新庁舎の工事主任として赴任した。現在は残念ながら当時の「台湾パビリオン」の姿は残されていなかった。とはいえ1929年朝鮮博覧会の台湾パビリオンや、1935年に台北で行われた「始政40周年記念台湾博覧会」や1936年岐阜で行われた「躍進大日本博覧会」及び「福岡市博多市博覧会」など、残されなかった「台湾パビリオン」は台湾物産や殖民地文化の象徴として輝いていたに違いない。
過去の風景はもう残っていないと戸惑う気持ちもあったが、高山明氏がプロデュースした「東京ヘテトピア」は私に少し希望を与えてくれた。ドイツで演劇を勉強した高山明は、現在の東京におけるアジア各国の政治難民や移民などと関係する13個の地域について興味をもち、このプロジェクトを始めた。このプロジェクトのコンセプトは「東京でアジアを探す」。いわゆる歩く「旅の演劇」だ。参加者はガイドブックと携帯ラジオを手に様々な空間を訪れる。目的の場所でラジオから流れる、かつてその場所に生きた人や縁のある都市や国の物語。そして観客は未知のアジア、そしてヘテロピアとして東京に出会っていく。
まずは、東京芸術劇場の地下にある築地小劇場。革新的なアジア演劇の公演が多数行われていた劇場だ。例えば、旧ロシアの演出家トレチャコフ (Tretiakov,1892- 1939)の「叫ぼう、中国」は1929年からこの劇場で公演が行われた。また、朝鮮独立運動の代表劇場作品「金玉均」は1928年からこの劇場で公演が行われた。その他、周恩来が1917年に日本に留学した際に、神田神保町の「漢陽楼」に、故郷の味である肉団子を食べる目的でよく訪れた。54歳の明治大学教授、菅啓次郎は1976年の「第一回天安門事件」を中心とした作品を制作し、ラジオ番組で流した。
13個の場所の作品の中、一番興味を持ったのは池袋要町付近の王家之墓。台湾移民の温又柔が作った作品の中心人物は台湾の言語学者独立運動の推進者の王育徳(1924-1985)。1957年に出版された王育徳の著書である世界で始めての「台湾語常用単語」を素材とした、王育徳の物語を綴る。王育徳は日本に留学し、台湾語には発音表記がないことに問題意識を持ち、第二次世界大戦の際中に在学していた東京大学中国哲学博士課程の勉強を中断し、台湾に戻る。その後、台南第一高校で教師となる。台湾語で現代演劇を創作した。しかしその後に起こる228事件の渦中、香港経由で日本に亡命した。その後は博士号の勉強を引き続き行い、1969年に東京大学の歴史における初めての台湾人文学博士となった。1960年に黃昭堂、廖建龍などの六人と「台湾青年社」を設立。その同時に、「台湾青年」の日本語版が出版された。王育徳は生涯台湾語や台湾独立運動に没頭し1985年に東京で逝去した。
僕は芸術家である温又柔の作品の具体的な内容はわからないが、台湾人として、池袋という奇妙な場所に「so close ,so far」という感情を持つ。僕のホテルは西池袋にある。築地小劇場の跡地に1キロほどの距離に過ぎない、王家之墓にも近距離である。しかし、現在生きている環境と、僕個人の生まれ育った環境とこのアジア史において、重要なポジションを持つ場所はとても遠くて見えない場所とも言える。高山明というアーティストは、ノスタルジアをモデルノロジーに変化させた。パフレットとラジオを片手に、ラジオ越しに物語を聞きながら、知られていない都市の物語に入り込む。心を沈ませ、アジアの革命歴史の感情を堪能できるでしょう。
「東京ヘテトピア」というアートプロジェクトは1930年代の世界劇場:ヨーロッパを思い出させる。2012年に行われたカッセル・ドクメンタにてカナダ出身の芸術家Janet Cardiff&Georges Bures Millerは古い駅Kassel Alter Bahnhofにて作られた作品Alter BahnhofVedio Walkは高山明の「東京ヘテトピア」を彷彿とさせる。
 Cardiff作品の中に現れるノスタルジア(nostalgia)も都会考現学的な意識がある。彼女はスマートフォンに保存している映像を媒介として、歴史、小説、音楽、そして踊りパフォーマンスなどの異質的な手法を通じて、現地に設置しているドキュメント・インスタレーションの導線によって、鑑賞者をKassel Alter Bahnhof駅とそのホームの間に彷徨わせた。このような現実と仮想という二重性の中でヘテロオピア的な感覚が、どんどん形になっている。その中、30年代にあった強制収容所へユダヤ人を送るという個と集団の歴史集合の響きは、冷たい時空を超えて、この駅の7番ホームではっきり聞こえるように奥底から熱狂的な気持ちを呼び起こさせる。
 このCardiffの作品に対して、高山明も結構詳しいようだ。彼は会場でスマートフォン映像を鑑賞している時、一人の身体障害者がよろよろと歩きながら彼とすれ違っていくことを体験したそうだ。その瞬間、ノスタルジアの情緒は現実状況の介入によって切断され、二つの世界が共鳴を始め、電流が流れるように彼の全身をビリビリさせたと言った。しかし、こんなに強烈な感覚があっても、この作品は高山氏に対して、展覧企画としての出発点は全然違う方向だと言った。何故なら、高山作品の発想は昔劇場にある観客との連動性、または「theatre」という古い言葉の意味から始まっている。つまり彼が目指しているのは現代劇場のような単純の「演出」ではなく、観客が「演出」の一部分になることを望んでいる。その結果、高山が注視しているのは、劇場の焦点を観客に戻し、そして演出の後に観客たちの対話が活性化することこそ、彼の「観客論」の考察である。それゆえ、アーティストがノスタルジアと考現学を作品の中で交差させる意義は、単に遠くから見られるプロジェクトとして身体の舞台を作ることではなく、その現場でドラマチックな演劇的の効果を作りながら、自ら参加するという「政治性」を通じて、観客をもう一度社会と繋げることを意図とした。
 また、Kader Attiaという作家の「The repair from Occident to Extra-Occidental Cultures」というマイクロ博物館の作品がある。その作品は戦争、医学、そして殖民地歴史などの媒介によって、ノスタルジアを現代創造の知識、空間、そしてプロジェクト配置のレベルまでに転換できた。Geoffrey Farmerが35年から85年までの50年間の雑誌『ライフ』を編集してインスタンレーションした作品「Leaves of Grass」は、やはり伝統的な道を沿い、伝統的な博物館にあるアイロニー的なビジュアル展示の手法となっていた。一方で高山氏の視点から出発すれば、現代の「アジア」における経験によって、考現学が表現てきる「アジア性」、歴史と現在のクロスによって生み出した多様性と豊かなレイヤーは、恐らく現在ヨーロッパにおける直線的な歴史発展を凌駕するだろう。
 言うまでもなく、ノスタルジアと考現学を触れば、歴史的な傷と国際問題に直面しなければならない。そのゆえアジアにおける多言語と多民族によって生み出した歴史の地層は、何より我らが注目せざるを得ないであろう。
東京に滞在していた際に、六本木森美術館の10周年展を見学した。キュレーターの片岡真実が企画した「out fo doubt」。このテーマは謝徳慶の著書『out of time』の視点を真似して考えると、「懐疑無用」と見えるが実際に「懐疑から生まれる」とも言い換えれる。写真家の中平卓馬の作品もあり、中村宏の沖縄戦争に関する絵画や台湾やイランの戦争基地や、台湾とアジア各地の鳥居を訪ねたポスト戦争に対し、モデルオロジーを実践した下道基行の作品もあった。r:eadの日本チームのプレゼンテーションで下道基行の作品紹介を聞いた。彼は基地と鳥居の現状を写真として記録し、祖父をテーマとした「日曜日の描き」のような創作活動も行っていた。これらはアートの手を借りて現代遺跡のモデルオロジーを実践した時空と交差するアッサンブラ-ジュと言える。
 おもしろい事に、若手芸術家である下道基行の作品はこの時森美術館で展示されているのだけではなく台中の国立美術館で「アジア二年展」でも展示されていた。噂によると宜蘭員山のゼロ式飛行機基地は台湾芸術家の高俊宏に薦められてたそうです。ちなみに、一連のノスタルジアとモデルオロジーの討論を終えて、僕は高俊宏の作品のパウワーとルーツは前述の作品と比べて、劣ることなく生きた雰囲気は、十分に注目度を浴びることができると考えた。
 高俊宏は2010年に発表したタンム生映像シリーズの中に台湾車のメンテンナンス工場の廃墟の炭壁絵は、映画監督である蔡明亮の映画「郊遊」のロケ地となり、台湾の芸術業界では有名な話だった。彼の作品は目的性がなく、2013年誠品書店のギャラリーにて「私達は働き過ぎではないか」という個展で発表した、台湾10箇所の現代廃墟の炭壁絵を展示しとても高い評価を得た。高俊宏の「廃墟映像炭絵計画」は1930年の小節が存在している。それはかつて員山戦機基地のゼロ式飛行機の神風特攻隊を経験した台湾籍のパイロット張正光だ。そのほか、廃墟の歴史を前に戻すと、「海山炭坑廃墟」「台湾車両修理所廃墟」など壁絵の団体や自由主義のコラムや受難親族のインタビューなど、様々な活動に発展した。様々な活動を通じてノスタルジアは哀愁だけに留まらず、ゆっくりと台湾地景の構造への考察や再構築になるのではないか。それと同時に、国立美術館で展示した際に、高俊宏本人が炭坑労働者の服を着ることで「体で伝える」という行為を実践した。芸術家は現実と歴史の間にある傷を補い、身体レベルの会話が生まれる。おそらく、ノスタルジアの本質は物が埋めるのではなく、モデルオロジーが必要となる。
 「廃墟壁絵計画」は現在は引き続き作られている。帝国主義の歴史写真、殖民戦争の傷、現代工業の遺跡、ギャラリーの空間、美術館の空間、アジアの繋がり、様々な自己分析、大型の帝国主義と異常なアジア政治との交差における、奇妙なヘトロトピアとなり、芸術的な行動となっていく。1930年代の激動のアジア史の中で人々は「観客参加型」の方法を通じて取り戻した。ノスタルジアとモデルオロジーの政治学は資本主義や新自由主義の公共空間の私有化を皮肉的に批判する。その結果、芸術家がプランを立て、国民が参加するというのことに対してポテンシャルを感じる。私たちはどうすれば現代芸術主義のステレオタイプから飛び出し、アジア現代芸術の「ノスタルジアとモデルオロジー」を成立させることができるのかを考えた時、これはまだ長い道を歩くことになると考えている。人々が廃墟劇所に訪れ、自ら参加、体験し議論すること。無政府、脱植民、国境を越え、資本主義に抵抗する廃墟を再生する道となる。