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(日本語) 非記念碑的手法による記念碑のつくりかた

post: 2014/07/18

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本事業のタイトルr:ead(=residency, East Asia, dialogue)からも明確なとおり、このプログラムは東アジアと括られる韓国、中国、台湾、日本を出自とするメンバーの「対話」と「思考」のための場であった。この前提条件となるフレームをいかにポジティブに捉え、且つ脱構築するように拡張するかを、日本チームとして招聘された下道基行と私は強く意識して取り組んだ。つまり、最終的なアウトプットとしての大文字の作品をこのレジデンスの場で生み出すことを目標とするのではなく、その数歩手前のひとつの方向に射程を定めるまでのプロセスを如何に築くかを意識し、隣人たちとの対話の場を積極的に楽しみ、不完全で断片的なものを敢えて晒していくことに注力した。モニュメンタル(=象徴的)な「作品」というかたちを求められず、議論や思考の過程を透明化し公開していくことがのぞまれるのは非常に稀有な現場だ。それによって、直接「東アジア」ということが主題にならずとも、このような場それ自体がr:eadというプログラムを支える骨格となっていると言える。
ただ、賞味1週間のみのレジデンスへの参加だったため、結果的にはプレゼンテーションというアウトプットに向けて集中する状況にはなった。しかし重要なのは、必ずしも豊富な時間とは言えないが対話と思考のための場を公に準備していただき、それに応じる方法として、新たな方向へと舵を切るきっかけとなるいくつかのアンモニュメンタル(=非記念碑的) な断片を発見できたことだと思う。
私たちは最終的に、『「不在」のかたち─モニュメント再考』というタイトルで、オルタナティブなモニュメント(=記念碑的存在)と定義できるようなものたちを集めたアイディアのスクラップブックを制作した。誰もが一目で認識できるいわゆるモニュメントからは外れるが、異なった地点からその存在を眺めると象徴性や記念碑的性格が見いだせるものや、あるいはある対象者にとっては記憶に触れるものなど、一見明確な輪郭線をもたないがある側面からは記念碑性をもつ存在を広義に「モニュメント」と捉える、少しずらした視座を提示したものだ。

ここで、「モニュメント」や「モニュメンタル」ということばについて、少し説明したい。モニュメントとは、「政治的、社会的、文化的な事件や人物を公共的、永久的に記念するために作られる工作物あるいは建造物。また文化財関係の用語としては、遺跡敷地に対して、地上に立つ全ての建造物、記念物を含めてモニュメントという。」(ブリタニカ国際百科事典)ということだ。もう少し簡略化すると「記念建造物。記念碑・記念像など。遺跡。不朽の業績。金字塔」(大辞泉)ということになる。この原則的な意味を少々拡大解釈し、記念碑性や象徴性を生み出す私たち人間の行為に着目し、かたちを持たない「行為」などを、記憶に刻む記念碑(=モニュメント)として定義しようと試みた。強固な物質としてのモニュメントではなく、しなやかな行為や記憶をとどめるささやかでそこらへんにある当たり前の存在。言い換えると、ある特定の視座を与えられることで記念碑性を獲得するアンモニュメンタル(=非記念碑的)なモニュメントの探求を試みたわけだ。作品とはそもそも記念碑的(あるいは象徴的)な存在であるが、その記念碑へと至るプロセスにより自覚的になるということだ。

今回我々が探求したのは非記念碑的(=アンモニュメンタル)な記念碑(=モニュメント)という一見矛盾するものだ。作品を制作発表することを目的とするのではなく、作品という記念碑へと至る過程を顕在化すること、そして不特定多数のいわゆる「みんな」に向けるのではなく、もう少し特定された明確な対象に響くモニュメントのかたちを探求するものだ。そのようなモニュメントを、「常温の」「ソフトな」「かたちのない」というおよそモニュメントとはかけ離れたイメージを持たれることばで形容することで、かたちではなく状態や行為に焦点をあて、別の角度から記念碑性や象徴性を考察していった。強固な物質性や絶対的な存在感というモニュメントの既存のイメージを表象するような特徴とは正反対にある「不在」のもつ象徴性を探求すると言ってもよいだろう。絶対的な形態や存在ではなく、生成変化する「不在の在」あるいは「不在のかたち」を求めることだ。
ここで下道がこれまで作り上げてきた作品群を振り返ってみよう。第二次世界大戦までに日本中に築かれた戦争のための建造物であるトーチカや掩体壕、砲台跡などの数十年後の現在の姿を風景として捉えた写真シリーズ《戦争のかたち》(fig.1)、そして現在の日本の国境線の外側に残された鳥居の様子を捉える《torii》(fig.2)のシリーズなどがある。例えば、《戦争のかたち》に登場する機能を剥奪された戦争遺構が埋没する現在の風景は、時の経過とともに戦争を経験した世代が去っていき多くの人の意識から消えていこうとする戦争の記憶を呼び起こし、《torii》は鳥居があった場所にはかつて日本人の生活があったことを示す。どちらも本来の意味や形態の一部が消失することによって、その当時のことを想起させるソフトな記念碑(=モニュメント)として機能するものたちを捉えた風景だ。また、写真として下道に切り取られることによって、それらの忘れられた存在をモニュメント化する行為でもある。ある目的のために必要に迫られてつくられたものが、月日の流れとともにその機能を消失し、存在理由を棚上げされたかたちで風景のなかに残された。これらは保存という名目により柵で囲わたりすると、典型的なモニュメントへと変貌する。下道はそのような画一的で思考停止に陥るようなモニュメント化に対して疑問を抱き、むしろそのままの現在の風景を俯瞰的に捉え、写真として収集する行為により、ソフトなモニュメント化を計った。

fig.1《戦争のかたち》
fig1_戦争のかたち
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.2《torii》
fig2_torii_NewTaichungTaiwan
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

また、砲台跡から花火を挙げたり、トーチカを一時的にスクウォッテングするなどの方法で戦争遺構の再利用計画を打ち出す《Re-Fort Project》(fig.3)は、誰もその存在に眼を向けないひっそりと佇む遺構に遊戯的な方法で人々の眼を向け、かつてあった戦争について想いを巡らす場を生み出す。ある行為を働きかけることで遺構の機能を一時的に鮮やかに変換し、同時にその遺構群を、人にメッセージや歴史を伝えるモニュメントへとソフトに変換させるのだ。
また一方で、震災後にバイクに乗って日本全国を周遊する旅で捉えた田んぼの畦道に渡された一枚の板や、段差を解消すべく積み上げたコンクリートブロックなど、どこにでも存在する身の回りにある最小限の要素により必要に迫られて生み出されたこちらとあちらを繋ぐものを極小の「橋」と規定して、それらをスナップ的に収集していく《bridge》(fig.4)のシリーズがある。これらは多くの人は見過ごしてしまうほどささやかで当たり前で、同時に偶然つくられたものであるため翌日には消えてしまうかもしれない儚さをもつ、それこそいわゆるモニュメントとは対極にあるような存在だ。どんな時代のどんな場所にでも存在するある種の普遍性を備えた儚さや、それらを生み出す誰もがもつ無意識の創造性や美意識を捉え定着することで、やはりソフトな方法でモニュメント化していった。

fig.3《Re-Fort Project》
fig3_1refort4

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Courtesy of Motoyuki Shitamichi

fig.4《bridge》
fig4_bridge1103161751
Courtesy of Motoyuki Shitamichi

その他にも雪国で道なき場所を人々が通り抜け足跡を残すことで新たに生まれた道を捉えた《crossover》なども、雪に残された足跡という数時間後には消えてしまう「かたち」を定着する行為で、これも下道らしいモニュメント化と言える。つまり、下道は本質的にアンモニュメンタル(=非記念碑的な)な存在である忘却されたものやかたちが消え去ってしまうような不在にかたちを与えるように、ソフトなモニュメントを作品化により生み出し続けてきたのだ。
この延長線上で、「不在」そのものの在り方を探求するよう、より意識的にアンモニュメンタルなモニュメントを生み出す過程を、r:eadという対話のテーブルに持ち出すことで、共有や断絶を経て、新たな方法論を獲得することを試みたのが、本プロジェクトのフレームに対するひとつの回答と言えよう。
最終プレゼンテーションにゲストとして参加したメディア批評家の桂英史氏は「モニュメントとは必ずサイトスペシフィックである」というようなことを簡潔に述べた。そもそも下道と私がこれまで取り組んできたことは、それぞれ職能に違いはあれど、サイトスペシフィック/モニュメントとは切っても切り離せないもので、この桂氏の発言は事後的に我々の活動にひとつの補助線を与えてくれた。

次に私のこれまでの活動にも少々言及したい。私の拠点はアーティスト・イン・レジデンスを主事業とする小さな機関なので、その性質的にも大多数の人というよりは、必要性を感じる人に向けるものを探求してきた。レジデンスでは最終的な展覧会や完成された作品を記念碑(モニュメント)として生み出すよりは、そこに至る過程をいかに経験するかが重視されると信じているため、その経路のよりよい設計を継続して考えてきた。なんとなく大きな規模でひとつの明解なものをつくり出すことのみには違和感や懐疑をもっていただけでなく、限られた条件の中で別の道や別の方法を生み出すこと、つまり制約のなかで「オルタナティブ」な道を探る方向にずっと興味があったため、必然的にいわゆる記念碑的なものではない方法で、かたちを与えることを実践してきた。
また、これまで約10年近く山口や青森という小さな地方都市を拠点として活動してきたわけだが、なぜそのような選択をしたのかが今回のr:eadを経て少しだけ自分のなかでクリアになったので、ここで少し述べておきたいと思う。そもそも今に至るきっかけは建築を学んでいた大学院時代にバルセロナで一年間生活したことにある。そこで最も印象深かったのは、その地に住む人々の価値観の持ち方だった。歴史ある都市だが現在の地政学上はヨーロッパの周縁の土地と言わざるを得ないこの都市では、「周縁」であるからこそ持ち得る伸びやかさと多様性を知った。新自由主義的な思考からは軽快に距離をとり、経済活動や利便性ではなく、その場所らしい生活を築くことに対する個々人の意識の強さが非常に新鮮だった。時間に対する感覚も、どこか主観的で時計の刻む時に縛られない感覚が興味深かった。明らかに異なった価値観があった。この経験がきっかけで、日本において戦後の資本主義経済を基礎とする体系のなかでは周縁と位置づけられる地方都市の存在や可能性を意識するようになった。その結果として、本州の両極の土地にこの10年自身の身体と生活の拠点をおき、芸術を起点として地方という問題と可能性を探求することとなった。それは、大きな物語ではなく小さな水脈を発見し繋げていくような試みであった。そしてか弱いけれど様々であるということを、多様性と複雑性という価値として捉えたいと考えてきた。

この背景には「批判的地域主義(=Critical regionalism)」 という考え方の影響がある。この表現は1980年代に建築理論家であるアレクサンダー・ツォニスとリアンヌ・ルフェーヴルが最初に見出し、彼らとは若干異なった用法で建築史家のケネス・フランプトンが用いて建築論を展開したことで広まっていき、近年ではガヤトリ・スピヴァクとジュディス・バトラーがカルチュラル・スタディーズや政治理論にも援用している。フランプトンは、現代文明を肯定しモダニズム建築が持つ普遍的・進歩的特質を批判的な視点を持った上で受け入れ、同時にその建築の地理的文脈に価値を置くべきとしている。建築における無場所性や場所のアイデンティティの欠如を、視覚だけでなく触覚や聴覚など身体感覚に総合的に訴えかけることで地域的特色を与え、抵抗の建築として独自の存在が成立しうると提唱した。もちろん現在の社会にフランプトンのこの思考を単純に適用することは安直過ぎるが、グローバリゼーションの進行と様々な格差問題が噴出している現在において、そのような大きな流れに不用意に巻き込まれないための「抵抗」の手段として個別にこの思考法を適用することは有効であると考えている。
神話的なひとつの大きな物語を描くことに価値を見出せなくなった現状において、まず自らの足下を見直しそれぞれの土地がもつ小さな可能性を引き出し、情報環境の発展とともにどんな場所や人とも比較的容易にダイレクトに繋がれるということを認識することで、適切な場へとその可能性を接続していくことができるだろう。つまり別の場所、別の可能性への接続法を見出すことで、単純に現状を嘆き否定するのではなく、抵抗の手段としてオルタナティブをもつことが重要だと思うのだ。私はそれを大きな記念碑的な救済のようなものに求めるのではなく、小さくてもいくつもの方向性をもつ自発的で内発的な活動として探求していきたいと考えている。

ここで、昨年キュレーターとして関わった十和田奥入瀬芸術祭 を少し紹介したい。この芸術祭は、芸術祭と呼ぶにはとてもささやかな規模と予算で、人口六万人強の小さな地方都市である十和田市で開催されたものだ。会場は大きくふたつに分かれており、ひとつが十和田市中心街に位置する十和田市現代美術館、そしてもうひとつが中心街から車で30分程の距離にある十和田市周縁の奥入瀬・十和田湖エリアである。十和田市中心街では現代美術館がオープンしたことで来場者数が毎年増加しているが、一方で80年代を全盛に観光地として栄えた奥入瀬や十和田湖周辺は、観光産業が大きく衰退し、就業人口も落ち込み深刻な状況となっていた。十和田市内でも中心と周縁において大きな格差が生まれているのが現状だ。芸術祭では、衰退してしまった市周縁部を盛り上げようという意図もあり、美術館だけではなく、奥入瀬エリア一帯が会場となった。奥入瀬や十和田湖には、とても美しい風景があって、それは観光産業がいかに衰退しようが変わらない財産である。そしてこの自然も実は人間が関わることで維持されている風景であり、自然とはどういう状態かをも考えさせられるものである。ただ、どんな資源を持っていようが、結局それを誰に向けてどのようにアピールするのかがある程度クリアにならないと、その価値は届かない。バブル崩壊後に、企業の慰安旅行や旅行代理店がパッケージを組む団体旅行が廃れていき、現在のようなより小さな単位(個人や家族や近しい友人)での旅行が主流になってきた状況に対しても、結局団体旅行に対応した観光地の在り方しか提示できなかったこのエリアが衰退したことは必然といえるだろう。存在しなくなった対象に向けて発信しても、それは届かない。
そのような背景を考慮に入れながら途方もなく広いこのエリアを巡るなかで見えてきたものは、いくつかのモニュメントだった。十和田湖畔に建つ高村光太郎による《乙女の像》、奥入瀬エリアに多数存在する大町桂月による句碑などの記念碑群、あるいは十和田神社などの建造物や、《雲井の滝》のように名前を与えられた奥入瀬渓流沿いの滝や流れ、岩などの名勝が挙げられる。これらが十和田奥入瀬の表側の美しい歴史を湛える正のモニュメントだとしたら、その裏には廃業した無数の旅館やホテル群などが負のモニュメントとして存在する。通常の観光旅行では正のモニュメントのみが人目に触れ、負のモニュメントは往々にして覆い隠される。しかし、この負のモニュメントにこそ、地方都市が辿ってきた歴史や、なぜ現在の状況に陥ったのかを示す様々な手がかりが潜んでいるはずだ。グラウンドゼロやアウシュビッツ、あるいはチェルノブイリなど災害被災跡地や戦争跡地などを巡る、人類の死や悲しみを対象にしたツアーを「ダークツーリズム」というが、このような歴史的な悲劇や負の歴史を経験することによって理解できることは多数あると思う。近年では東浩紀らによる福島第一原発観光地化計画なども、批判もあると思うが、ダークツーリズムによりフクシマという負の遺産としてのレッテルを貼られようとしている場所を復興していくひとつの可能性と批評性を備えた方法であると思う。また、芸術祭に参加したPortBを主宰する高山明は、Port観光リサーチセンターという団体を実際に一般社団法人として設立し、そのリサーチ活動の一貫として十和田奥入瀬にて観光にまつわる言論イベントを開催し、翌日からはそのドキュメント映像を、イベントを実施した同じ場所に同じ時間で展示作品と上映した。
奥入瀬エリアのように団体旅行の減少とともに衰退していった観光地は日本全国に多数あるだろう。そのような土地にアート作品という新たなモニュメントを多数設置して、それらを巡礼する旅行のかたちは越後妻有や瀬戸内などですでに試みられ、たくさんの観光客を獲得し、芸術による地域や観光の再興の一種の成功モデルとして捉えられている。しかし十和田奥入瀬においては、そこにある歴史や負の経験を新たなモニュメントで覆い隠す上述のような方法ではなく、現状を肯定することからスタートしたいと思った。既にある負のモニュメントを何らかのかたちで再生し、正のモニュメントとともに公開することで、その土地のきれいな表面だけでなく裏側にある現在の困難も含めて見てもらえる方法を模索し、いわゆる巡礼の記念碑としてのアート作品の設置を排除したものが、十和田奥入瀬芸術祭であった。もちろんその理念とは裏腹に、実現できなかったことは多々ある。しかし、その土地や建物などが辿ってきた歴史から目を背けることなく、それらが発するかすかな声に耳を傾けることで、見えてくる地域の未来というものもあるのではないかと思っていた。
サウンドアーティストの梅田哲也、パフォーマンスユニットのコンタクトゴンゾ、そして写真家の志賀理江子という3組のアーティストが半年をかけて協働によりつくりあげた、数年前に営業を休止したホテルの建物一件をまるごと作品化した《水産保養所》(fig.5)は、まさにそのような芸術祭の態度を象徴する、アンモニュメンタル(非記念碑的)なモニュメントであった。この作品は、半廃墟になったホテルをアーティストが徹底的に掃除をし、不必要なものを取り除くことを基本とした。「引き算の方法でつくる」と表現していたが、作品らしきものやオブジェクトのようなものを付加することを避け、水の流れを変えたり、光を導きいれたりというような方法で、機能を失った建築を少しずつ周辺環境に近づけるような作業を施していった。極端に要素が剥ぎ取られたホテル内を巡ると、静かに流れ落ちる水の音が聴こえ、天気の良い日は様々な光が入り、不穏な空気を感じることもあれば、清々しい風を受けることもある。人工と自然の中間のような不思議な状態で、廃墟や遺跡のようにも感じられるし、一方でバブル期のホテルの様相も垣間見える、不思議な場の経験がある。舞台のクライマックスのような象徴的で誰もが盛り上がるような状況は訪れることなく、淡々とささやかな変化のみが連続する。壮大なスペクタクルを徹底的に排除された空間は、ある種のパラレルワールドを経験する感覚にも近い。一切何もないようだが、そこには神経を研ぎ澄ますと見えてくる、聞こえてくる、香ってくるささやかで豊かな経験がある。スペクタクルなモニュメントではなく、非スペクタクルでささやかな経験を生み出すこと。明確で壮大なかたちではないが、目を向けよう、耳を傾けようとする人には、豊かに響き、その経験を記憶に刻みこむオルタナティブでアンモニュメンタルなモニュメントである。目玉となる屋外彫刻のようないわゆる記念碑的モニュメントを設置することなく、奥入瀬という地域に流れる時間や開ける空間をアンモニュメンタルな作品群を通じて経験してもらうことが、地方都市でのこの芸術祭の試みであった。

fig.5《水産保養所》

Courtesy of the artists, Taketoshi Watanabe and Towada Art Center

そのような経験のうえで、私とは異なった角度から「モニュメント」の在り様をその創作活動を通じて探求してきた下道基行と一緒に、対話と思考のためのr:eadという場で、記念碑的な作品づくりではなく、現状を徹底的に共有することで新たな展開の可能性を模索してきた。お互い35歳という年齢に達し、これまでの約10年を振り返りつつ、その先へと向かうためには充分な刺激を与えてくれる隣人たちとの時間はとても貴重だった。下道のことばを借りるなら、「未来において開封されるべき」新たなモニュメントの在り方を探求してきた。なにか大きな結果をこの場で生み出すよりは、その思考過程をとにかく吐き出していくことを意識した。まだ確信が持てないような孵化したての脆いアイディアを、敢えてアートのプロフェッショナルである隣人たちにとにかく躊躇せず開示することで、迷いや違和感、怪しさまでも共有しながら、新たな途を探り続けた。作品や展覧会のように高次に結晶化したものを求められることなく、そうではない「もやもや」やモニュメント的な状態に至っていないものを開示することを議論にあげることを求められるのは非常に刺激的な経験だった。安易に理解できると思われる結果のみが求められやすい現在の社会において、そうではない試行錯誤や不可能であることや失敗までを肯定できるこのような小さな抵抗の場がもっと公につくられていかなければならないはずだ。紛争などは、お互いが向いている方向が少し違っていることや、些細な事柄の不理解が引き金となって引き起こされる。r:eadのような場は、大きな総意や神話的感動を生み出すわけではないので、一見不毛に思われるかもしれないが、このような小さな抵抗の現場にこそ、諸問題に対する異なった解決法を提示できる可能性は開かれているかもしれない。アーティスト・イン・レジデンスとはそもそもそのような創作のプロセスに意識的になるためのアンモニュメンタルな場であるはずだ。そのプロセスに最大の価値を置くこのような場が、最も純化されたオルタナティブなアーティスト・イン・レジデンスの方法として、様々な場所でそれぞれの方法で築かれ発展していくことを切に願う。